かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

洋楽巡礼(4)~中三夏休みのプログレ体験

2013-09-29 | 音楽・オーディオ

1972年中学最後の夏休み、ぼくは旧友ヒロシの部屋に入り浸って洋楽三昧の日々を過ごしていた。いちおう受験生なので、一緒に勉強しようというのが本来の目的なのだが、エアコンのない部屋で午後の一番暑いときに勉強しようというのだからそもそも無理がある。たいてい勉強は長続きせず、「今日の勉強はここまで」という雰囲気になると、ふすま1枚隔てた隣の大学生の兄貴の部屋のサンスイのハイファイ・ステレオの登場となる。

ヒロシの兄貴は東京で下宿生活しているのだが、お盆まで帰省しないので、その間は自由にレコードを聴くことができたのだ。ステレオの横には大のロックファンの兄貴が集めたレコードコレクションがずらりと並んでいて、ヒロシはそこから適当にみつくっろてレコードをかけてくれるのである。いずれも兄貴が高校のときから集めた名盤ぞろいで、ポップスからハードロックまで、ぼくでも知っている有名どころが取り揃えてある。

冷えた瓶入りのキリンレモンを飲みながら扇風機の風にあたり、好きな洋楽を聴く夏の日の昼下がり。キャロル・キング、ニール・ヤング、エルトン・ジョン、シカゴ、サンタナ、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、CCRなどなど、ステレオから流れてくる音楽は心地良く、受験のことなどしばし忘れ、ロックの桃源郷に身をゆだねる、まさにぼくにとっては至福のひと時だった。そんな中でもぼくが最も心惹かれたのがプログレッシブ・ロック(プログレ)と呼ばれるスタイルのロックだった。

プログレとは、ジャズやクラッシクの要素を取り入れた複雑な構成の楽曲を高度な演奏技術で表現するロックのスタイルことなのだが、初めてヒロシの家でキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』を聴いたときの感想は、「なんじゃ、こりゃあ~」の一言に尽きる。今まで聴いてきたポップスやロックとは全然違う音楽体験で、当時のぼくにはすぐには良さが分からなかった。人は誰しも初めての体験には戸惑うものだが、その時の印象が強烈なほど嫌いになるか病み付きになるものらしく、ぼくの場合は完全に後者だったらしい。

当時のプログレ界をリードする、ピンク・フロイドやエマーソン・レイク&パーマー(EL&P)、イエス、ジェネシスなどのアルバムを聴き、ぼくは受験勉強もどこへやら、この年の夏休みはプログレに夢中になりあっという間に過ぎていった。ヒロシの家での様々なジャンルの音楽体験は、ぼくにとってはそれこそ洋楽10年分を一度に聴いたと同じくらい価値があるもので、ヒロシと兄貴の名盤コレクションは、その後のぼくの「ミュージック・ライフ」に大きな影響を与えることになった。

この夏の衝撃的なプログレ体験にハマってしまったぼくは、早速お年玉貯金を使って、イエス、ピンク・フロイド、EL&Pのアルバムを手に入れた。ぼくがプログレにハマった70年代前半は、ちょうどプログレが一大ムーブメントを築いた一番脂の乗り切った時期で、3枚のアルバムとも彼らの代表作の一つに数えられる名盤ぞろいである。

■『危機』/イエス(1972)
ヒロシの家で聴いた『こわれもの』が素晴らしかったので、9月にリリースされるや即買いした5作目のアルバム
A面1曲の大作『危機』はイエスのすべてが凝縮された最高傑作で
ジャケットデザイン担当のロジャー・ディーンの描くロゴとイラストは、イエスのイメージを決定づけた
また4作目『こわれもの』の『ラウンドアバウト』はアニメ『ジョジョの奇妙な冒険』のエンディングテーマに使われている





■『おせっかい』/ピンク・フロイド(1971)
キング・クリムゾンと双璧をなすプログレ界のカリスマグループ
『吹けよ風、呼べよ嵐』はブッチャー(プロレスラー)入場の際のテーマソングとして使われたので、日本ではかなり有名
片面1曲を占める大作『エコーズ』は彼らの代表曲の一つ





■『タルカス』/EL&P(1971)
20分を超える組曲『タルカス』のキース・エマーソンのキーボード・プレイは、まさに圧巻の一言
2012年の大河ドラマ『平清盛』では、吉松隆のオーケストラ・ヴァージョンが使われている





洋楽巡礼(3)~みんなビートルズが大好きだった!

2013-09-23 | 音楽・オーディオ

〇そんなヒロシに誘われて
1972年4月ぼくは中学3年生になり、中2のときポップスの楽しさを教えてくれたI君とは残念ながら違うクラスになったのだが、ぼくにとってその後の音楽人生を左右するくらいの大きな出会いがあった。旧友ヒロシとの再会である。ヒロシとは小学校のときよく一緒に遊んだ幼馴染なのだが、中学に入ってからはクラスが違ったため疎遠になっていた。中3で再び同じクラスになったぼくたちは、たまたまヒロシが無類の洋楽ファンということもあり、すっかり昔に戻り意気投合したのである。
ある日そんなヒロシから、名古屋でビートルズの映画大会みたいなのがあるから一緒に行かないかと誘われたのだ。ビートルズはちょうど『ヘイ・ジュード』というアルバムを買ったばかりで、これから本格的に聴いていこうと思っていたので二つ返事でOKした。映画は、『ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!』、『ヘルプ4人はアイドル』、『イエロー・サブマリン』、『レット・イット・ビー』の4本立てだったのだが、『レット・イット・ビー』以外はつまらなかったので、ほとんど内容は覚えていない。その分『レット・イット・ビー』の印象は強烈で、スタジオ・セッションの様子や、アップル社屋上での「ルーフトップ・コンサート」の生演奏に感動し、すぐにアルバムを買ってしまったほどである。思えば「ルーフトップ・コンサート」は中1のとき、アニメの『サザエさん』のCMで見ているのだが、その時はまさに「ネコにコバン」状態だったのだから、人間は変われば変わるものである。

〇ビートルズにハマる
ちょうどこの年は、ビートルズがレコード・デビューして10周年にあたり、レコード発売元の東芝EMIでは販促目的でイベントを開催していた。ビートルズのレコードを買うと、特典として「ビートルズミニ百科」のような小冊子(カラー刷りで写真も多数掲載)と『レット・イット・ビー』のジャケットに使われている4人の大判ポスターが店頭でもれなくもらえるのだ。ヒロシはジョンとポールのポスターをパネルにしたものを部屋に飾っていて、これがもうムチャクチャカッコよかった。ぼくもジョンかポールのポスターが欲しかったのだが、時すでに遅くジョージかリンゴのポスターしか残っていなかった。結局残り少ないジョージのポスターで我慢することにしたが、リンゴのポスターが大量に余っていたのがちょっと悲しかった。

〇ビートルズがくれた甘くてほろ苦い思い出
当時ビートルズはぼくたちの世代にも大人気で、洋楽ファンのクラスメートたちにもビートルズは浸透していた。同じ班でたまたま席が隣になった女子のMさんもビートルズの大ファンだった。小柄でちょっと色黒、瞳の大きな活発な女の子だった彼女は、気軽にぼくに話しかけてくれた。当時かなりの奥手だったぼくは、面と向かって女子と話をするのは苦手だったのだが、彼女とビートルズの話しをする時は不思議とリラックスして自然体で話をすることができた。授業の始まる前のほんの短い時間だが、彼女とビートルズの話しで盛り上がるひと時は今までに経験したことのない至福の時間だった。
しかしこの幸福な時間も長くは続かなかった。次の席替えで彼女とは別の班になり、ほとんど話す機会がなくなってしまったのだ。当時は男子と女子でグループにわかれて話をすることがほとんどで、特定の男子と女子が1対1で親密に話をしたり、一緒に下校するなんてことは、まず考えられなかった時代だった。いつの時代の話しだ、と思う方もあるだろうが、40年前の田舎の中学校ではそれがごく当たり前だったのだ。そんなクラスの雰囲気の中で、わざわざ離れた席の彼女の所まで行って、女子のグループの話に割り込む勇気などぼくにあるはずもなく、楽しそうにおしゃべりする彼女を遠くで見ているのが精いっぱいだった。ビートルが運んでくれたMさんとの幸せな時間は、今でもちょっと甘くてほろ苦い思い出として胸の奥に残っている。


■初めて買ったビートルズのアルバム『ヘイ・ジュード』/1970年
未収録のシングル曲などを中心に編集されたアメリカ盤
彼らの意に反したレコード会社独自の寄せ集め的なアルバムだが、それぞれの楽曲はもちろん名曲ぞろい
 


■『レット・イット・ビー』/1970年
元々は1969年「ゲット・バック・セッション」として録音されたがお蔵入りになり、フィル・スペクターが手を加え発表された事実上のラスト・アルバム
『レット・イット・ビー』の収録曲は、映画の中で演奏されているテイクとは別物で、もとの演奏に近いテイクに戻した『レット・イット・ビー・ネイキッド』が2003年にリリースされた




■『アビイ・ロード』/1969年
リリースは『レット・イット・ビー』より前だが、実質的には最後に録音されたアルバム
B面のメドレーは圧巻で、コンセプト・アルバムとして『サージェント・ペパーズ・・・』と並ぶ代表作
個人的にはジョージの2曲『サムシング』と『ヒア・カムズ・ザ・サン』の美しいメロディーが印象に残る
4人が並んでアビー・ロードの横断歩道を渡るジャケットはとくに有名
 


■『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)/1968年~ビートルズ唯一の2枚組アルバム
アルバムとしてのまとまりは全くなく、メンバーがそれぞれに好きなことをやって、「こんなんできました~」という感じ
でもその分、ポップス、ロックン・ロール、サイケデリック、前衛音楽、ヘビ・メタなどバラエティーに富む曲が満載
グループとしては「崩壊の前日」という感じだが、メンバーそれぞれの音楽的嗜好が全面に出て、ファンには楽しめる
ジョージの『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』が泣ける!



■『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』/CD1996年(1968~70年の未発表曲や別テイクを収録)
『ホワイト・アルバム』、『ゲット・バック』、『アビイ・ロード』の各セッション期のアウト・テイクやデモ版など、お宝音源満載
個人的にはビートルズにハマるきっかけになった『ルーフ・トップ・コンサート』最後のライヴ演奏『ゲット・バック』がそのまま聞けるのは嬉しい限り
ポールがピアノの弾き語りで切々と歌う『ロング・アンド・ワインディング・ロード』も絶品!



〇ビートルズから入る洋楽のススメ
ぼくたちの世代は、本格的に洋楽を聴きはじめたのはビートルズからというヤツが多かった。ビートルズの活動期間はたった8年間だったが、その間に発表されたオリジナルアルバム12枚を年を追って聴くと、ポップ・ミュージックの歴史そのままに彼らの音楽が時代とともに変遷していくのがよくわかる。前期のストーレートなロックン・ロールから、後期のスタジオワークを駆使した凝りに凝った楽曲まで、すそ野が広いので洋楽入門者はどこから聴いてもそれなりに楽しめるのである。

ぼくは彼らがスタジオワークに専念しだした『サージェント・ペパーズ…』から『アビイ・ロード』までの後期の作品に特に心惹かれるものがあったが、それはその後聞くようになったジャズ・ロックやプログレ、フュージョンと呼ばれる分野の音楽につなっがていった。
ビートルズを山に例えると(なんで山なんだ?という疑問はさておき)、洋楽界に燦然と輝く美しい独立峰、世界遺産の富士山のような存在と言えるだろう。誰もが知っていて、登山コースがわかりやすく、パッと見アプローチしやすいので、とりあえず登ってみようかという気持ちになる。登った後どうするかは個人の自由で、つまらないからそこでやめる人、面白そうだからほかの山にも登ってみようと思う人、すっかりハマって日本アルプスやヒマラヤのような本格的な登山を目指す人、はたまたふもとの樹海で迷って出口が分からなくなる人(プログレの底なし沼に踏み込んだぼくのこと)。

ビートルズは洋楽に興味のある人すべてに優しく、素晴らしい道案内人になってくれる。昔の洋楽に興味はあるが、何から聴いたらいいかわからない人には、まずビートルズのベスト盤をお奨めする。そこからどのコースに進むかはあなたしだい。60~70年代の洋楽山脈の規模はとてつもなく広大で深い。道に迷いながら山に分け入って、そこであなたのお気に入りの音楽世界を発見した時の喜びはまた格別である。


洋楽巡礼(2)~いつまでも色褪せないS&Gの世界

2013-09-19 | 音楽・オーディオ

1972年に入った頃から、ぼくはヒットチャートとは別に、特定のアーティストにも興味を持つようになった。たまたまラジオで聴いたサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がいたく気に入り、早速『サウンド・オブ・サイレンス/ミセス・ロビンソン』のシングルレコードを買った。彼らの美しいハーモニーとポール・サイモンの楽曲に魅了され、シングル盤だけでは飽き足らず、こづかい2か月分を貯めてついに生まれて初めてのLPレコード(アルバム)『サイモン&ガーファンクルズ・グレーテスト・ヒッツⅡ』を手に入れた。

買ったその日から1枚しかないレコードを繰り返し聴いた。ポール・サイモンの紡ぎだす、ちょっと哲学的で文学的な世界は、ヒットチャートのポップスに飽き足らなくなっていたぼくには新鮮で魅力的だった。少年から大人への階段を上る思春期まっただ中の多感な時期だからこそ、S&Gの歌声は雪のようにしんしんと心の奥に降り積もり、心に響いたのである。誰にも邪魔されないその静かな灰色の世界は、その頃のぼくにとって最高に居心地の良い場所だったのだ。


■映画『卒業』のサントラ盤『サウンド・オブ・サイレンス』(1968)
ジャケット表紙は『サウンド・オブ・サイレンス』がトップに書かれているが、
レコードレーベルとジャケット裏の解説は『ミセス・ロビンソン』がA面扱いになっている。
『サウンド・オブ・サイレンス』が後に人気が出て、ジャケットの表紙だけ差し替えたのだろうか?



■『サイモン&ガーファンクルズ・グレーテスト・ヒッツⅡ』(1972)
当時S&Gは人気絶頂で、この時期多くの日本盤ベストアルバムがリリースされた



CDになってからも新しい音源がリーリースされるとついつい買ってしまう。
S&Gはまさに『Old Friends』(旧友)のような存在で、ぼくのなかでは青春時代に出会った時と変わらず、いつまでも色褪せることはない。
今でも突然聴きたくなることがあるので、愛用のWALKMANにはいつも入れっぱなしになっている。

■『The Concert in cenntral Park』(1982)アメリカ盤
53万人の観衆を動員した1981年セントラル・パークでのライヴ



■『冬の散歩道~S&Gスター・ボックス』(1994)日本編集版
『冬の散歩道』収録のCDベスト盤が欲しかったので買ってしまいました



■『ライヴ・フロム・ニューヨーク・シティー1967』(2003)
ポール・サイモンのアコギ1本で聴かせる若かりし日の二人のハーモニーが最高!




洋楽巡礼(1)~裕ちゃんとショッキング・ブルー

2013-09-16 | 音楽・オーディオ

〇夜明け前
洋楽(ポップス)との出会いについて当時を思い返してみたのだが、中学に入学した当初(1970年)は洋楽にはまったく興味がなかった。この年はビートルズが事実上解散状態になり、5月に最後の作品となる『レット・イット・ビー』をリリース、サイモン&ガーファンクルも3月にリリースした『明日にかける橋』が世界的に大ヒットを記録しているのだが、リアルタイムに聴いた記憶がまったくないのだ。ただアニメ『サザエさん』の時に流れていた東芝のステレオボストンのCMで、映画『レット・イット・ビー』のルーフトップ・コンサートの場面が使われていたのは覚えているのだが、悲しいかなこのときは「へえー、これがあの有名なビートルズか」くらいにしか思わなかった。

〇洋楽との出会い
1970年は洋楽に特に関心がないまま過ぎてゆき、年が明けた1971年の冬のある日の昼下がり、たまたま居間のラジオから聴こえてきたのが、石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』だった。そのあと続けて英語の女性ボーカルの哀愁を帯びた歌声が流れてきたのだが、それがショッキング・ブルーの『悲しき鉄道員』という曲だった。そのちょっと切ない旋律は、それまで洋楽を耳にしても、特に興味を覚えることもなく聞き流していたぼくの中にすんなり入ってきて、強く心に残ったのである。今でもこの曲は、『夜霧よ今夜も有難う』とセットになって記憶されていて、裕ちゃんとショッキング・ブルーは、ぼくのなかでは固く結びついているのである。

〇オトナへの階段
そしてその年の4月、中学2年生になると新しいクラスメートたちの影響で、 ラジオをよく聴くようになった。特に地元東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」や、、ポップスベストテンなどの洋楽チャート番組を聴くようになると、最新のポップスにすっかりハマってしまったのだ。中学1年までは夜中にラジオを聴くなんて思いもよらなかったのだが、今から思うとこの時期がコドモからオトナへの階段の第一歩だったようだ。ちょうど思春期まっただ中で、ちょっと背伸びをしたかったぼくにとって、今まで聴いていた日本の歌謡曲とは違う洋楽ポップスは、新しいものへの好奇心を満足させてくれる対象として、ぴったりのアイテムだったのである。

〇友人との出会い
洋楽好きのクラスメートの中で、特に親しくなった友人のI君は、父親の仕事(大学教授)の関係で、小学6年生までアメリカで過ごしたいわゆる帰国子女だった。授業では先生から発音のお手本によく指名されるのだが、今思うとアメリカ帰りのI君の前では、先生もかなりやりくかったに違いない。そんなI君はポップスにも詳しく、英語の歌詞を分かりやすく解説してくれたり、おすすめのグループや洋楽を教えてもらったり、彼の薫陶よろしくぼくはどんどん洋楽好きになっていった。

〇初めて買った洋楽レコード
そしてこの年、ぼくは生まれて初めて洋楽のシングルレコードを買った。それはミッシェル・ポルナレフの『シェリーに口づけ』と、ダニー・オズモンドの『ゴー・アウェイ・リトル・ガール』だった。とくに『シェリーに口づけ』は当時フレンチポップスとか言ったと思うが、フランス語で「トゥートゥートゥマシェリー」と歌う特徴的な歌詞のリフが大好きで、飽きずに何度も繰り返し聴いたものである。

〇71年洋楽ヒットチャート
その他ぼくの大好きだった1971年のヒット曲をあげてみると、カーペンターズの『ス-パースター』、ポップ・トップスの『マミー・ブルー』、シカゴの『クエスチョンズ67&68』、スリー・ドッグ・ナイトの『喜びの世界』、オーシャンの『サインはピース』、チェイスの『黒い炎』、ジョン・レノンの『イマジン』などだが、当時のこづかい(1000円/月)ではそうそうレコードは買えなかった。その分ラジオのポップス番組を熱心に聞いていたので、これらのヒット曲は今でもすぐ口ずさめるくらい記憶に残っている。

 

■シェリーに口づけ/ミッシェル・ポルナレフ(1971)
テレビCMなどでも使われている名曲で、レコードジャケットもいかにも70年代っぽい



■ゴー・アウェイ・リトル・ガール/ダニー・オズモンド(1971)
オズモンドブラザーズのNO1アイドルで、この曲で全米1位を獲得



■愛するハーモニー/ザ・ニューシーカーズ(1972)
一度聴いたら忘れられない親しみやすいメロディーと美しいハーモニーの名曲
コカ・コーラのCMソングとして世界中で大ヒットした



〇72年洋楽ヒットチャート
年が変わった1972年も、相変わらずポップスのヒットチャートは熱心に聞いていた。ドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』(8分以上もある長い曲)、ニール・ヤングの『孤独の旅路』、バッドフィンガーの『デイ・アフター・デイ』、ポール・サイモンの『母と子の絆』(S&G解散後初のソロシングル)、『ぼくとフリオと校庭で』、アメリカの『名前のない馬』、ギルバート・オサリバンの『アローン・アゲイン』、スリー・ドッグ・ナイトの『ブラック・アンド・ホワイト』、ポール・マッカートニーの『アイルランドに平和を』、シカゴの『サタデー・イン・ザ・パーク』、T・レックスの『メタル・グウルー』、などなど今聴いても名曲が目白押しである。



アイドルの時代(4)~黄金期後半(1976~1979)Part2

2013-09-10 | 音楽・オーディオ

大学時代のアイドルにまつわるエピソード後半です。

〇アグネス・ラムとグラビア雑誌争奪戦
この頃のアイドルで特に印象に残っているのが、現在で云うグラビアアイドル(グラドル)の元祖アグネス・ラムである。1976年大学1回生の夏、いつものようにバイトから帰ると商学部のF先輩の部屋を訪れた。部屋に入ると先輩は、いつものポジションに座り、壁にもたれてギターを爪弾きながら、因幡晃の『わかって下さい』を静かに歌っていた。F先輩はギターを弾く手を止めて、壁に貼られたポスターを指差しながら「どう、ええやろ」と嬉しそうに言うのであった。

F先輩の指差す壁には、水着姿の女の子のポスターが貼ってあった。その女の子は東洋系の愛くるしい顔立ちで、美少女タイプなのだが、小麦色の肌に付けた小さなビキニに隠された胸は、今にもはちきれんばかりの大きさだった。当時はまだ巨乳という言葉はなかったが、その豊かな胸に不釣合いなキュートな顔立ちが、えも言われぬアンバランスな魅力を醸し出していて、ぼくは思わずポスターを穴のあくほど見つめてしまった。

ぼくは当時バイトに明け暮れるかなりの貧乏学生だったので、『週刊プレボーイ』、『平凡パンチ』、『GORO』などの、いわゆる青年誌と呼ばれる雑誌を自分で買うことはほとんどなかった。F先輩はこれらの雑誌をよく買っていて、読み終わった後にお下がりを読ませてもらっていたのだが、最終的にいらなくなると自分の部屋のドアの横の廊下に出しておくのである。これには理由があり、当時ぼくが下宿していた学生アパートは、オーナー兼管理人のオバチャンが廊下の掃除もしてくれたのだが、読み終わった新聞や雑誌を廊下に出しておくと、掃除のついでに回収してくれるシステムになっていたのだ。つまり廊下にいったん出された雑誌の類は、持ち主が所有権を放棄したとみなされ、その瞬間誰の所有物でもなくなるのである。

F先輩の他にも青年雑誌を廊下に出す先輩が数人いて、その部屋の前には不定期に雑誌の山ができるのだが、タイミングよくその部屋の前を通りかかり、たまたま自分のお目当てのアイドルが載っている青年誌がゲットできればかなりラッキーということになる。だがこの所有権が放棄された雑誌を狙っているのはもちろんぼくだけではない。当時グラビアで人気のあった、アグネス・ラムはもちろん、山口百恵、水沢あき、竹下景子などが激写された号はかなりの競争率で、他の下宿生との熾烈な争奪戦に勝ち残ったものだけが、愛しの女神たちのグラビアを手に入れることができたのである。


〇キャンディーズの黒パンツ
確か77年か78年ころの話だが、同じ下宿のHは大のキャンディーズファンだった。親衛隊に入っている友人からチケットを手に入れた彼は、初めてのコンサートへ勇んで出かけていった。

コンサートから帰ったHに皆で「どうだった?」と問いかけると、「最高によかったでえ~」と和歌山出身のHは関西弁でコンサートの様子を語りだした。「キャンディーズはミニはくやろ。席が前の方やからパンツが見えるねん。それが黒色でな、スーちゃんの生パンツ見てもうたわ」とスーちゃんファンのHは、ちょっと照れながら興奮冷めやらぬ様子で語ってくれるのである。もちろんパンツは「見せパン」なのだが、そのいじらしさに感動したぼくたちは、その日からしばらく彼を「クロパン」と呼んだのは言うまでもない。

そんなHの大好きだったスーちゃんも、今は還らぬ人になってしまったが、同じ時代を生きた同世代のぼくたちの記憶には、あの頃のスーちゃんの姿が今もしっかりと焼きついている。
今でもスーちゃんのことを思うと、あの日の嬉しそうなHの顔が浮かんでくるのである。


■キャンディーズ13th『やさしい悪魔』(1977年)
喜多条忠/吉田拓郎コンビの楽曲。バックのハモンドオルガンのアレンジが印象的。



■渡辺真知子の1st『迷い道』(1977年)
八神純子と同じヤマハポプコン出身のソングライター
他のニューミュージック系のアーティストと違い、テレビの歌番組などにもよく出演していた
78年にリリースされたアルバム『フォグ・ランプ』は完成度が高く、ぼくの下宿の洋楽ファンたちからも高い支持を得ていた




〇お気に入りのアイドルたちのグラビアの切り抜きが、自作のカセットレーベルとして残っていたので紹介しよう。

■当時ラムちゃんのグラビアには大変お世話になりました!
そういえばラムちゃんの服を着た写真をみたことがないのはぼくだけ?



■未来のダンナに激写された70年後半の頃の南沙織



■ぼくのなかでは大場久美子といえば、オリンパスOM10のCM(1979年)が頭に浮かぶ
白いタオルを肩にかけカメラ目線でたたずむ美少女・・・
最後にタオルを取った時の真っ赤な水着が印象的だった



■デビュー当時の川島なお美と石川ひとみ(78年~79年)
二人ともすごい美少女、今見てもカワイすぎる!
川島なお美は当時青山学院在学中で、後に『お笑いマンガ道場』でブレイク
石川ひとみは81年リリースの『まちぶせ』がヒットしました
 

70年代はキャンディーズと山口百恵の引退でひとまず幕が下り、80年代に入るとすぐに松田聖子、中森明菜、小泉今日子などの新しいスーパーアイドルが次々に出現、アイドル第2次黄金期を迎えるのであった。


アイドルの時代(3)~黄金期後半(1976~1979)Part1

2013-09-07 | 音楽・オーディオ

70年代アイドルもいよいよ後半戦、1976年以降にデビューしたアイドルを紹介しよう。
おもな印象に残っているアイドルをあげてみると、ピンクレディー、アグネス・ラム(76年)、榊原郁恵、大場久美子、清水由貴子、荒木由美子(77年)、石野真子、石川ひとみ(78年)、倉田まり子、川島なお美(79年)などである。
南沙織にハマった後は、特に好きなアイドルがいなかったぼくは、大学生活を送ることになった大阪の学生アパートで、たくさんのアイドル好きたちに出会うことになった。そのエピソードは、今になって思い返してもほんとにしょうもなくアホらしいもので、ここで紹介するのも気が引けるのだが、誰もが覚えのある若気の至りということでご勘弁願おう。


〇ザ・ベストテンは永遠に不滅です
同級生のKは、ツェッペリンやパープルを聞きながら、ラジカセにエレキを繋いで早弾きの練習をするゴリゴリのハードロックファンなのだが、ピンクレディーの大ファンでもあった。78年1月から始まった歌番組「ザ・ベストテン」放送の頃は、ちょうど『UFO』が大ヒットしていて、彼は毎週出演するピンクレディーがどうしても見たくてしょうがないのだが、下宿の同級生は当時誰もテレビを持っていなかった。

そこで白羽の矢が立ったのが、カラーテレビを持っていた一年上のKと同じ工学部のM先輩だった。M先輩にお願いして、都合のいい日は「ザ・ベストテン」を見せてもらえることになり、木曜9時になるとぼくたちはM先輩の部屋に集合し、楽しくテレビ鑑賞にいそしんでいた。しかし平和な日々は長くは続かなかった。どこからか噂を聞きつけた住人たちが一人増え二人増え、3ヶ月もすると多いときには総勢7~8名になることもあり、狭い部屋は完全に定員オーバー状態になってしまったのだ。ついにM先輩からベストテン禁止令が出て、ぼくたちのささやかな楽しみは終焉を迎えてしまったのだが、それだけみんなアイドルが見たかったのである。

短い間だったが、T先輩の部屋でみんなでわいわい言いながら見たピンクレディーや山口百恵、キャンディーズの思い出は、これからジイサンになっても忘れることはないだろう。


■ピンク・レディー6th『UFO』(1977年)
彼女たちの最大のヒット曲で独特の振付はあまりにも有名
70年代後半のアイドル黄金期をキャンディーズとともにささえた
  


〇麻雀中毒者悶え苦しむリリーズ無間地獄の夜
70年代大学生の間で流行っていたものに麻雀(マージャン)がある。当時はスマホはおろかTVゲームもパソコンもネットも影も形もなく、ぼくたちは授業の空き時間を、麻雀やビリヤードをするか、喫茶店などに入りびたって過ごしていた。

同じアパートの同級生、法学部のAも無類の麻雀好きで、ほとんど授業は出ず毎晩テツマンの日々を送っていた。アパートには30人近く同じ大学の学生が下宿していたので、麻雀の面子には事欠かず、Aの部屋は夜ごと雀荘と化し、ギャラリーも含め多いときには毎晩6~7人がたむろしている状態だった。そして麻雀のときのBGMには、決まってAの大ファンであるリリーズの曲がエンドレスで夜中じゅう流れているのだった。

ぼくはリリーズの最大のヒット曲『好きよキャプテン』も知らなかったのだが、Aの部屋で麻雀をしているうちにいつの間にかフルコーラス歌えるようになっていた。さすがにリリーズだけではと、ロック好きのKからディープ・パープルの『ライブ・イン・ジャパン』をダビングさせてもらったのだが、今度はそればかり流すので、全員がリッチーのギターソロを覚えるはめになってしまった。

そんな麻雀にドップリはまっていたAだが、卒業後は一念発起、十数年かかって司法試験にみごと合格、テツマンで鍛えた精神力はダテじゃなかったと、当時の麻雀仲間たちから祝福されたのであった。(めでたし、めでたし)


■ザ・リリーズ2nd『好きよキャプテン』(1975年)
リリーズといえばやっぱりこの曲、彼女たちの最大のヒット曲


アイドルの時代~黄金期Part2に続く・・・


アイドルの時代(2)~黄金期前半(1972~1975)

2013-09-04 | 音楽・オーディオ

「アイドルの時代」2回目は、ぼくが中3~高3、1975年までにデビューしたアイドルを中心に振り返りたいと思う。

1971年の新三人娘のデビューをきっかけに、翌年から75年までに多くのアイドルがデビューを果たした。印象に残っている有名どころをざっとあげてみると、麻丘めぐみ、アグネス・チャン、森昌子(72年)、浅田美代子、桜田淳子、山口百恵、キャンディーズ(73年)、浅野ゆう子、林寛子、木之内みどり、伊藤咲子、太田裕美、松本ちえこ、リンリン・ランラン(74年)、岡田奈々、岩崎宏美、ザ・リリーズ(75年)などで、もちろんその他にも有象無象のアイドルたちが、デビューしては朝露のようにはかなく消えていったのである。

1970年当時アイドルと呼べたのは、岡崎友紀と吉沢京子くらいのものなので、71年を境にまさにアイドルの量産時代に突入したわけである。もちろん歌手だけにとどまらず、グラビア、CM、映画などで活躍するアイドルも増え、毎年様々なタイプのアイドルたちが次々とデビューしてくるので、まさに選り取りみどり、みんな当時はお気に入りのアイドルが必ず一人はいたものである。

高校生になってからは、ロックにどっぷりと浸っていたこともあり、アイドルにはあまり熱心ではなかったのだが、特筆すべきはぼくが高1のときに、山口百恵とキャンディーズがデビューしていることだ。山口百恵とキャンディーズの共通点は、どちらもその人気絶頂期に突然引退したことだ。それぞれ理由は違うが(結婚と普通の女の子に戻るため)その引き際はあまりにいさぎよく、かっこよくて、現在もスーパーアイドルとして語り継がれるている。


■1~2枚目のシングル『ひなげしの花』と『妖精の詩』が入る4曲入りレコード(1973年)
『ひまわりの小路』はチェリッシュ、『白い色は恋人の色』はベッツィ&クリスのカヴァー曲



■レコードに付いていたCBSソニーの「アーティストカード」の広告チラシ(73年頃)
懐かしい顔ぶれが並んでいるが、当時ヤングなアイドルもいまや全員が50~60歳代になってしまった



■西崎みどりの代表曲『旅愁』(1974年)『暗闇仕留人』(『必殺シリーズ』第4作)の主題歌
このとき彼女は14歳ながら抜群の歌唱力で、『旅愁』はミリオンセラーに輝いた
ちなみにレコードは演歌好きの父親が買ったもの



■太田裕美の代表曲『木綿のハンカチーフ』(1975年)
松本隆/筒美京平コンビの昭和ポップス歌謡を代表する名曲中の名曲
同じコンビの楽曲で『赤いハイヒール』、『九月の雨』などもヒットした
レコードは当時中学生だった弟が買ったものだが忘れ去られ、今回たまたま押入れの奥から発見された



アイドルの時代(1)~新三人娘のデビュー/1971年

2013-09-01 | 音楽・オーディオ

忘れもしない1971年、中学2年生のときだった。生まれて初めてアイドルというものにハマったのである。
そのアイドルの名は、南沙織。この年にデビューした小柳ルミ子、天地真理とともに「新三人娘」と呼ばれ、ぼくたちうぶな中学生のハートをわしづかみにしたのだった。

新三人娘といっても、もちろん「モーニング娘。」や「かしまし娘」のようなユニット名ではない。歌謡界の四天王や御三家と同じような意味で使われたので、それだけ彼女たちの人気が高かったと言えるだろう。新があるということは旧もあるということで、ちなみに「初代三人娘」は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみである。

ところで現在一般的に認知されている女性アイドル像、10代~20代の可愛らしく親しみやすい女の子というイメージは、この新三人娘あたりからではないかと言われている。1960年代にも美空ひばりや吉永小百合のような国民的青春スターは存在したが、現在の「となりのお姉さん」的アイドル像とは全く違う、あくまで庶民とは一線を画した雲の上の「スター」という呼び名がふさわしかったのだ。そのスターが雲の上から地上に降りてきたのが「新三人娘」あたりからというわけだ。
この三人のデビューが、その後の70年代~80年代のアイドル全盛期の幕開けになるるわけで、山口百恵、松田聖子、中森明菜という国民的スーパーアイドルの系譜へとつながっていくのである。

もちろんその当時、新三人娘は同じクラスの男子の間でも大人気。清楚なお嬢さんタイプの天地真理、活発で帰国子女タイプの南沙織、和風美人でお姉さんタイプの小柳ルミ子と三者三様タイプが違うので、それぞれ自分の好みに合わせて「ぼくは断然まりちゃんだな」とか「やっぱりシンシア(南沙織)が最高だよ!」とか勝手に盛り上がっていたのだから可愛いものである。

ぼくは言うまでもなく南沙織ファンで、初めてテレビで見た瞬間、あまりの彼女の可愛さに完全にノックアウトされてしまったのだ。
学校から帰るとまず新聞のテレビ欄を隅々まで見て、彼女が出演する歌謡番組はすべてチェック。生まれて初めて『明星』や『平凡』という芸能雑誌というものを買って、付録のポスターを部屋中に貼りまくり、寝るときには天井に貼ったポスターを眺めては、彼女との二人の世界の妄想に浸っていたのである。

ここで当時の中学生が夢中になった新三人娘を簡単に紹介しておこう。

○最初の国民的アイドル天地真理
天地真理は「隣のマリちゃん」としてあの伝説的ホームドラマ『時間ですよ』でデビュー。松の湯の屋根の上で堺正章と『涙から明日へ』などを歌っていた。その頃ぼくはもう南沙織のファンだったのだが、真理ちゃんの清純な可愛さに惹かれ、『時間ですよ』を毎週見るのが楽しみになった。もちろんお約束の女湯シーンもお目当てだったのは言うまでもない。
真理ちゃんはその後「水色の恋」で歌手デビューも果たし、親しみやすい可愛いお嬢さん的キャラで、またたく間にお茶の間のアイドルになった。デビュー当時のキャッチフレーズは「白雪姫」。これを現在使ったらまさに「噴飯もの」だが、当時は可憐で汚れを知らない真理ちゃんの清純なイメージとして、ぼくらのあいだでは違和感なく普通に受けいれられていた。人の心もおおらかだった古き良き時代の話しである。
その後は今で言えば、AKB48のような国民的アイドルとして芸能界のトップアイドルを独走、全盛期の1973年までの2年の間に5曲がオリコンシングルチャート1位を獲得している。


■デビューシングル『水色の恋』~1971/10/01



■最後のオリコン1位獲得シングル『恋する夏の日』(1973/07/01)のあとに出たシングル2枚は、3位と4位に終わった。
真理ちゃん人気はピークを過ぎ、このあと2度と1位に返り咲くことはなかった。
 



○実力派アイドル小柳ルミ子
小柳ルミ子はデビュー曲がポップス演歌調の『わたしの城下町』ということもあり、ぼくのような中学生には、日本的で綺麗な大人のお姉さんという印象だった。歌唱力は三人の中では群を抜いており、『わたしの城下町』がその年の年間売上1位を獲得、1972年には『瀬戸の花嫁』で歌謡大賞を受賞、その後も抜群の歌唱力で実力派シンガーとしての地位を築いたのである。
悲しいかな当時のぼくは幼すぎて、彼女の魅力が十分に理解できなかったのだが、後に映画『白蛇抄』で妖艶なヌードを披露するに至り、あらためて彼女の魅力を再認識したのであった。(もっともこれは、単なるスケベになっただけというのが正しい)


○アメリカンスクールが似合うちょっと知的なアイドル南沙織
1971年は沖縄のアメリカからの返還が決定された年で、沖縄出身の彼女はまさにタイムリーなデビューとなった。母の再婚相手がフィリピン人という生育環境のため英語が堪能(今風に言えばバイリンガル)で、シンシアというクリスチャンネームを持つ17才の女の子は、他のアイドルにはない知的でアメリカナイズされた雰囲気を持っていた。、当時ぼくは、ちょうど洋楽(ポップスやロック)に興味を持ち始めた時期で、ネイティブな発音でポップスを歌う彼女の姿にあこがれと尊敬の念を抱いたものだった。
ところがシンシアに捧げた情熱も長続きせず、年が変わる頃から友人の影響で知った洋楽(ロック)に夢中になり、セカンドシングル「潮風のメロディー」の頃をピークに、あの頃の熱気はだんだんと冷めていったのだった。

その数年後大学生になって、同じ学生下宿にいた熱烈な南沙織ファンの持っていたアルバムを聞き、デビュー当時の少女から大人になった彼女の歌声に再び魅了されることになった。『人恋しくて』や『哀しい妖精』などしっとりとした楽曲を歌い上げる彼女はやっぱり最高で、そのとき録音させてもらったカセットテープは今も大切に持っている。
ぼくにとって最初で最後のアイドルはやっぱり"「南沙織~シンシア」で、彼女と初めて出会った頃の思い出は、オヤジになった今でも青春の1ページとして深く心に刻まれている。
しかし『GORO』で篠山紀信に激写され、あっという間にもっていかれてしまった時はショックでした・・・


■デビューシングル『17才』~1971/06/01)
シャツのカニのイラストは、彼女の星座である蟹座をデザインしたもの。
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■セカンドシングル『潮風のメロディ』~1971/10/01
デビューシングルは「海辺の恋」のイメージだが、このシングルでは終わった夏の恋をしっとりと歌い上げている。



■6thシングル『早春の港』(1973/01/21)~ぼくの一番好きな楽曲で、いつ聴いても癒されます。
デビューの頃と比べるとちょっとオトナっぽくなった感じです。今見てもやっぱりカワイイなあ~
 



ちなみに著名人やミュージシャンにも南沙織のファンは多く、よしだたくろうとかまやつひろしが『シンシア』という楽曲を彼女に捧げているのは有名なエピソード。
その後たくろうは浅田美代子と結婚しているので、やっぱりアイドル好きだったんだ。