素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

「おっせかい教育論」第一夜の教育談義終わる

2011年01月05日 | 日記
 第一夜 はナカノシマ大学キックオフ記念セミナー『21世紀は街場で学べ!』をテーマに鷲田・釈・内田・平松の4氏が教育談義をひろげた。その中で、「うん、これは鋭い」と思ったフレーズをひろってみると

 ●内田さん●学校教育が今、歪んでしまったのは、教育活動を行なうのは共同体の利益のためではなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まってしまったからだと思います。

 ●鷲田さん●遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、自分たちが何かをすることでその空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を自分たちで作っていかないと、原っぱでは遊べませんよね。そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。「原っぱとしての学びの場」がね。

 ●鷲田さん●本人の思いとは食い違うことが多いんですが、家族の希望とさまざまな相容れない考えが錯綜するという、正解のない場で、方針を決めていかなければならない。人生だってそうですよね。人生で一番大事な問題ー生きていることの意味とか働くことの意味、あるいは「私とは誰か」なんて、歳いったって結局最後までわからないことの方が多いですよね。でも、そういうものにこだわりながらしか、われわれは生きられない。だから、答えがないままにどう生きるか、どう行動するかという“勘”・・・と言ったら変ですけど、「こっちや」という勘が働くような人を育てないといけないとおもうんですよ。

 そして 「ナカノシマ大学も“教えたがり”をいっぱい作って、いっぱい散らばってもらう、そういう場になれば楽しそうじゃないですか。街の学び場として、ヘンなことに夢中になっている人とか、怪しい人とか、好きで学んでいる人たちが集まっている場所にしましょう。“商品のような教育”から外れた方向で。」 と釈さんがまとめられて第一夜のキックオフ談義は終わった。

 その後に、鷲田さんが“中入り”として《「期待」の中点~「おせっかい教育論」への一視角》という一文を寄せている。最初に鷲田さんの高校時代や大学時代のことにふれられていた。それを読んでいた時、私の経験と似ていると直感した。毎日新聞に“都市の微熱”という題で鷲田さんの連載があり、愛読していた時、勝手に70代の哲学者とイメージして、思い込んでしまった。その思い込みはまちがいじゃないかとハッと思い、いそいで略歴をしっかりみると、「1949年京都生まれ」とある。私と2歳しか違わない学年でいえば1つか2つだけ上。ほとんど同世代だったんだとショックをうける。 何をいまさらと言われるかもしれないが、時々“自分の年齢の自覚”をなくすことがある。その一例なのである。気をつけなければと自戒した夜になった。
コメント
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