かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

旧土岐津陶磁器工業協同組合・旧土岐郵便局(岐阜県土岐市)

2013-05-27 | 失われた建物の記憶

JR土岐市駅の南側、土岐川沿いに広がる昔からの土岐市の中心街にはほとんど戦前の近代建築は残っていませんが、県道69号線と、県道421号線が交わる土岐津町土岐口界隈にはかつて素晴らしい近代建築が残っていました。
現在はコンビニ(セブンイレブン)になっていますが、数年前まで中央橋南交差点の角には、昭和初期に建てられた2軒の対照的な近代建築が道路を挟んで建っていました。
その2軒とは、昭和モダンなタイル貼りの土岐津陶磁器工業協同組合(昭和9年)と、木造下見板張りの旧土岐津郵便局(昭和10年)で、その一角だけは昭和の街角から抜け出てきたような風景が残っていました。

今回は訪問前の下調べで、コンビニになっているのは事前に承知していましたが、やっぱり現地に来てこの目で見ると、2軒の建物はきれいさっぱりなくなり、コンビニの前の広い駐車場に立って思わず「あ~あ」と ため息をついてしまいます。
かつては土岐の中心として栄えた、戦前の土岐津町の面影を残す唯一の建物だっただけに非常に残念です。

街角の風景は時代とともに移ろっていきますが、昭和の面影を残す古い建物が消えた跡に平成という時代の象徴ともいえるコンビニが建つ。
まさに日本中どこの町でも見かける日常の光景ですが、こうしてまた「昭和の街角」は消えていくのでした・・・・合掌

まちの歴史を語る建物がどんどん少なくなってゆく現在、今の若者たちの50年後が、「そういえばあの角にむかしコンビニがあったよねえ~」などという会話ではあまりにも寂しい。
しかし今のわたしにできることといえば、街角に埋もれた大好きな近代建築をコツコツと発掘し、このブログを通じて皆さんに知っていただくことぐらいですが、一軒でも多くの記憶に残る建物が保存活用されることを願いつつ、これからもオッチャンの建築探訪は続きます。
とはいえ、まち歩きの後で飲む冷えたビール(最近は第3のと付く場合も多し)も大きな楽しみのひとつですが・・・乾杯!


■旧土岐津陶磁器工業協同組合/昭和9年(1934)竣工
当時流行の表現主義風のデザインを取り入れた建物で、ファサードは全面スクラッチタイル貼り



■玄関上部の4本の付け柱がインパクト大で垂直性を強調しています
ちょっとゴシックっぽい雰囲気も見る者に強い印象をあたえます



■敷地内にあった戦前の内務省の石柱



■旧土岐郵便局/昭和10年(1935)竣工
土岐津陶磁器協同組合の向かい側に建っていましたが、撮影時(平成12年)にはすでに移転して空き家状態でした



■いかにも「昭和の町の郵便局」といった風情が漂う



■玄関ポーチの鬼瓦には、お約束の逓信省の〒マーク



■東側にある明楽寺橋(昭和14年竣工)からの風景~奥に郵便局が見えます



■現在の明楽寺橋~特徴的な当時の親柱も健在で、南側には歩道が新設されています



■明楽寺橋の歩道から西側を望む
向かって左手がコンビニ、県道69号線を挟み右側の白黒ツートンの建物が新築移転した現陶磁器工業組合
その西側の郵便局跡には新しい住宅が建っています

撮影:2013/04/28 


土岐市の建築散歩(3)~土岐市駅周辺

2013-05-25 | まち歩き

土岐市は平成12年以来、実に13年ぶりの訪問になりますが、戦前の古い建物が取り壊され、町の様子がかなり変わっていました。
JR土岐市駅の南側一帯は再開発が進み、特に森川歯科のある泉町久尻周辺は古い建物が取り壊され、やたらに空き地や駐車場が目につきます。
土岐川を渡った中央橋南交差点付近には、旧土岐郵便局や土岐津陶磁器工業協同組合の洋風建築が残っていたのですが、きれいさっぱり取り壊され住宅やコンビニに姿を変えていました。


中央橋南詰に残る古い和風住宅。二階の丸窓が素敵です。



二階の手すりに取り付けられた板の柵~西洋館の軒板飾り(バージボード)を逆さにした感じですが、かなり独創的です。



玄関脇に貼られた「衛生伍長」の琺瑯プレートは、旧日本軍関係でしょうか?



土岐市駅の北側、熊谷医院付近で見つけた古い民家。街中にポツンとこの一軒だけ残っていました。



空襲警報発令!この建物だけが戦時中にタイムスリップしていました。



土岐市駅南側の古い商店~2階の窓の上に三角ペディメントを造り、中央に幾何学模様を施します



撮影:2013/04/28


土岐市の建築散歩(2)~駄知町編

2013-05-22 | まち歩き


2階の連続する窓が良い感じです



現役なのが嬉しい昭和な煙草屋さん



壁に残された建物の記憶



旧駄知商業協同組合の斜め向かいにある千古乃岩酒造



裏手には土蔵造りの古い建物と丸ポスト



和風建築ですがファサードはタイル貼りです



肥田川沿いの和風住宅~地階?の窓廻りに洋風の意匠が見受けられます





どこか懐かしい製陶所の煉瓦造の煙突の見える風景

撮影:2013/04/28


土岐市の建築散歩(1)~駄知町編

2013-05-20 | 東濃の近代建築

土岐市駄知町には昭和の雰囲気を残す町並みが残っていて、のんびり古い建物を見ながらの町歩きが楽しめます。
先に紹介した旧駄知信用組合、藤本内科医院、旧駄知商業組合の建物は、駄知町を代表する戦前の洋風建築ですが、その他にも洋風、和風取り混ぜ多くの昭和な建物が残っています。


県道69号線沿いの駄知支所から南へ入ると、JAとうと駄知のすぐ東隣に木造下見板の古い住宅があります。
戦前の役所や学校を思わせる見事な下見板張りの洋風建築です。



下見板の洋館の南側の遊歩道(東濃鉄道駄知線跡)を西へ向かうと旧駄知信用組合の建物が見えてきます。
旧駄知信用組合の角を左折、川沿いにの道を南へ向かいます。



旧駄知信用組合の前の小さな橋に古い親柱が残っていました。
橋本体は架け替えられていますが、残された親柱には「あづまはし」と「大正15年5月」と刻まれています。
 


■古い防火用水?をプランターとして再利用



川沿いの道をさらに南下します。



永大橋のたもとでちょっと変わった建物を発見。ちょっと見は和風ですが・・・・



バルコニーの手すりは、橋の高欄のような和風デザインですが、柵が途中で切れているためまるでロウソクが並んでいるよう。
さらにその下には、小アーチが並ぶロマネスク様式のロンバルドバンド風の装飾が施してあります。


建物正面には美容院の看板がありますが、そんなに古い建物には見えません。



ところが川に面している美容院の裏側は、和洋折衷のかなり面白い構造になっています。





川沿いの建物の外壁は石積で洋風の縦長の窓が並び、一番奥はドイツ壁風にして窓の上に植物の装飾をあしらっています。





川沿いの道は西側に外れ、さらに南へ向かうと右手にタイル貼りの建物が見えてきます。



建物全体のシルエットは入母屋造りの和風ですが、ファサードだけはタイル貼りで2階の窓も縦長の洋風です。

撮影:2013/04/28


旧駄知商業協同組合(岐阜県土岐市)

2013-05-18 | 東濃の近代建築

藤本内科医院の西側を南北に走る通りの一本東側の通りに面して、タイル貼りのモダンな建物が建っています。
玄関のガラスに「駄知商業協同組合」と書かれてありますが、現在は使われていないようです。
こちらの建物も詳細は一切不明ですが、建物の様式から戦前物件と思われます。


◆旧駄知商業協同組合/岐阜県土岐市駄知町
 竣工:不明(戦前、昭和初期か?)
 構造:不明(RC造?)
 撮影:2013/04/28 


■建物南側~陶磁器の町らしく全面タイル貼りで、出入り口廻りだけタイルの色を変えています



■建物西側~外壁にはほとんど装飾は見当たりませんが、こちらの玄関上部には菱形の模様が施されています





■幾何学模様の装飾が昭和モダンな雰囲気を醸し出します


  


藤本内科医院(岐阜県土岐市)

2013-05-16 | 東濃の近代建築

 土岐市の中心部と駄知町を結ぶ県道69号線の丸山橋交差点から南へ延びる道路沿いに、下見板張りの西洋館が建っています。
 
 玄関には藤本内科医院の看板がかかっていて、建物の外観からは戦前物件(昭和初期あたりか?)の雰囲気が漂いますが、近代建築ガイドや調査報告書などには未掲載のため、建物の詳細は一切不明です。
 建てられてからかなりの年数が経過していると思われますが、下見板に塗られた淡いブルーのペンキも真新しく、保存状態は非常に良好で、オーナーが大切に使われている様子が建物から伝わってきます。

 土岐市には熊谷医院と森川歯科医院が現存しており、駄知町に残るこの藤本内科医院を含め、3件の戦前に建てられた医院建築が現存していることになります。
 藤本内科医院は、昭和の風景が残る駄知町の街角でもひときわ目を引くレトロな洋風建築のひとつで、長年風雪に耐え地域の医療を支えてきた姿は、愛らしくも頼もしい、まさに駄知町の原風景としてこれからも人々に愛されていくことでしょう。


◆藤本内科医院/岐阜県土岐市駄知町1953-2
 竣工:戦前(昭和初期?)
 構造:木造2階建
 撮影:2013/04/28 


■建物北側正面~淡いブルーの下見板に軒下の白壁が映えます
玄関ポーチの妻壁にはハーフティンバー風に木骨を見せています



■玄関脇には旧字体の『保険医』のプレートがそのまま貼られています
 


■建物西側~駄知町を南北に走る幹線道路に面しています



■建物東側



■西側の道路に架かる歩道橋から撮影~建物平面はコの字型で、南側には住居スペースと思われる日本家屋が建っています

 

■医院は駄知町を南北に走るメインストリート沿いに位置します



駄知小売商業協同組合/旧駄知信用組合(岐阜県土岐市)

2013-05-12 | 東濃の近代建築

JR土岐市駅のある土岐市の中心街から車で15分ほど南西に走ると、駄知町地区があります。
駄知町は山間の小さな町ですが、戦前から美濃焼き(陶磁器)の産地として栄え、特にどんぶりの生産で有名で、今でも往時の姿をとどめる昭和な街角の風景がそこかしこに残っています。

町の中心部にある駄知郵便局の交差点を南へ入ると、川沿いにレトロな外観の建物が建っています。
この建物は現在の東濃信用金庫の前身にあたる駄知信用組合(大正13年設立)の本店として昭和7年(1932)に建てられました。
その後駄知信用組合は駄知信用金庫(昭和26年)、岐陶信用金庫(昭和27年)に名称が変更され、昭和54年には多治見信用金庫、土岐津信用金庫と合併し、東濃信用金庫が設立されました。
昭和31年(1956)に信用金庫が新社屋に移転、現在は駄知小売商業協同組合の事務所として使われています。

昭和初期に建てられた信用組合の建物としては改変が少なく、金庫室や2階のホールなどほとんど当時のままの状態で残されています。
一近代建築ファンとしては、これからも陶磁器で栄えた戦前の駄知町を代表する建物として、末永く保存活用されることを願わずにはいられません。


◆駄知小売商業協同組合(旧駄知信用組合)/岐阜県土岐市駄知町1748-5
 竣工:昭和7年(19323)
 構造:木造2階建
 撮影:2013/04/28


■建物西側正面~外壁は黒く塗った下見板張りですが上部は縦に板を張り白塗りにして変化をつけています



■建物南側~2階の窓の上のペディメント風の三角形の木枠が外観のアクセントになっています(竣工時のものかは不明)



■玄関脇の丸ポストは1955年製で、過ぎ去りし昭和の時代を語っているようです
 


■外観を撮影していると、たまたま出勤された組合の方のご厚意で、建物の内部を見学することができました!
玄関を入ると信用組合当時の木製のカウンターがそのまま残っています



■組合の方のお話によると、元々は広いワンルームでしたが、現在はタイル貼りの円柱の後ろに壁を設け二部屋に分割して使用しています



■奥の部屋の北側には金庫室が設けられ、壁には頑丈そうな鉄の扉が二つ並んでいます



■金庫室の扉も当時のままで、金庫メーカーの登録商標「石垣発明」が時代を感じさせます
 


 
■金庫室は北側に張り出す格好で、建物とは独立した土蔵造にして防犯防火対策を施しています



■土蔵の壁に残る信用組合のマーク



■玄関から入って一番奥東側にある階段
 




■2階は広いワンルームでステージ(カーテンの奥)もあります~現在はそろばん教室として使われているとのこと



■消防で使われたらしい木製の箱が残されていました~何が入っていたのでしょうか?



■ステージの両脇には出入り口があり南側(下の写真奥)は階段室に通じます



■ドアの欄間風の透かし彫りも当時のまま残っています
 


■建物のすぐ南側には昭和26年に建立された駄知信用組合の石碑があり、組合の沿革などが詳しく刻まれています



■ちょっと懐かしい昭和の風景が今も残る駄知の街角




熊谷医院旧病棟(岐阜県土岐市)

2013-05-08 | 東濃の近代建築

JR中央線土岐市駅周辺には2軒の戦前の医院が現存しており、南側に森川歯科医院、北側に熊谷医院があります。
熊谷医院は初代院長、熊谷常次郎が明治35年に開業した土岐市では最も古い医院で、地域医療に貢献した常次郎は、町長から県議会議員を務めるなど政治面でも活躍した地元の名士です。

現存している建物は昭和10年に建てられたものですが、マンサード屋根という途中で勾配がきつくなる腰折屋根が特徴で、まるで北海道の牧場か高原のペンションが似合いそうな、医院としてはかなり珍しい外観になっています。

それではなぜ当時地方ではかなり珍しかったと思われるマンサード屋根が採用されたのか?
建物を設計施工した地元宮大工棟梁・山内藤蔵についてのエピソードが『近代を歩く/東海近代遺産研究会』という本に載っていました。
若くから土岐市で大工棟梁として独立していた山内藤蔵は、大正12年に東京を襲った関東大震災の復興支援のため上京しましたが、帰郷後姻戚筋の常次郎に頼まれ、熊谷医院の新築に携わることになりました。
その時彼がマンサード形式の屋根を採用したのは、東京で得た洋風建築のイメージがあったからではないかと書かれています。

ここからはわたしの想像ですが、棟梁は帰郷後の初仕事として医院新築を頼まれ、東京で最新の西洋医学を学んだ常次郎の医院にふさわしい、当時としては最新のモダンな洋風建築を建てようとはりきります。
おそらく上京した棟梁が震災復興としてかかわったもののひとつに、震災後の焼け野原の東京に建ちだしたバラック建築と、それが進化したいわゆる「看板建築」と呼ばれる洋風商店の建設があったのではないかと思われます。

看板建築には狭い敷地で部屋面積を稼ぐため(震災後は木造3階建が規制された)2階建+小屋裏が使えるマンサード屋根が多く使われていたので、棟梁の頭には洋風建築とえばマンサード(実際パリのアパルトマンの屋根はほとんどこれです)と、まずひらめいたに違いありません。

看板建築といっても、構造自体は従来の伝統的な木造商店と大きく変わらないので、設計施工もほとんど従来と同じ大工の棟梁が担当しました。(設計士や建築家は大きなビルの建設に忙しいので、個人の商店や住宅は必然的に大工の棟梁にまわってきます)

宮大工の棟梁にとって、新築の医院のデザインを洋風にするため看板建築を参考にするのはごく自然の流れで、ここに医院建築としては極めて珍しいマンサード屋根の医院が誕生したと思われます。


■マンサード屋根とは~
17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサール(いかにもフランス人っぽい名前です)が考案した屋根で、寄棟屋根の4面が途中で勾配がきつくなるのが特徴。天上高が大きくとれるため、屋根裏部屋を設けるのに適している。
厳密には途中で勾配がきつくなる屋根形式は2種類あり、寄棟屋根はマンサード、切妻屋根はギャンブレルと使い分けていて、熊谷医院は明らかにギャンブレル屋根ということになるのですが、ここでは看板建築との関係上あえてマンサード屋根と表記しています。

■看板建築とは~
関東大震災後、その復興過程で商店などに用いられた建築様式で、当時東京大学の院生だった藤森照信氏によって命名。
従来の伝統的な商店建築様式である蔵造や出桁造とは異なり、ファサードを平坦にし、洋風指向の自由なデザインが試みられた(『看板建築/藤森照信著』参照)


■建物東側~外壁は下見板張りペンキ塗りですが、上部はドイツ壁風のモルタル塗にして変化をつけています



■公園に面した建物北側~1・2階は病室、3階(屋根裏)はマンサード屋根を生かした物置として利用されたようです



■西隣りにはタイル貼りの瀟洒な医院が新築されていますが、旧医院も大切に保存されています



◆旧熊谷医院病棟/岐阜県土岐市泉郷町4-1
 竣工:昭和10年(1935)
 設計・施工:宮大工棟梁・山内藤蔵
 構造:木造2階建
 撮影:2013/04/28


森川歯科医院(岐阜県土岐市)

2013-05-05 | 東濃の近代建築

ゴールデンウィークの前半、4月28日・29日の二日間で、陶磁器産業で栄えた岐阜県東濃地方の土岐・多治見を訪れました。
この地方を訪れるのは実に10年以上ぶりくらいで、前回訪問時の建物の現存確認と、あわよくば新物件発見も期待したいところです。
まずはJR土岐駅のすぐ南側にある森川医院、現在も前回訪問時と変わりなく健在でした。

◆森川歯科医院/岐阜県土岐市泉町久尻4
 竣工:昭和11年(1936)
 構造:木造2階建
 撮影:2013/04/28


■東端のタイル貼りの玄関は増築でしょうか?



■南西側より~屋根の端っこの小さな煙突が如何にも戦前の洋館らしいところ



■南側に大きく張り出したサンルームがおしゃれです



■御影石の門柱に旧字体で刻まれた医院名が今もそのまま残っています