素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『弘兼憲史の人生を学べる名画座』では

2011年01月08日 | 日記
 漫画家の弘兼憲史さんは、子供の頃から父親に手を引かれてよく映画館に通っていたみたいだ。特に、漫画家を目指して会社を辞めた時期は、年間に200本、多い時は1日に8本も映画を観たこともあるというから相当なものだ。

 映画を作る人、漫画を描く人、物語を創り出す人というのは、かつての古典のような作品からインスパイアされ、それに自分の色をつけていくという方法を取ることが多いと思います。子供の頃から見てきたもの、感じたものをベースにして、自分なりの物語を構築していく。自分が見たもの、感じたものを「自分の中の引き出しにしまう」という作業ができるかできないかで、創作能力は変わるのだと思います。 と本のまえがきで書いている。このことは教師として生きていく上でも大切なことではないかと思う。毎年、多くの生徒とその保護者と出会い、人生の一場面を共に歩むわけだから“自分の引き出し”に何が入っているかということが問われると同時に“自分の引き出し”にしまっていく大切なものにも数多く出会う機会も多い。この“引き出し”の多さこそが“教師力”と呼べるものではないかと思う。

 弘兼さんは、“引き出し”の中に、なにかをしまえる映画のことを「名画」と呼び、今まで観てきた様々なジャンルの中から20作品を選び『人生を学べる名画』と題して出版した。5,6年前に興味深く読んだのだが、今回「七人の侍」をじっくり見る機会を与えられ、そういえばとふと思い出し、本棚から取り出した。

 『荒野の七人』(1960年)は「七人の侍」(1954年)をリメイクした作品であることはよく知られている。弘兼さんが選んだ20作品の中に『荒野の7人』も入っている。当然、この作品を語る時は原作のことにもふれている。内田さんの視点と合わせて、もう一度読んでみると新発見があった。その部分を抜き出すと

 『荒野の七人』でまず面白いのは、『七人の侍』にも描かれていた、七人がだんだん集まってくる過程です。一癖も二癖もあるようなメンバーを、クリス(ユル・ブリンナー)とヴィン(スティーブ・マックイン)が「三人」「四人」といった感じで指を立てるのですが、その仕草が実に様になっていました。そしてそれを、原作の『七人の侍』と重ね合わせてみると余計に面白いのです。

 リーダーのクリスは勘兵衛(志村喬)、ナンバー2のヴィンは五郎兵衛(稲葉義男)、薪割りをしていたオレイリー(チャールズ・ブロンソン)は平八(千秋実)、ナイフ投げの名人ブリット(ジェームズ・コバーン)は久蔵(宮口精二)となっているのですが、三船敏郎演じた菊千代というキャラクターは木村巧演じた勝四郎と一緒になって、ホルスト・ブッフホルツがチコという役名で演じています。

 『七人の侍』の二つのキャラクターが一緒になった分、『荒野の七人』ではいつも三つ揃いで決めている心身症のような状態のリー(ロバート・ヴォーン)と、ひたすら金だけを目当てにしているハリー・ラック(ブラッド・デクスター)が登場しているのですね。

 この映画のように、チームを作ってなにか一つのことを成し遂げようとする場合、「オッドマン・セオリー(Oddman theory)」という論理があります。オッドマンというのは、奇妙な男、あるいは間抜けな男という意味で、「チームというものは、間抜けなやつが一人いたほうがうまくまとまる」というセオリーです。

 『荒野の七人』ではチコ、『七人の侍』では勝四郎がオッドマンなのですが、全員が全員エリートばかりだと、息の抜きどころもないし意見が対立してしまって事が進まない。ですから、集団の中に一人だけいる間抜けな奴は、組織にとって非常に大切な役割なのです。このオッドマン・セオリーを、黒澤も意識したのでしょう。


 1つのものさしではなく複眼の目を持って、組織、集団、チームを見ていくならばもっと個々の持っている“善さ”が生きてくるということを忘れないことが大切。 
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『七人の侍』の組織論

2011年01月08日 | 日記
 1つのチームというものを考える時、内田樹さんのブログにある《『七人の侍』の組織論》という文がとても参考になると、ブログをプリントアウトしたものと『七人の侍』のDVDをいただいた。私も学年経営の時、チームの発想が大切だと20年近く念仏のように唱えていたし、実践の原点であり続けた。

 3時間にもおよぶ大作なので、暇とはいってもゆっくり落ち着いて見る機会はなかなかないぞ。と思っていたら、ひょんなことで昨夜は誰にも邪魔されることなく集中できる時間が舞い込んできた。部分部分は見ていても通しで見たのは初めてであった。まさに内田さんの言っている通りだし、私の経験の中で思ってきたこととも一致する。内田さんのブログは長いのだが、特に関係する部分をコピーさせてもらった。(内田さんは自分の書いたことは自由に使ってもらって良いと公言されているので甘えさせてもらった)

 今度会う機会があれば、このことにもっとからめて組織論についておしゃべりしたいものだ。きっとつきることはないだろう。こういう瞬間に“幸せ”を感じる。

Seven Samurai Akira Kurosawa"He who thinks only himself will destroy himself ,too."


 もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。 これは私の経験的確信である。

 それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。

 その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。この七人の集団は考えられる限り最小の数で構成された「高機能集団」である。

 その構成員はまず「リーダー勘兵衛」(志村喬)、「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、「イエスマン七郎次」(加東大介)。7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。

 「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。 

 その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)と「トリックスター菊千代」(三船敏郎)もなくてはならない存在である。自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。

 トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。

 菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。

 七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。

 平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」

 五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。

 だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。

 組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。勢いに乗って勝つことは難しいことではない。勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。

 しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。

 「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。

 そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。

 彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いて いる「隠されたミッション」である。

 なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
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