goo blog サービス終了のお知らせ 

素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

菊池政史著『テレビは総理を殺したか』(文春新書)を読む

2011年06月14日 | 日記
著者略歴によると、菊池さんは43歳。1993年に日本テレビに入社して政治部に配属され、旧社会党、自民党など各政党を担当し、2005年から総理官邸クラブキャップ、2007年から政治部デスクを歴任。2008年からは編成局所属とある。ちょうど自民党一党支配という構図がくずれ始めた頃から政権交代を経て現在にいたるまでの過程をメディア側から間近に見てきた方である。

 支持率に代表される「世論」の影響力を無視できなくなってきた政治の世界と同様に、その世論形成の鍵をにぎるテレビ報道も視聴率競争の波が押し寄せ、番組作りに求められるものも変化せざるを得なくなった。政治とテレビのそれぞれの世界の潮流の変化の中でお互いに持ちつ持たれつの微妙な関係を主観的に、率直に書いている。

 氏は、テレビがもつ特性として“刹那的なセンセーショナリズム”をあげている。日常の番組では、時間的制約があり、政治家の言葉はワンフレーズかツーフレーズしか放送できない。したがって、番組制作者は、短くて分かりやすく、刺激的なフレーズを意図的に切り取って放送する。このことを最大限利用して、5年5ヶ月という長期間在任したのが小泉純一郎。切り取られたがゆえに、自分の意図と違う内容となって流されたことに不快感、不信感を持ちうまく利用できなかったのが安倍、福田。

 もう1つの特性が“放送の繰り返しによる強力な波及効果”である。印刷物と異なり、テレビは、関心のない人たちに対しても何気なく映像と音声は伝わり浸透していく。その伝播能力はすさまじい。刹那性は、繰り返し放送されることによって、持続性を持つようになる。氏は“あとがき”で自戒をこめてこう書いている。

 『・・・それでも記者のはしくれとして、政治との向き合い方を、切実に考えさせられた時がある。それは現場で小泉政権の取材にあたっていた時期だ。いつしかテレビ自体が小泉旋風に巻き込まれ、私自身、途中でその危うさに気づきつつも、政権末期にいたるまで熱狂状態を抑制することができなかった。“権力の監視が使命”といいながら、結局、郵政選挙での小泉圧勝に一役かってしまったという現実から、“人を動かし統制する”権力の怖さを改めて実感したしだいだ。
 大学で学んだファシズムや、戦前日本の戦争礼賛のような政治的熱狂や沈黙の状態は、決して歴史の中の事象ではなかったということだ。多くの人間が反省し、学問の世界で検証され、誰もが二度と起こしてはいけないと語り継いでいるこの状態を、規模の違いこそあれ、やはり我々は繰り返してしまった。しかし、ただ反省と落胆を重ねるだけではなく、この実体験を通して、現代における政治的熱狂や沈黙のメカニズムを検証できれば、行き過ぎを防ぐための何らかの対症療法を見出せるかもしれないとポジティブに発想を転換したことが、本書を書き始めた動機である。・・・・・』


 本書を通じて、2つのことに対して用心深くないといけないように思った。『二極対立の鮮明化』と『多数決至上主義』である。そのことを端的に語っている部分を抜粋する。

 『・・・小泉以前の多数決は、田中政治で見られたように、根回し、談合による事実上の全会一致だ。より多くの人たちが、なんとなく満足する最大多数の最大幸福である。小泉の多数決主義は根回しなしの二者択一。そして、敗者は勝者への絶対服従が求められる。小沢が最初にチャレンジして完成させることのできなかった、多数決型民主主義を完成させたことになる。
 小泉が実現した、この純粋な多数決は、合理的だが劇薬だ。緊急な政治課題を短時間で解決するための一手段であるということを、我々は認識する必要がある。だからこそ、大衆が革命的な変革を求めた状況において可能となる。小泉政治が、長年、永田町を支配してきた田中政治の二重権力構造を破壊するという政治課題を、短時間で実現するためには、有効な手段だった。この劇薬は、道路公団の改革、公共事業の削減、郵政改革など、イエスかノーかと選択を迫られれば、多くの国民がイエスだと答える、古きシステムの破壊には支障なく作用した。
 しかし、改革とは破壊の次に新たな創造を必要とする。新たな価値観、新たなシステムの創造において、果たしてこの“純粋な多数決”が有効かどうかは議論の余地がある。いや、むしろ、弊害が大きいのかもしれない。・・・』


 今、この手法でメディアを最大限利用しているのが、名古屋の河村市長と大阪の橋下知事である。政治の主体は政治家でもなければテレビ、新聞などのメディアでもない。あくまでも一人ひとりの国民である。政治の主体といっても個人はちっぽけな存在である。しかし、主体であり続けるためにも、菊池さんの言うところの“〈冷めた視線〉ではなく〈熱いけれども冷静な視線〉”をもって、政治と新たな権威となってきたメディアをチェックしていく必要がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする