かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

神宮農業館(三重県伊勢市)

2015-09-30 | 三重の近代建築

神宮徴古館のすぐ隣に建つこじんまりとした和風の外観の建物が神宮農業館です。

この建物は神苑会により神宮徴古館にさきがけ、農業の啓発と発展を目的として明治24年外宮前に創設されました。
38年に現在地に移転、大部分が新築され中庭を囲むロの字型の平面になりましたが、現在は望楼のある前半部のみに縮小されています。

広い展示空間を確保するため小屋組みは洋風トラスを採用、外観は真壁構造の白壁や長押、舟肘木など和風の建築様式でまとめています。設計は神宮徴古館と同様片山東熊で、和洋の外観の博物館がセットで残っているのは貴重です。


■建物正面全景



■望楼から左右に翼部を配したシンメトリーの平面



■和を基調に巧みに洋風意匠も取り入れた外観







■神宮農業館/三重県伊勢市神田久志本町1754-1
 竣工:明治38年(1905)
 設計:片山東熊
 構造:木造平屋
 撮影:2015/09/21
 ※国登録有形文化財 


神宮徴古館(三重県伊勢市)

2015-09-27 | 三重の近代建築

外宮と内宮の中間にある倉田山に明治~大正期に神苑会によって建てられた近代建築が現存しています。
神苑会は明治になって国家神道の中心的存在になった伊勢の地を、神都として整備するために明治19年に設立されました。
内・外宮周辺の民家撤去、山林買収などで神苑を整備し、倉田山に神宮徴古館、神宮農業館、神宮文庫などの文化施設を建設しました。

倉田山に残る近代建築で、最も規模が大きく見ごたえのある建物が神宮徴古館です。
神宮徴古館は明治42年に建てられた神宮の歴史・文化に関する博物館で、広大なヴェルサイユ宮殿を思わせる前庭を持つルネサンス様式の外観からは、歴史的な建造物が持つ威厳と気品が伝わってきます。

創建時はコの字型の平面中央ホールには銅板葺の角ドームが上げられていましたが戦災で大破、その後RC造にして2階を増築したため屋根の形は当初の面影をとどめていません。
白色の花崗岩と花崗岩風に加工した煉瓦石で化粧された外壁は当時のままで、全体的に上品で端正なイメージでまとめられています。

設計は宮廷建築の第一人者片山東熊で、同じ年に明治の洋風建築を代表する壮麗なネオ・バロック様式の東宮御所(赤坂離宮)をてがけています。



■正面外観~洋風庭園と一体になったシンメトリーな外観はまさに威風堂々、博物館にふさわしい重厚な雰囲気



■明治42年創建当時の外観



■ドームがなくなり2階に屋根が増築されたため、近代和風テイストが強くなりました



■改修のため博物館は閉館中、工事車両がとまっています









■三連アーチの窓のあるペディメントは戦後の増築部分





◆神宮徴古館/三重県伊勢市神田久志本町1754-1
 竣工:明治42年(1909)
 設計:片山東熊・高山幸次郎
 構造:煉瓦造・RC造2階(もと平屋)
 撮影:2015/09/21
 ※国登録有形文化財
 


ボンヴィヴァン 伊勢神宮外宮前店/旧山田郵便局電話分室(三重県伊勢市)

2015-09-22 | 三重の近代建築

シルバーウイークの連休、お伊勢参りもかねて伊勢神宮周辺の近代建築を巡りました。

伊勢神宮外宮の正面に、北欧風の民家を思わせる洋風建築が建っています。
外観はモルタル塗りの白壁に赤い瓦屋根の大きなドーマー(屋根窓)が特徴で、現在はフランス料理店として使われています。
この建物は旧山田郵便局電話分室として建てられましたが、元々東隣には現在明治村に移築されている本棟の宇治山田郵便局(明治42年)がありました。
設計は逓信省営繕課技師の吉田鉄郎。
旧山田郵便局電話分室は彼の初期の作品で、のちに東京中央郵便局や京都中央電話局、大阪中央郵便局などモダニズムの数々の傑作を残しています。



■建物北面~欧州の民家の雰囲気を醸し出しながら、日本の伝統的な神社建築の要素も感じられます





■北側入り口



■南側入り口~敷地が南北の道路に接しているので出入り口を2か所に設けています



■中庭を囲むコの字型の平面は、フランス料理店にぴったりなヨーロッパの雰囲気が漂い、とてもお堅い逓信省の建築とは思えません







■中庭に設けられた廊下が開放的な雰囲気を演出



■伊勢神宮の地元だけに随所に神社建築建築を思わせる造りを取り入れ、屋根には破風を多用し軒に向かって反りが入っています



■ボンヴィヴァン 伊勢神宮外宮前店(旧山田郵便局電話分室)/三重県伊勢市本町20-24
 竣工:大正12年(1923)
 設計:吉田鉄郎
 施工:志水組
 構造:煉瓦造平屋
 撮影:2015/09/21


飲食店のマッチ(3)~洋食・中華編

2015-09-20 | 昭和マッチコレクション

 

   
町の小さな洋食屋さんやレストランでの食事は心躍るものがあります。
ステーキ、ハンバーグ、エビフライ、ビーフシチューなど定番メニューは数あれど、私は洋食屋さんに入ると無性にオムライスが食べたくなります。
最近は卵が半熟のフワトロで、上に茶色のデミグラスソースをかけたちょっとオシャレなオムライスをよく見かけます。
しかし私は今でも昔ながらの正統派オムライスに心惹かれます。
ケチャップご飯を薄い卵で包み、その上に色鮮やかな真っ赤なケチャップと緑のグリンピースを数粒。
小さい頃デパートの食堂で食べたオムライスは、この赤・緑・黄の配色が鮮やかで、普段食べている家のごはんとは違う特別感がありました。
艶やかに輝く黄色い卵にスプーンをいれると、中からケチャップライスの赤い断面が現れ、もうそれだけでワクワクしたものでした。



 

  
現在はどこの町でも、北京や広東、四川料理など本格的な中華料理を出す店がたくさんあります。
しかし一昔前は、庶民が気軽に食べられる中華の代表といえば、ラーメン、チャーハン、餃子と相場が決まっていました。
ちなみに私が初めて本格的な中華料理を食べたのは大学に入ってからです。
中華といえばラーメンくらいしか知らなかった私が、初めて入った四川料理店で注文した「回鍋肉定食」の味は今でも鮮明に覚えています。
とはいえ、ラーメン、チャーハン、餃子はエビチリや麻婆豆腐などの新興勢力を押さえ、今も中華界のベスト3の座に君臨しているのは変わりがないようです。
現在は中華料理店とは別にラーメン専門店が台頭、有名店での行列は当たり前で、もはやラーメンは日本を代表するソウルフードといっても過言ではありません。



飲食店のマッチ(2)~和食編

2015-09-12 | 昭和マッチコレクション

和食の定番といえば、寿司・うなぎ・天ぷらといったところですが、最近ではすき焼き、しゃぶしゃぶ、焼肉といった肉料理も日本食を代表するメニューとして人気が高いようです。

専門店の和食も良いですが、私が一番好きなのは、いわゆる「大衆食堂」の和食や洋食です。
建築探訪などで初めての町を訪れ、さんざん歩いて腹を空かしたところで、街角のちょっと年季の入った大衆食堂へふらりと入る。
とりあえずビールを注文し、町歩きで渇いたのどに、「うぐうぐ」と冷えたビールを一気に流し込みまずは一息。
一緒に注文したつまみを待ちながらまたビールをぐびりぐびり。
そしてお待ちかね、到着したアツアツのカキフライ(その日の気分や店のメニューで注文は変わる)をほおばりながら、またビールを「うぐうぐ、ぷはあっ~」
大衆食堂の休日の昼下がりに過ごす時間は、ファミレスやマック、牛丼店では決して味わえない、至福のひと時を提供してくれるのです。


■和食のお食事処は、昔から外食の定番です
フランス、イタリア、中華、おいしい料理はたくさんあれど、やっぱりいつも食べるなら和食(日本食)です
 

 

 



 

 

 



飲食店のマッチ(1)~すし・うなぎ編

2015-09-06 | 昭和マッチコレクション

父のコレクションで喫茶店と並び数が多いのが飲食店の広告マッチです。
その中でも和食店の占める割合が高く、なかでも寿司と鰻の店はごひいきだったようです。

私の子どもの頃は、握り寿司(巻き寿司やいなり寿司は家庭でも作った)なるものは年に数回、お客さんが来た時の出前のご相伴にあずかるくらいで、鰻にいたっては食べた記憶がほとんどありません。
それでも時々父が寿司折を土産に買って帰る日があるのですが、そんな時はたいてい飲んでいて帰りが遅く、子どもの私は夢の中です。
酔うと機嫌がよくなる父は、帰宅すると母が止めるのも聞かず、寝ている私を起し土産の寿司を食べさせるのです。
こんな時でもなければめったに寿司は食べられないので、寝ぼけ眼をこすりつつ、夢うつつで握り寿司をほおばっていたのを覚えています。

庶民にとっては寿司も鰻も何か特別のイベントがなければ食べられない大御馳走で、現在とは比較にならないプレミア感がありました。
現在は回転寿司なるものが登場、鰻も輸入物がほとんどになり、昔と比べるとかなり身近な食べ物になりました。
昭和から30年近くが経過し現在でも、寿司と鰻は和食の代表としてその人気は根強く、特に回転寿司はリーズナブルな価格と多彩なメニューで、家族みんなで楽しめる外食店として不動の人気を維持しているようです。


■ほとんどが実家の近所の寿司屋さんですが、現在も営業している店は数えるほどです。
そう言えば昔は、漢字一字の魚の名前が書いてある寿司屋の湯飲みもよく見かけました。
  


 

 


■鰻を初めて食べに行ったのは高校生の時で、当時でも高級和食の代表でした