地下鉄鶴舞線が下を通る山王通を南北に挟んだエリア、御器所駅~荒畑駅周辺には、かなり本格的な洋館が付属した住宅が残っています。
この界隈は洋館部分の規模も大きく、デザインも多様なグレードの高い住宅が健在なので、見ごたえがあるエリアです。
まずは山王通北側、東畑町・緑町エリアの一部洋館住宅を訪ねました。
■山王通荒畑東の信号を北に向かってすぐにある本格的な洋館住宅
日本家屋の前面にかなり大きな洋風の玄関と洋館が張り出し、通りに面したファサードを飾ります(東畑町)
■住宅の隣には石貼り風の大きな蔵も付属しており、この界隈でもかなり規模の大きな邸宅です
敷地内に医院の看板が設置されているところから、旧医院の診療所と本宅だったのでは?
■洋館部分は多角形のベイウインドウ(出窓)が張り出し、妻壁の幾何学模様の装飾が洋館らしさを演出
■バージボード付の三角屋根の玄関と、出窓の木製の窓枠に腰のタイルが効いています
■和風の母屋と急勾配の屋根を配した洋館部分のバランスが絶妙で、大正~昭和の中流モダン住宅の典型です(緑町)
■洋館部分にまだ当時の下見板が健在なのは嬉しい所です
■上の住宅に比べると規模が小さく庶民のモダン住宅といった風情(東畑町)
■小さいながらも二連ガラリのある洋館部分は、サッシや外壁の改修はあるものの今も大切に使われている様子
撮影:2014/11/23
環状線から東側の北山町のエリアにも戦前のモダン住宅が残っています。
■ミニ洋館付の二軒長屋
■こちらは同じ形式の四軒長屋・ミニ洋館付
現在これだけの敷地があればマンションになるところですが、当時は同じ間取りの戸建住宅(それも平屋)が建てられました。
このあたりの戦前からの古い住宅地も急速に開発が進み、マンションや駐車場になっているようです
■向かって右から2軒目が窓枠も木製のままで、当時の姿がしのばれます
■入母屋造りの日本家屋にミニ洋館部分が飛び出しています
■妻壁の換気ガラリ2連装タイプです
撮影:2014/11/23(昭和区北山町)
地下鉄桜通線の吹上駅から御器所駅間、環状線を挟んで東西に延びる北山町には比較的保存状態の良い一部洋館住宅が今も残っています。
木製の窓枠がサッシに、外壁がトタンなどに改修されている住宅もありますが、当時の面影を残しながら大切に使われている様子がうかがわれ、日本家屋にミニ洋館が付属した、大正~昭和に流行した典型的なモダン住宅の形態を見ることができます。
まずは北山町の環状線より西側エリアに残る大正~昭和の洋風住宅を紹介します。
■典型的な戦前の一部洋館住宅
■窓枠はサッシに変更されていますが、当時の外観をとどめています
■同じ形態の住宅が並ぶ「洋風二軒長屋」
■向かって右側の住宅の洋館部分は、ほぼ当時のままの外観を保っています
■洋館部分の妻壁に施された、植物をモチーフにした装飾が見どころ
■通りに面した一番目立つ位置に洋館が建っています
■この当時の洋館のお約束、妻壁の換気ガラリがワンポイント、鬼瓦の意匠も面白い
採集場所:昭和区北山町
■北山町の南隣鶴羽町の一部洋館住宅
■荒いドイツ壁にハーフティンバー風の木枠の装飾が良い味です
撮影:2014/11/23
地下鉄吹上駅の南西、吹上公園の南側一帯の曙町界隈には昭和の雰囲気が残る古い商店が残っています。
曙町からさらに南側の地下鉄御器所、荒畑駅周辺は、大正~昭和にかけて開発された戦前の新市街地で、現在もその当時に建てられた一部洋館建の住宅が点在しています。
■吹上小学校南側の昭和な香りの漂うたばこ屋さん(昭和区曙町)
■西側は木造下見板張りながら、通りに面したファサードには当時流行のタイルを貼ってモダンな外観を演出
■この煙草屋さんの一角には昭和にタイムスリップしたような懐かしい風景が今も残っています
■曙町には戦前築と思われる古い商店が今も残っています
■北山本町1の交差点に残る古い和風の商店建築(昭和区北山本町)
■曙町の南側一帯には戦前からの古い住宅街が広がります
こちらのお宅は、ドイツ壁と換気ガラリが特徴的な一部洋館住宅(昭和区雪見町)
撮影:2014/11/23
揚輝荘・聴松閣の見学を終え、地下鉄の覚王山駅~吹上駅~御器所駅~荒畑駅方面まで住宅街を歩きました。5年ほど前に瑞穂区桜山界隈の大正~昭和の洋風住宅めぐりを敢行したのですが、今回は千種区、昭和区を中心に戦前の洋風住宅を探索しながら町歩きを楽しみました。このエリアは大正以降住宅開発が行われた地区の一つで、全体は和風ながら玄関脇に小さな洋館や応接間を付けた文化住宅形式の住宅が今も残っています。
まずは覚王山駅から南西へ吹上駅の東春岡通りまで、名古屋市の近代建築調査書を片手に歩いてみましたが、なにせ調査から15年近くが経過しており、多くの住宅が取り壊されて駐車場やマンションに姿を変えたり、新築に建て替えられたりしていました。それでも数は少ないながら、まだ当時の姿をとどめる洋風住宅が現在も残っていて嬉しくなりました。
■急勾配の半切妻屋根が洋館らしさを演出(千種区丸山町)
■軒の持ち送りとハーフティンバー風の妻壁が特徴のかなり本格的な洋館(千種区丸山町)
■住宅街の路地で出会った小さな昭和(千種区丸山町)
■半切妻の屋根と換気ガラリに昭和が薫る(千種区春岡)
■玄関が洋風のいわゆる文化住宅形式の三軒長屋(千種区春岡)
■玄関のバージボード(軒板飾り)は戦前の木造下見板の洋館によく見られた手法です
地階の南側には、インド・イスラム風のインテリアで統一された旧舞踏場(現多目的ホール)があります。
祐民が仏跡巡拝旅行で感銘を受け、東南アジア・インドのイメージを形にした旧舞踏場の舞台では、当時能狂言や舞踏などが催されました。
■舞踏場に入るとすぐ左手に半円形の舞台があり、右手(西側)に多目的ホールとして使用されている空間が広がります
■柱頭部や梁には蓮華模様、柱基底部にはインドアーグラ宮殿に見られる植物模様など、舞踏場全体にインド・イスラム様式の装飾が施されています
■舞台の西側に広がるホール
■南側窓ガラスには、ヒマラヤ第三峰カンチェンジュンガの雪嶺のレリーフが施され、日光やライトで浮き出させる工夫が凝らされています
■北側にはバーカウンターを設けたドリンクコーナー
■西側暖炉上の女神像のレリーフは、仏跡巡拝旅行で訪れたカンボジアのアンコールトムの彫刻を模したもの
■暖炉左には算盤状の連子窓、その隣には瞑想室の入口があります
■舞踏室南西角に設けられた「瞑想室」
西側壁面にはモザイクタイルが貼られ、アーチの中心には女神の石像があります
※揚輝荘・聴松閣については、邸内の説明板・パンフレット・「揚輝荘の窓・第2号」などを参考にさせていただきました
聴松閣は1~2階の各部屋で、山荘風や中国風など多様な様式が楽しめますが、何と言っても見どころは地階にあるホールと旧舞踏場です。施主の伊藤祐民は昭和9年、東南アジア・インド方面に仏跡巡りの旅に出かけます。祐民はこの旅行でインド・イスラム文明に触れ、強烈な感銘を受けすっかりインドにハマってしまったのです。
そして帰国すると早々、ちょうど工事が始まっていた聴松閣の地階を、彼のなかで強烈に焼き付いたインド・イスラムのイメージ一色に設計変更したのです。なにせ松坂屋の創業者ですから、建築費用を気にすることもなく、インド古代文明の壁画やインド・イスラム様式の紋様や装飾などで聴松閣の地下を埋め尽くしました。そして祐民の夢を形にしたユートピア、「揚輝荘・聴松閣」は名古屋覚王山の地に花開いたのでした。
■1階~地下に続く階段を下りると、そこには祐民の夢を形にしたインド・イスラム様式のユートピアが広がります
■階段の親柱も古代インド文明風
■南北に延びるホールの壁画コーナー
■ホールの壁画はインドの留学生が描いたインドアジャンタ石窟の写しで、釈迦生誕の物語が描かれています
■中央に座っているのが釈迦でしょうか?
■ホール北側突き当りには地下トンネルの南入口があります。
トンネルはT字型で総延長170m、聴松閣と要人らが寝泊まりした有芳軒を地下でつなぎ、分岐点部分には八角形ドームがありました。
現在はマンション工事で大部分が取り壊され、「聴泉窟」の銘板がある東入口がかろうじて残っています。
■地下トンネルの入り口も古代インド様式の装飾があるアーチ型。
トンネルをつくった目的は、防空壕説や要人の隠れ家所説など諸説あるようですが、現在も定かではありません。
まるで横溝ミステリーの舞台に出てきそうな豪邸の秘密の地下トンネル。
戦前の洋館ならではのロマンが広がるエピソードで、トンネルから金田一さんが出てきそうです
■旧応接室(展示室4)~英国山荘風のインテリアで統一
■各部屋にはそれぞれデザインが異なるマントルピース(暖炉周辺の装飾)のある本格的な暖炉が設けれられ、見どころの一つになっています
旧応接室の暖炉周りはタイルと石材を貼り付け、山荘風のイメージを演出
■暖炉脇の丸窓がモダン
■旧寝室B(展示室5)~こちらは天井や壁の装飾を中国風にしています
■各部屋の床は寄木貼りですが、それぞれデザインを変えるこだわりようです
■マントルピースのデザインも中国風テイスト
■天井の木彫の装飾
■旧サンルーム(展示室6)
■旧寝室A(展示室7)
■旧寝室の奥にある和室~かなり改修されている様子です
■階段を上がるとホールが南北に延び、書斎や応接室、寝室が配置されています
■ホールの窓枠のデザインも凝っています
■2階ホールの天井は吹き抜けで、開閉のできる折りたたみ戸により天窓からの採光が可能です
■階段を上がるとすぐ左手にある旧書斎
■旧書斎(展示室3)~書棚と照明は造り付け、天井は船底天井で、床は当時としては珍しいプラスチックタイルの市松張り