素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

鷲田さんの中入り「期待」の中点より

2011年01月06日 | 日記
 交野は11日が始業式だが、枚方は明日が始業式である。あわただしい日々が始まる前に、教育のことを中心に歓談できる機会がひょんなことからできた。年末年始の空気に飽きて来たところで、心と脳に心地よい刺激を受けた。話をしながら、今読んでいる『おせっかい教育論』の鷲田さんの“中入り”の内容とリンクすることが多いと感じた。

 今の現場では“学力向上”への取り組みが性急になされていて、教育実践をとらえる視点が狭くなっているという危惧。

鷲田さんはそのあたりのことを 「“まなび”というのは知識の習得のことではない。人に何かを諭されることだ。口で、ではない。その人のふるまいや佇まいに諭される、そういう経験のことである。諭されるという言葉が硬ければ、ベルグソンにならって、だれかとの出会いのなかで自分が“打ち開かれる”経験だと言ってもいい。」と書いている。

 教師と生徒の“まなび”の関係でも教師どうしの“まなびあう”関係においても、こうすればよいという絶対的な方法はないし、言葉でうまく伝えることもできない部分がある。教育は簡単ではないという自覚を持たなければいけないのでは。

鷲田さん曰く「子どもは大人が口にする言葉をまっすぐに聞くのでもなければ、そのふりをただまねるのでもない。その姿、その佇まいを、後ろから しかと見ている。生きるうえでほんとうに大事なことは、こういう姿、こういう佇まいをつうじてこそ伝わっていく。高校時代の先生のことを思い出しながら、背中の持つ意味は大きいとあらためておもう。背中を見ながら、何かを学ぶのではなく(知識はじぶんで調べるしか方法がない)、スタイルを学ぶのである。《知》の使い方のみならず、《知》がそのひとのなかで占めている位置まで、見てとるのである。その位置を不審におもわれた教師には、たぶん以後信頼は寄せられることはない。」

 今の時代、子どもたちや教師に向けられている“期待”は、期待されすぎ と 期待されなすぎ という両極に引き裂かれているような感がある。そのぶれの中で翻弄され生きにくさを募らせているのでは。

 鷲田さんは、期待の過剰と期待の過少の両極端ではなく中間の緩衝地帯~心中ほのかに期待しながら、「悪いけど、それほど期待しているわけじゃあないからね」と口にするような、絶妙に中途半端な期待~の必要性を説く

 見て見ぬふりをするのではなく、見ないふりしてちゃんと見ているようなまなざし。かつての職住一致の生活空間には、そのようなまなざしが、まなざしとして刺さないよう気づかわれつつ、そこここに充満していた。

 生徒が通学すると学校はいきいきとしてくる。学校生活の1年をしめくくる3学期。気持ちよく終えることができることを祈るのみ。
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