かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

タイガー商会(名古屋市千種区)

2016-05-14 | 失われた建物の記憶

徳川園から東へ向かい中央線沿いを南下、千種区豊年町の内山小学校のすぐ北側にあるタイガー商会を訪ねました。
タイガー商会は1921(大正10)年創業、昭和30~40年代に一世を風靡したあの「地球ゴマ」を開発製造した会社です。
わたしも小学生の頃に、当時としてはかなり高価な「地球ゴマ」を買ってもらい、指の上でまわしたり綱渡りをさせたりして夢中で遊んだ記憶があります。 
当時少年少女だった皆様は、一度は目にしたり遊んだ機会があったのではないでしょうか。
それほど大ヒットした商品だったのですが時の流れには勝てず、職人さんの不足と高齢化から2015年4月、地球ゴマの生産は終了になったようです。
 

■白く塗られた外壁のモダンな本社と、隣接する木造の建物は今も健在
 戦前からの歴史のあるタイガー商会の往時の姿を伝えてくれます








◆タイガー商会/愛知県名古屋市千種区豊年町17−15
 竣工:戦前期(大正末~昭和初)?
 撮影:2016/05/01 

この撮影後すぐに取り壊し情報をいただき、現在は更地になっているそうです。
間一髪なんとか最期の姿をカメラに収めることができたようです。 
このところ取り壊し情報を相次いでいただいております。
諸般の事情でしょうがないとは言え、そこにあるのが当たり前の街角の風景が突然消えてしまうのは本当に残念です 


松阪地区医師会館/旧松阪水力電気(株)本社(三重県松阪市)

2015-05-23 | 失われた建物の記憶

松阪工高から城下町の風情を残す町並みをさらに南へ向かい、今回の松阪近代建築探訪の大トリ、白粉町にある松阪地区医師会館を訪れました。古い町並みにひときわ輝きを放つこの建物は、大正初期に松阪水力電気(株)の本社として建設されました。典型的な初期の鉄筋コンクリート建築で、外壁や外周の柱は鉄筋コンクリート、2階床や屋根は木造になっています。

角地に建つ建物はコーナーを丸くし、そこに出入り口を設けたいわゆる隅丸(すみまる)建築で、玄関両脇に2階分の高さの古典様式のオーダーを配してファサードを強調しています。外壁はコンクリートと煉瓦タイルのコントラストが絶妙で、玄関上部のパラペットや2階窓下の逆三角形や方形の装飾、玄関庇の持送りなど細部に大正期ならではのアールデコの影響が感じられます。

江戸の風情が残る古い城下町の片隅に残る大正のアールデコ建築は、歴史を重ねながら今なお西洋館特有の妖しいオーラを放ち、その圧倒的な存在感でわたしたちを魅了してくれます。


■建物正面~隅丸の玄関まわりの装飾が見どころ



■建物側面


■細部に宿るアールデコの装飾


       


◆松阪地区医師会館/旧松阪水力電気(株)本社(三重県松阪市白粉町363)
 竣工:大正2年(1913)頃
 構造:RC造2階建
 撮影:2015/05/03 


旧小幡発電所(名古屋市守山区)

2015-03-04 | 失われた建物の記憶

 名鉄瀬戸線喜多山駅の北側にあった旧小幡発電所は数年前に取り壊されましたが、今回1月の瀬戸訪問の帰りに車窓から更地になった跡を確認できました。この建物は瀬戸電気鉄道が動力用の電力供給のために建てた自前の発電所で、全国でも珍しい現存する明治期の火力発電でした。その後電力会社の電力供給が安定し、変電所に改造され昭和53年に廃止されるまで現役で稼働していました。

 建物は明治期の発電所によく見られる煉瓦造で、木造の建物が棟続きになっていました。下の画像は2006年に訪れた時のものですが、建設から100年、廃止されてから30年近くが経過した建物は、ツタに覆われさすがに廃屋同然の状態でした。建物周辺はほとんど駐車場になっていて、古びた煉瓦造りの建物だけがぽつんと建っていて、取り壊されるのも時間の問題という状態でしたが、やっぱりその後数年で取り壊されたようです。


■旧小幡発電所/名古屋市守山区喜多山
 竣工:明治43年(1910)
 構造:煉瓦・木造
 撮影:2006/04/29


■鉄道沿線には戦前の発電所や変電所が多数ありましたが、そのほとんどが姿を消してしまいました



■ツタに覆われた北側壁面に当時の受電口が残っていました



■建設以来一世紀近くの時を刻んだ明治の煉瓦建築も、一瞬でこの世から消えてしまいました~合掌



■名鉄岩倉変電所(明治45年/1912)~明治村に移築保存
名鉄犬山線開通時に建てられた変電所。赤レンガに半円アーチの白いキーストーンがアクセントになっている。
 


在りし日の旧尾張瀬戸駅舎と瀬戸記念橋駅舎(愛知県瀬戸市)

2015-02-22 | 失われた建物の記憶

 今回は10年ぶりの瀬戸訪問でしたが、平成13年(2001年)初めて訪れた時に健在だった旧尾張瀬戸駅と記念橋駅の姿を紹介します。平成13年当時の旧尾張瀬戸駅舎はまさに取り壊し寸前、すでに駅機能は東側に新築移転された現駅舎に移り、玄関は閉鎖され駅移転の看板が建っていました。

 なんとか最後の姿を見ることができたのは幸いでしたが、現在は2005年に開館した瀬戸蔵ミュージアム内2Fに、旧駅舎や隣接していた集積所が再現されています。せともので栄えた大正~昭和の時代の瀬戸の町の様子が、多様な展示物とともに紹介されています。

 またすぐ東側の記念橋の北にあった、日本初の省営バス路線の記念橋駅舎も取り壊され、現在は同じ位置に名鉄バスの記念橋バス停が設置されています。バス停の傍らには「省営バス発祥の地」の記念碑が建てられ、かろうじて当時を偲ぶよすがになっています。


◆旧尾張瀬戸駅舎~名古屋鉄道 瀬戸線/愛知県瀬戸市山脇町
 竣工:大正15年(1926)
 構造:RC造2階建
 ※2001年取り壊し建て替え


■解体直前の旧駅舎(2001年撮影)
 かつては1階に待合室と売店、2階に喫茶・食堂が開設されていた



■オーダーを配した玄関ポーチが特徴的



■待合室内のタイル張りの柱



■瀬戸蔵ミュージアム内に一部復元展示された旧駅舎



■待合室内には昭和34年当時の時刻表や運賃表も再現されている
当時の終着堀川駅は、瀬戸線が栄町まで乗り入れた昭和51年廃駅となった
現在も大津橋南詰に廃駅となった大津町駅に降りる階段が残されている











瀬戸電車両モ754号を展示




■旧瀬戸記念橋駅~昭和5年(1930)日本初の省営バス路線、岡多線(岡崎~多治見間)の駅として開業。
撮影当時(2001年)はJR東海バスの記念橋駅として営業中で、みどりの窓口もあった。
写真の駅舎は昭和5年開業時のものと思われ、2004年周辺の再開発に伴い取り壊された。



■蔵所橋から瀬戸記念橋駅方面を望む(2001年)



■撤去前の蔵所橋(2006年)~奥に見える建物は瀬戸蔵。現在橋は撤去されています。


東外側町の洋館M邸(岐阜県大垣市)

2014-01-11 | 失われた建物の記憶

大垣駅と大垣城のちょうど中間、水門川に沿って東西に走る通りにある東外側駐車場の西隣にタイル貼りの瀟洒な洋館が建っています。外観は非常に美しい状態に保たれているので、とても昭和初期竣工の建物には見えませんが、東海地方でも現存する数少ない戦前の鉄筋コンクリート造の洋館住宅です。


◆M邸/岐阜県大垣市東外側町2丁目
 竣工:昭和初期
 構造:RC造2階建
 撮影:2013/11/23
※多数の近代建築関係の書籍に実名で掲載されていますが、個人住宅のためイニシャルの表示にとどめました。


■建物外壁は全面茶褐色のタイルに覆われ、南側正面の玄関廻りと腰壁は御影石をあしらう
通りに面した南側と西側の2階の窓と玄関は、櫛形アーチになっている



■建物南西側~屋上には一段高くなった手摺付の展望台が設けられている



■建物西側~軒先と庇、窓の手すりのラインで水平線を強調するデザインは当時流行の表現主義風



■建物北西側~北側の2階窓の上部はアーチではなく普通の縦長に処理している



■2階窓の庇や手すり部分には細かい装飾が見られる



東洋ニット倉庫(三重県四日市市)

2013-08-11 | 失われた建物の記憶

四郷郷土資料館のすぐ西側に、大正~昭和にかけて建てられた東洋ニットの倉庫がありましたが、現在は全て取り壊され跡地には新築住宅が建ち並んでいます。 
周辺には昔ながらの製糸場や醸造所、酒蔵が点在し、大正~昭和初めの面影が感じられる町並みが残っています。
これから住宅地としての開発がさらに進み、昔の佇まいが消えていくのは寂しい限りです。 


■戦前の織物工場らしい外観で、煉瓦の壁やノコギリ屋根が懐かしい風景を今に伝えていました









撮影:2006/11/03


旧土岐津陶磁器工業協同組合・旧土岐郵便局(岐阜県土岐市)

2013-05-27 | 失われた建物の記憶

JR土岐市駅の南側、土岐川沿いに広がる昔からの土岐市の中心街にはほとんど戦前の近代建築は残っていませんが、県道69号線と、県道421号線が交わる土岐津町土岐口界隈にはかつて素晴らしい近代建築が残っていました。
現在はコンビニ(セブンイレブン)になっていますが、数年前まで中央橋南交差点の角には、昭和初期に建てられた2軒の対照的な近代建築が道路を挟んで建っていました。
その2軒とは、昭和モダンなタイル貼りの土岐津陶磁器工業協同組合(昭和9年)と、木造下見板張りの旧土岐津郵便局(昭和10年)で、その一角だけは昭和の街角から抜け出てきたような風景が残っていました。

今回は訪問前の下調べで、コンビニになっているのは事前に承知していましたが、やっぱり現地に来てこの目で見ると、2軒の建物はきれいさっぱりなくなり、コンビニの前の広い駐車場に立って思わず「あ~あ」と ため息をついてしまいます。
かつては土岐の中心として栄えた、戦前の土岐津町の面影を残す唯一の建物だっただけに非常に残念です。

街角の風景は時代とともに移ろっていきますが、昭和の面影を残す古い建物が消えた跡に平成という時代の象徴ともいえるコンビニが建つ。
まさに日本中どこの町でも見かける日常の光景ですが、こうしてまた「昭和の街角」は消えていくのでした・・・・合掌

まちの歴史を語る建物がどんどん少なくなってゆく現在、今の若者たちの50年後が、「そういえばあの角にむかしコンビニがあったよねえ~」などという会話ではあまりにも寂しい。
しかし今のわたしにできることといえば、街角に埋もれた大好きな近代建築をコツコツと発掘し、このブログを通じて皆さんに知っていただくことぐらいですが、一軒でも多くの記憶に残る建物が保存活用されることを願いつつ、これからもオッチャンの建築探訪は続きます。
とはいえ、まち歩きの後で飲む冷えたビール(最近は第3のと付く場合も多し)も大きな楽しみのひとつですが・・・乾杯!


■旧土岐津陶磁器工業協同組合/昭和9年(1934)竣工
当時流行の表現主義風のデザインを取り入れた建物で、ファサードは全面スクラッチタイル貼り



■玄関上部の4本の付け柱がインパクト大で垂直性を強調しています
ちょっとゴシックっぽい雰囲気も見る者に強い印象をあたえます



■敷地内にあった戦前の内務省の石柱



■旧土岐郵便局/昭和10年(1935)竣工
土岐津陶磁器協同組合の向かい側に建っていましたが、撮影時(平成12年)にはすでに移転して空き家状態でした



■いかにも「昭和の町の郵便局」といった風情が漂う



■玄関ポーチの鬼瓦には、お約束の逓信省の〒マーク



■東側にある明楽寺橋(昭和14年竣工)からの風景~奥に郵便局が見えます



■現在の明楽寺橋~特徴的な当時の親柱も健在で、南側には歩道が新設されています



■明楽寺橋の歩道から西側を望む
向かって左手がコンビニ、県道69号線を挟み右側の白黒ツートンの建物が新築移転した現陶磁器工業組合
その西側の郵便局跡には新しい住宅が建っています

撮影:2013/04/28 


依佐美送信所本館・機械棟(愛知県刈谷市)

2012-12-24 | 失われた建物の記憶

 刈谷市の近代建築としては表現主義風の大中肇の作品が良く知られていますが、刈谷市には東海地方では珍しいドイツ表現主義の影響を色濃く受けた建築様式を持つ依佐美送信所がありました。過去形なのは残念ながら2006年に取り壊されてしまったからで、その半年前に現地を訪れる機会があり、なんとか最後の姿をこの目に焼き付けることができました。

 まず目に入るのは、建物の正面中央に飛び出した異様な形の庇のある玄関と、その上ににょっきり突き出したアーチ屋根の塔屋で、見る者に忘れることのできない強烈なインパクトを与えます。この可塑性の高い鉄筋コンクリート造の彫塑的造形が、当時ドイツを中心に流行した表現派と呼ばれるスタイルで、鉱物結晶や放物線を基にした新しい建築形態として日本でも多くの建物に採用されました。

 現在跡地は「フローラルガーデンよさみ」という公園施設として整備され、公園内に設けられた依佐美送信所記念館では、通信所の送信機器類が貴重な産業遺産として保存展示されています。


◆日本無線電信(株)依佐美送信所本館・機械棟/愛知県刈谷市高須町山ノ田1
 竣工:昭和4年(1929)
 設計:竹内芳太郎
 施工:大林組
 構造:鉄筋コンクリート造2階建
 撮影:2005/10/09
 ※2006/04取り壊し

※訪問時の詳細はこちらのHPにアップしてありますので興味のある方はどうぞ
http://www.me.ccnw.ne.jp/machikin/kaitai1.html 



■送信所本館正面~使われなくなってから月日が経つようで、草木も伸び放題、荒涼とした雰囲気が漂っていました



■長波送信室(機械棟)外観



 ところで依佐美通信所が建てられる少し前の大正末頃、同じ東海地方の岐阜市で表現主義風の建物が竣工しています。岐阜で建築事務所を開いていた河村鹿市と佐藤信次郎が手がけた岐阜県図書館で、この建物の外観が依佐美通信所に瓜二つなので驚きます。
 偶然と言うにはあまりに似ているので、依佐美通信所を設計した竹内芳太郎が、数年前に竣工した岐阜県図書館を参考にしたとも考えられます。ただ私の知る限りでは、近代建築関係の書籍で岐阜県図書館と依佐美通信所の関係に触れたものを見たことが無いので、本当のところは藪の中です。


岐阜教育会館(旧岐阜県図書館兼会館)~こちらは現存していますので見学可能です


 


竹内産婦人科(愛知県刈谷市)

2012-12-04 | 失われた建物の記憶

旧上天温泉とは通りを一本挟んですぐ斜め向かい側にも大中肇の設計による医院が現存しています。
大中肇は刈谷市を中心に学校建築に代表される公共建築や個人住宅、医院など生涯70棟以上の建物を設計しています。
刈谷市内でも数件の病院・医院を設計していますが、現在残っているのは竹内産婦人科だけになってしまいました。

この建物は近代建築総覧やガイドブックなどには記載がありませんが、平成17年に刈谷市郷土博物館開館25周年記念展でいただいた資料に大中肇の作品として紹介されていました。
昭和3年竣工という以外建物の構造など詳細は不明ですが、上天温泉で見せた表現主義風の大中スタイルはぐっと押さえ、医院らしい歴史様式を加味したクラッシクなおちついた外観にまとめています。
玄関車寄の破風は古典様式建築に見られる立派な三角ペディメント風で、妻の中央に円形の装飾が施されています。
ただ三方向に開く車寄入口上部が、表現主義風のゆるやかな半円アーチなのは、上天温泉と同様大中肇流のこだわりが感じられるところです。


◆竹内産婦人科/愛知県刈谷市御幸町1丁目77
 竣工:昭和3年(1928)
 設計:大中肇
 撮影:2012/10/08
※2015年ブログをご覧の方から取り壊し情報をいただきました


■玄関車寄の柱とペディメント中央に幾何学模様の装飾があしらわれています




 

 


旧奥町駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県一宮市)

2012-08-20 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線奥町駅は終点の玉ノ井駅の隣駅。
2007年に取り壊された旧木造駅舎は、尾西鉄道開業時(大正3年)に建てられた駅舎で、名鉄に経営が移る尾西鉄道時代の唯一現存する貴重な駅舎でした。
犬山線布袋駅と並び大正期の現存する木造駅舎は名鉄でも珍しい存在でしたが、両駅舎とも取り壊され、現駅舎はどれも同じ顔のツルピカ金太郎飴駅舎になってしまいました。

◆旧奥町駅舎(おくちょう)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県一宮市奥町南目草30-1
 竣工:大正3年(1914)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

■現奥町駅舎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okuch%C5%8D_Station_(building).jpg

 
■玄関脇の丸ポストが良く似合う、「これぞローカル線木造駅舎!」と呼びたい名駅舎でした。
 (撮影:2006/05/21)


旧苅安賀駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県一宮市)

2012-08-16 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線苅安賀駅は一宮駅から津島方面へ2つ目の駅で、昭和2年(1927)築の旧木造駅舎は、2007年トランパス導入時に新駅舎に建て替えられました。
旧駅舎は尾西鉄道から名鉄に経営が移った(大正14年)のを機に建て替えられたもので、玄関妻面の和風の丸窓が特徴。
洋風の森上駅舎とは対照的な、今風に言えば和風モダンなユニークな駅舎でしたが、残念ながらもうその姿を見ることはできません。

◆旧苅安賀駅舎(かりやすか)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県一宮市大和町苅安賀上西之杁130
 竣工:昭和2年(1927)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

■現苅安賀駅舎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kariyasuka-sta.jpeg

 
■ファサードの丸窓に昭和の雰囲気が漂う(撮影:2005/10) 

 


旧森上駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県稲沢市)

2012-08-15 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線は愛知県の西部を縦貫する路線で、弥富駅から津島、一宮を経て玉ノ井を結んでいます。森上駅は旧祖父江町を代表する駅で、開業は尾西鉄道時代の明治32年(1899)、2007年に現駅舎に建て替えられるまで昭和14年(1939)に建てられた木造駅舎が現存していました。

取り壊された旧駅舎は洋風の木造下見板張りで、ファサードを半切妻にし、あえて玄関をその脇にもってくる印象的な外観。淡いブルーに塗られた下見板のこじんまりとした駅舎は愛らしく、戦前の木造駅舎が比較的多く残る名鉄のローカル線らしい風情が味わえる貴重な駅舎でした。尾西線は戦前のそれぞれに個性のある木造駅舎が多く残る貴重なローカル路線でしたが、名鉄のトランパス(自動改札)導入により、すべてツルツルの同じ顔の駅舎に建て替えられました。

長い間地域の人々に親しまれた個性のある駅舎が姿を消し、新しいツルピカの駅舎に建て替えられた駅前の風景は、薄っぺらでどこかよそよそしく、あらためてその土地に根差した古い建物だけが持つ価値を考えさせてくれます。
 
◆旧森上駅舎(もりかみ)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県稲沢市祖父江町森上本郷7-30
 竣工:昭和14年(1939)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

 現森上駅舎→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Meitetsu_Morikami_sta_001.jpg  
 


■在りし日の森上駅舎(撮影:2005/10) 


旧西笠松駅舎~名古屋鉄道 竹鼻線(岐阜県羽島郡笠松町)

2012-07-20 | 失われた建物の記憶

 名古屋鉄道は駅集中管理システム導入を機にほとんどの路線で駅舎の廃止や改築を行いました。ローカル路線の多い名鉄は開業時からの木造駅舎が比較的多く残っていましたが、2007年駅集中管理システム、トランパス(現在はmanacaに移行)導入時にほとんどの戦前の木造駅舎は新駅舎に建て替えられてしまいました。
 笠松駅と江吉良駅を結ぶ竹鼻線にある西笠松駅は、大正10年の開業以来の雰囲気のある洋風の木造駅舎でしたが、今ではその姿を見ることはできなくなりました。

◆旧西笠松駅舎~名古屋鉄道 竹鼻線/岐阜県羽島郡笠松町天王町45
 竣工:大正10年(1921)
 構造:木造平屋
 撮影:2006/10/08
 ※取り壊し、新駅舎に建て替え


■在りし日の西笠松駅(東側正面)~大正モダンを感じさせるマンサード屋根の洋風駅舎



■北側出入り口~軒下の持送りや2連のガラリ(屋根裏換気口)が洋館らしさを演出しています
 


■北東側から見た旧駅舎と新駅舎
名鉄さんに限りませんが、90年の歴史を刻んだ建物をあっさり建て替えてしまうのが経済、効率優先の企業というものです。
わかちゃいるけど、なんだかな~
 


■新駅舎には旧駅舎のデザインを継承するという試みは一切ありません。
この時期に建てられた新駅舎は、ただただコストパフォーマンスを優先させた四角い箱型の同じデザインで、金太郎飴ならぬ金太郎駅舎です。
金太郎飴は職人さんの技が光る銘菓ですが、はたして金太郎駅の90年後は?
 

 


知多白木綿組合会館(愛知県半田市)

2012-07-15 | 失われた建物の記憶

今回訪れた半田市で取り壊された近代建築を確認しました。

知多半島は古くから木綿の産地で「知多木綿」の名で知られていましたが、電動力の利用が可能になった大正期に企業による大規模な織布工場が進出し、昭和初めには輸出量もイギリスを超え隆盛を極めました。
旧知多白木綿組合会館は、大正15年に新築された当時ではまだ珍しいRC造の建物で、正面中央に2階分の高さのある御影石の円柱を2本配した外観は、まさに白亜の殿堂、木綿で栄えた往時の姿を伝えていました。
戦後は半田市図書館→半田市立郷土資料館→中埜倶楽部(ミツカングループの社員厚生施設)として利用されてきましたが、数年前に取り壊され現在は蔵が建っています。


◆知多白木綿組合会館/愛知県半田市北末広6
 竣工:大正15年(1926)
 構造:RC造2階建
 撮影:2006/06/04
 取り壊し確認:2012/05/04






■取り壊された跡地には半田特有の黒色の蔵が建っています。
「蔵のまち半田」ならではの風景ですが、近代建築を知多木綿の歴史を語る産業遺産として活用する方法はなかったのでしょうか?非常に残念です。
 


岡崎の取り壊された近代建築(3)~岡崎市北部公会堂

2012-05-31 | 失われた建物の記憶

岡崎市北部公会堂は、昭和15年岡崎市役所とともに市議会議場として建設され、新市庁舎建設にともない昭和45年に現在地に移築されました。
外観は木造下見板張りで玄関廻りにも装飾などは一切なく、当時流行のモダニズムを取り入れたシンプルなデザインの建物でした。
長い間地域の公会堂として多用途に活用されてきましたが、残念ながら建物は取り壊され現在は更地になっています。

◆岡崎市北部公会堂(旧岡崎市議会議場)/愛知県岡崎市井田町字1-109-6
 竣工:昭和15年(1940)
 構造:木造2階建
 撮影:2006/05
 取り壊し確認:2012/05




■建物東側正面
 半切妻の下の二つ並んだ小屋裏換気ガラリが外観のアクセントになっていますが、その他の装飾は一切ありません



■きれいに更地になった公会堂跡地