かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

新見眼科医院旧館(愛知県半田市)

2012-06-30 | 知多の近代建築

半田市堀崎町界隈は「紺屋海道」が通る昔からの町並みが残る古い住宅街です。
純和風の神社仏閣や蔵が点在する細い路地の奥に、淡いピンク色で塗られた木造下見板張りの古い洋風建築が残っています。
大正4年に建てられた旧新見眼科医院の建物で、木立の中にペディメントを載せた2階のバルコニーが印象的な外観を見せています。
オーナーの方が大切に保存されている様子で、築後100年になる建物とは思えないくらい美しい姿をとどめています。

◆新見眼科医院旧館/愛知県半田市堀崎町1-28
 竣工:大正4年(1915)
 設計:小栗半右エ門
 施工:江原新助(棟梁)
 構造:木造2階建
 撮影:2012/05/04


 
■洋風のファサードの奥に桟瓦葺の和風の屋根が見えます




 
■柱やバルコニーの手すりには木彫の装飾が施されています
 


半田の近代和風建築

2012-06-27 | 知多の近代建築

半田市内には明治~戦前にかけて建てられた近代和風の優れた建築が残っています。

◆小栗家住宅(蔵のまち観光案内所)/愛知県半田市中村町1-18
 竣工:主屋~明治3年(1870) 
 構造:木造2階建
 ※国登録文化財

半田運河沿いの小道に面して建つ小栗家住宅は、万三商店として醸造業、肥料、米穀などの問屋を手広く営んだ豪商で、事務所として使われた1階部分は現在「蔵のまち観光案内所」として利用されています。
道路に面した主屋のほか、表門、辰巳蔵、書院、茶室、渡り廊下、北座敷、離れ(竹の間)が国登録文化財に指定されています。
 




◆料理旅館末廣/愛知県半田市御幸町87
 竣工:大正期
 構造:木造2階建

JR半田駅前通りにある末廣は明治15年創業の半田市内でも有数の料亭で、2階には105畳の大広間があります。
 


 

 
撮影:2012/05/04 


ミツカングループ本社中央研究所/旧中埜銀行本店(愛知県半田市)

2012-06-25 | 知多の近代建築

ミツカンサンミ(旧第一工場)半田工場、博物館「酢の里」から一本道を挟んですぐ西側に、ミツカングループ本社中央研究所(旧中埜銀行本店)があります。
中埜銀行は中埜一族が経営する企業のための銀行として明治34年に設立されました。設立当時は伝統的な木造の町屋風で「酢の里」の西南(上の写真向かって右側の木立に覆われた部分)にありましたが、第一工場の火災や、関東大震災(大正12年)を受けて、西向かいの敷地に鉄筋コンクリート3階建の新しい銀行が大正14年に竣工しました。

建物の角を丸くして玄関を設け、1階外壁の白の御影石と上部の淡いブルーのモルタル塗り部分が印象的な外観を演出しています。
設計は県内でも数多くの銀行建築を手がけている巨匠鈴木禎次。

◆ミツカングループ本社中央研究所(旧中埜銀行本店)/愛知県半田市中村町2-6
 竣工:大正14年(1925) 
 設計:鈴木禎次
 施工:志水建築業務店
 構造:RC造3階建
 撮影:2012/05/04


■建物の角にすっぽり円柱を組み込んだような外観
 ミツカンマークのある最上部は屋上に飛び出る格好で、まるでヘルメットかこけしの頭のよう



■1階外壁は御影石貼り



■縦長の窓の上部にアーチ窓を設け、表現主義風の簡略化した装飾を施しています



■1階窓の金属製グリル



■屋上は城壁のような凸凹に金属製の柵が巡ります



半田運河沿いの醸造蔵~キッコウトミ第二工場(愛知県半田市)

2012-06-24 | 知多の近代建築

半田運河左岸、半田ミツカン第二工場の北側にキッコウトミ第二工場があります。
キッコウトミ(亀甲富)は明治11年創業の老舗で、現在も戦前の古い黒板張りの醸造蔵が残っています。








■半田市内で見つけたキッコートミの琺瑯看板~トミー坊やから漂う昭和30~40年代の雰囲気が良いです






半田運河沿いの醸造蔵~ミツカン半田工場(愛知県半田市)

2012-06-23 | 知多の近代建築
旧カブトビール工場の見学を終え247号線を東へ向かうと半田運河と阿久比川に架かる半田大橋に出ます。
半田大橋の手前を運河沿いに南下すると、両岸にはミツカンや旧万三商店(現ミツカン)、亀甲富(キッコウトミ)の黒板塀の醸造蔵が建ち並び、「蔵のまち半田」と呼ばれる特徴的な景観をつくりだしています。


■半田運河の右岸沿い(写真向かって左側)に建ち並ぶミツカンの醸造蔵群。
 ひときわ背の高い現代的な黒っぽいビルはミツカングループ本社。(船方橋より上流を撮影)



■ミツカンサンミ(旧第一工場)半田工場
 大正12年に第一工場が火災で焼失し、大正末~昭和初年にかけて再建された当時の工場が今も残っています。

 

■その時に建てられた鉄筋コンクリート造の4号醸造庫





■旧第一工場の車庫と粕倉(大正~昭和)~防火対策としてレンガ造の防火壁などが設けられました



■明治期に建てられた旧第一工場の事務所が、博物館「酢の里」として再活用されています



■半田ミツカン第三工場
 旧第一工場の南側には木造の11、12、14号醸造庫(明治22年以前)と9、10号醸造庫(大正~昭和)が現存しています







■第三工場の南側にある旧万三(現ミツカン)の醸造庫







■第三工場の対岸(左岸)にあるミツカン半田第二工場~江戸時代から戦前にかけての工場、倉庫が残っています。





■運河沿いに続くコールタールを塗った黒板塀の蔵は、戦前の半田の景観を今に伝えています







撮影:2012/05/04



半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)2階公開

2012-06-19 | 知多の近代建築

今回の赤レンガ建物公開は、「第11回半田赤レンガ建物公開 秘密の扉がまた一つ開かれる!赤レンガ建物2階初公開!」ということで、10時からの公開に合わせて15分前に到着しましたが、工場の周囲はもうすでに多くの見学者でいっぱいです。
2階の見学は先着順に15分間隔20人ずつの出発とのことで、見学受付で整理券をもらうとすでに11時45分の集合時間でした。
集合時間に合わせて集合場所の建物南側に行くとすでに多くの見学参加者が集まっており、係の人の説明後ガイドの方のあとについて建物南西側の2階入り口に向かいました。


■2階入り口のある南西側の建物。建物向かって右側に入り口があります



■2階入り口付近で見学に参加する人たちが順番を待ちます


■建物が傾斜地に建つため階段を少し上がると直接2階に入ることができます



■ガイドの方の後について順路を進みます



■途中要所でガイドの方の説明があります。見どころの一つ、発酵室の大きな断熱扉の説明を受ける見学者の皆さん。



■断熱材としてコルクを使用した壁。船舶の冷蔵室や冷凍室に用いられた手法だそうです。



■内部の壁はコンクリートが塗られていますが、増築時外壁だった部分はコンクリをはがすと赤レンガが出てきます。



■2階は発酵室や樽置き場に利用されていた部屋が通路に沿って並んでいます。
 温度を一定に保つため開口部がほとんどなく、増築を繰り返した工場内はまるで迷路のようです。














2階部分の工場内は当時のままで、まるで廃墟を歩いているようでした。
窓が少ないので外光がほとんど入らず、同じ構造の部屋や通路が続くので、歩いていると方向感覚があやしくなります。
このまま廃工場として映画のシーンに使えそうで、レンガ建物を積極的に映画のロケ地として誘致し半田の町おこしにするのもありなのでは?と勝手に想像してしまいました。

見学を終えて早速、限定生産のカブトビールを一杯と思い売店に行くとついさっき売り切れたとのこと・・・・これが楽しみだったのに!
次回は7月7・8日の七夕と28・29日の生カブトビールフェスタで一般公開の予定とか。
特に生カブトビールフェスタは赤レンガの特設ビアガーデンで生のカブトビールが味わえるそうで、これはリベンジせねばと今から楽しみです


半田赤レンガ建物/旧カブトビール工場(愛知県半田市)

2012-06-17 | 知多の近代建築

 5月の連休を利用して久しぶりに半田市を訪れました。半田は江戸時代から醸造業で栄えた知多半島の中心都市で、皆さんおなじみのミツカングループの本社があり、関連の工場、研究所、住宅や旧カブトビール工場など質の高い近代建築が今も残っています。お目当ては毎年連休の3~5日に行われる旧カブトビール工場の一般公開で、今回の目玉は2階部分の初公開です。

 名鉄河和線住吉駅を下車、国道247号線沿いに東へ5分ほど歩くと、大きな5階建赤煉瓦のビール工場として使われた建物が見えてきます。近くまで来るとまさに「赤煉瓦の大きな塊」という形容がぴったりで、そのスケール感と歴史のある赤煉瓦の建物が持つ重厚な雰囲気が見る者を圧倒します。
 現在は半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)として国の登録文化財の指定を受け、地元半田市により保存管理されていますが、明治から昭和戦前にかけてこの工場でカブトビールのブランド名で本格的なドイツビールが製造されていました。

 半田のビール製造の歴史は、中埜酢店(現ミツカン)四代目中埜又左衛門と甥の盛田善平(敷島製パン創業者)が明治22年に創業した丸三麦酒にさかのぼります。その後明治29年に丸三麦酒株式会社が設立され、増産体制に入るべく新しい煉瓦造の醸造工場が現在地の榎下町に建設され、「丸三ビール」から「カブトビール」にブランド名を変更、地元東海地方を中心にシェアを拡大しました。
 しかしその後、明治末のビール業界は企業の再編が進み、丸三麦酒(株)は日本第一麦酒(株)に吸収合併(明治39年)されます。その後は加冨登麦酒(明治41年)、大日本麦酒との合併(昭和8年)を経て、中島飛行機製作所資材倉庫(昭和19年)として使用され、カブトビール工場はその役目を終えました。

 建物設計は明治建築界の巨匠妻木頼黄(岐阜県土岐市妻木町出身)で、旧カブトビール工場のほか、横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)、横浜新港埠頭倉庫(現横浜赤レンガ倉庫)、内閣文庫(明治村に移築)、東京日本橋(意匠設計)などそうそうたる作品が現存しています。
 妻木が設計担当した明治31年竣工時の建物で現存するのは、南東部に位置する木骨煉瓦造(ハーフティンバー)部分で、それに続く東側翼部とドイツ人技師が使用したレンガ造住宅は平成7年に取り壊されています。建物は丸三麦酒(株)醸造工場として建設以来3回の増築を繰り返しており、その際の設計は東海建築界の巨匠、まいどおなじみの鈴木禎次が担当しています。 

◆半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)/愛知県半田市榎下町8
 竣工:明治31年(1898)
 設計:妻木頼黄、増築設計:鈴木禎次
 施工:清水組
 構造:煉瓦造地上5階建
 撮影:2012/05/04
 ※国登録有形文化財


■建物東北外観~中央5層の塔屋から北側は明治40年第一次増築部分

 

■建物東南外観~煉瓦に木骨が入るハーフティンバーの部分は創建時明治31年妻木頼黄の設計による



■北側の増築部分はイギリス積みですが、建物南側のハーフティンバー部分は一部フランス積みが見受けられます


■建物東側中央の塔屋部分~東側壁面に付属していた創建時の建物を取り壊した痕跡が残る
 


■建物北側外観~入口上部の壁面にP51ムスタングの機銃掃射の跡が残る



■建物南側外観~西側(向かって左)の建物は第二次増築(大正7年)部分




■北側壁面のキーストーンの装飾が施された丸窓と工場入口
 


■工場内の展示スペース~カブトビールに関する資料や当時の宣伝ポスター、琺瑯看板などが展示されている
 


■建物東側の窓と国登録文化財指定のプレート
 

旧カブトビール工場2階見学ツアーに続く・・・カブトビール飲みたい!


日清戦役第一軍戦死者記念碑(名古屋市千種区)

2012-06-13 | まちかどの20世紀遺産

 給水塔のある東山配水場から関田名古屋線(姫池通)を挟んで東側、日泰寺霊堂のすぐ北側の木立に囲まれて、ひっそりと日清戦役第一軍戦死者記念碑が建っています。この記念碑は当初、日清戦争で戦死した第一軍の戦死者726名の霊を弔うため、現在の広小路通と武平通が交差する中区役所交差点の位置に明治34年に建立されました。
 当時広小路通は武平町が終端で、愛知県庁や議事堂、名古屋市役所が集結し、大通りのど真ん中に建設された記念碑は名古屋市電の起点になったこともあり、県庁前のロータリーは一躍名古屋一の名所になりました。その後広小路通も千種まで延長され、さすがに交差点の真ん中にある記念碑は交通に支障をきたすということで、大正9年覚王山日泰寺の境内である現在地に解体移築されました。

◆日清戦役第一軍戦死者記念碑/名古屋市千種区城山新町1
 竣工:明治34年(1901)
 構造:石造、銅製(東京砲兵工廠鋳造)
 撮影:2012/06/03
 




■砲弾型のデザインの記念碑~台座を囲むように本物の大砲が並べられています



■記念碑を囲む鋳鉄製の柵



■階段の装飾は大型ロールケーキのようです


マンホール紀行(11)~名古屋の水道施設

2012-06-11 | ご当地マンホール紀行

名古屋市の水道施設、鍋屋上野浄水場と東山配水場には給水開始当時のポンプ室や配水塔が現存してていますが、施設内には古いマンホールやこだわりの操作弁など、デザイン的に面白いものが見られます。

■鍋屋上野浄水場

人孔とは書いて字のごとく人の孔(アナ)、つまりマンホールを意味していると思われます
ちなみに「孔」は突き抜けたあなを意味し、一般的には「穴」が用いられています



水密とは「水が密閉され、水圧がかかって漏れない構造」だそうです


 
蝶型弁(バタフライバルブ)~管路内に設けられた円板状の弁で、回転することによって管路の流量を調節、圧力を下げるのに用いる絞り弁
中央に名古屋の市章〇八マークを入れています


 
排気弁が旧字体(棑氣瓣)で右読みに書かれているところから戦前のものと思われます
水道の文字の間に名古屋の市章も入っています


■東山配水場
 
制水弁~こちらも戦前のもので旧字体で右から書かれています



こちらは戦後の制水弁の左読みバージョン~縦にはちゃんと〇八水道と読ませます


 
筆で書かれたような仕切弁上水の文字がすがすがしい
いずれもたかが弁の蓋ですが、ここまでこだわる姿勢は大好きですっ! 


天満水道橋(名古屋市千種区)

2012-06-10 | 近代橋めぐり

鍋屋上野浄水場の前の道路(県道30号線)を南へ向かうと長い上り坂になります。
坂を登り切ったあたりが覚王山の頂になり、その頂の道路の両側に東山配水場が広がっています。
配水場の南側には覚王山日泰寺、地下鉄覚王山駅があり、末盛通につながる県道30号線(天満通~姫池通)が配水場を東西に分割した格好になっています。

東西の配水場は天満水道橋という連絡橋でつながっています。
以前は配水池の上を公園にして市民に解放し、天満通を挟んで水道橋で東西の公園が自由に行き来できた時期もあったようですが、現在は配水場への出入り口の門はしっかり施錠され閉鎖されているため、水道橋だけが歩道橋として一般解放されている状態です。
市民の健康に直結する水道施設なので、現在ほとんどの浄水場、配水場は立ち入り禁止になっており、年に数回日時を限定して(6月の水道週間など)の公開になっています。
以前は時代もおおらかで水道施設の公園を解放しても特に問題はなかったようですが、時代とともにリスク管理の重要性が増し、立ち入り禁止の施設がどんどん増えていくのは、しょうがないとは言え、やはり寂しいですね。

 
■水道橋の上から道路東側配水場を望む~橋の突き当りが配水場の入り口ですが、現在閉鎖中です



■天満通の東側歩道脇に配水場(向かって左側)と水道橋(右側)の門が設置されています
 現在水道橋から配水場へ向かう門は閉鎖されているので、右側の門は歩道橋専用の門になります



■配水場の門の外から配水池に続く階段や外壁が見えます(全体のデザインからすると創建当時のものか?)



■橋の欄干に設置された銘板



■道路西側水道橋袂に設置された公衆トイレ(現在閉鎖中)
 戦後の建設と思われますが、外壁のうねるような曲線が昭和のモダニズム建築を思わせます



■水道橋から配水場西側、東山給水塔を望む


◆天満水道橋/名古屋市千種区下方町
 竣工:昭和11年(1936)→昭和59年(1984)改修
 撮影:2012/06/03

 


東山給水塔/旧東山配水塔(名古屋市千種区)

2012-06-09 | 名古屋の近代建築

水道週間の鍋屋上野浄水場一般公開に来たついでに、天満通を南下して東山配水場へ向かいました。
東山配水場は平成25年まで老朽化した配水池の取り壊しと新築工事中で、現在一般公開は行われておらず、敷地の外から給水塔を撮影しました。

◆東山給水塔(旧東山配水塔)/名古屋市千種区田代町四観音西5-1
 竣工:昭和5年(1930)
 設計:成瀬薫
 施工:大倉土木
 構造:RC造
 撮影:2012/06/03

東山給水塔は昭和48年まで覚王山一帯の高台に給水するための配水塔として使用されてきました。
昭和54年からは災害対策用の応急給水施設として再利用されることになり、内部には水道資料の展示スペースや、展望台が設けられました。
昭和58年に最上部を展望台に改装した際、とんがり帽子のような多角錐の屋根がかぶせられ、その特徴的な姿はこの地域のランドマークとして市民から親しまれています。
 
 
■東山配水場南側入口~「平成25年度末まで東山給水塔の解放は行いません」という案内看板が出ています


 
■ツタの絡まるとんがり屋根の配水塔は、覚王山界隈のランドマークとして、その存在感は抜群です 


  
■東山配水場一般公開時に撮影(1999年6月) 
 煉瓦造りの可愛らしい塔は地下の配水池の出入り口と思われます 


鍋屋上野上水場旧第2ポンプ所(名古屋市千種区)

2012-06-07 | 名古屋の近代建築

クラッシックな赤煉瓦の旧第1ポンプ所の西隣に端正な外観の旧第2ポンプ所があります。
竣工は昭和9年、時代の流れは歴史様式から装飾を排したモダニズム建築へ移っていて、第2ポンプ所も装飾を最小限にとどめたシンプルな外観になっています。
外からは3階建に見えますが元々は平屋建てで、昭和62年ポンプ室を2層にし、その上に床を取り付け3層として出入り口を設け、事務室として使用していました。(現在は閉鎖)

◆鍋屋上野上水場旧第2ポンプ所/名古屋市千種区宮の腰町1-33
 竣工:昭和9年(1934)
 設計:丹羽重光
 構造:RC造平屋建
 撮影:2012/06/03

■西側正面~向かって左(南側)の橋は3階の事務室に通じる連絡橋
外観は簡略化され玄関上と2階庇の下に唯一装飾が残る



 


マンホール紀行(10)~三重県桑名市

2012-06-06 | ご当地マンホール紀行

桑名の町を歩いていると、カラフルなマンホールや消火栓のフタが目に付きます。
文字通りの路上アートで、桑名の名物が一目で分かります。


■東海道「七里の渡」と帆掛け舟







■焼き蛤や醤油で煮しめた「時雨蛤」は、しぐれ煮の元祖としてあまりに有名
東海地方では「しぐれ」といえば貝の佃煮全般をさします(おにぎりが美味)



■桑名の千羽鶴は一枚の紙から立体的な複数の繋がった鶴を折るのが特徴


鍋屋上野浄水場旧第1ポンプ室(名古屋市千種区)

2012-06-06 | 名古屋の近代建築

水道週間の6月3日、各地の浄水場で普段は立ち入り禁止の施設の開放や、イベントが行われました。
わたしも1999年の公開日に見学に訪れて以来実に13年ぶり、名古屋市千種区にある鍋屋上野浄水場を訪れました。
当時はイベントも小規模なもので見学者もそこそこという感じでしたが、今回訪れて来場者の多さにびっくりしました。
展示コーナーやグッズ販売、小さな子供向けのイベント(特撮ヒーローの握手会)も開催されていて、大勢の家族連れで大盛況でした。
水道局職員の皆様、本当にご苦労様でした。

■たくさんの人で賑わう浄水場入口



■浄水場内には戦前に建てられた旧第1ポンプ所(向かって左側)と旧第2ポンプ所(右側)が並んでいます。



■戦前の緩速ろ過池も最近まで現存していましたが、老朽化に伴い現在新しいろ過池を建設中です。



■大正3年に建設された旧緩速ろ過池の入り口(現在は取り壊され現存しません)1999年6月撮影



鍋屋上野浄水場旧第1ポンプ所は給水開始時の大正3年竣工、木曽川の犬山取水場より採り入れた水は浄水場で沈殿・ろ過・殺菌され、このポンプ所で加圧されたのち、配水池からさらに覚王山の東山配水場へ送られていました。
創設以来平成4年まで稼働していましたが、現在は役目を終え、浄水場のシンボル的存在として大切に保存されています。
建物は煉瓦造平屋建切妻造で、外壁は煉瓦積ながら窓や軒、土台、コーナーに白い石を用い、赤煉瓦とのコントラストが重厚な美しい外観をつくっています。
各地の戦前の浄水場の建物は、当時の建築様式を駆使した力作ぞろいで、水道事業にかける人々の思いが伝わってくるようです。


◆鍋屋上野浄水場旧第1ポンプ所/名古屋市千種区宮の腰町1-33
 竣工:大正3年(1914)
 設計:名古屋市水道部(丹羽重光)
 構造:煉瓦造平屋建
 撮影:2012/06/03
 ※名古屋市都市景観重要建築物



■建物西側正面~ギリシャ・ローマに起源をもつ古典様式をモチーフにしたデザイン


 
■正面入り口の装飾~両脇にイオニア式円柱を立ち上げ、半円窓には要石(キーストーン)を、さらに高窓の頂部の破風も半円形にして周囲に装飾を施す



■建物南西側



■建物北側~中央の出入り口を中心に縦長の窓が並ぶ



■建物北東側~赤煉瓦の外壁にはツタが絡まりクラッシクな外観を演出しています


 
■北側中央出入口~上部には要石を頂く大きな半円形の窓、金属製の持送りもアールデコ風デザイン



■浄水場のすぐ南側に公園があり普段はここからポンプ所を見ることができます



■水の丘公園にて~お土産に名古屋の名水(と言っても名古屋の水道水ですが)をいただきました


岡崎のミニ洋館

2012-06-04 | まちかどの20世紀遺産

岡崎市の伝馬通、岡崎信用金庫伝馬支店前で見つけた極小洋館です。
正確には洋室なのですが、洋室部分だけが突き出した形になり、奥の住宅が通りからは見えづらいので、まるで小さな独立した洋館が建っているように見えます。
大正~昭和初め頃の建築と思われますが、小さいながらも切妻破風に下見板張りの外観、縦長の窓は洋館建築のツボを押さえた造りになっています。


(撮影:2012/04/29)岡崎市伝馬通4