かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

七宝小学校校門(愛知県あま市)

2016-06-15 | まちかどの20世紀遺産

旧海部郡七宝町(現あま市)の中心にある七宝小学校には、昭和11年(1936)竣工の校門が残されています。
柱頭のデザインは昭和初期にしてはかなりクラッシクで、、明治~大正期の雰囲気が感じられ、同時期の旧制中学のシンプルなデザインの門とは対照的です。
七宝小学校には同じ年に建てられた講堂も現存しており、戦前の七宝町の面影を残す唯一の近代化遺産として貴重な存在です。


■門柱はタイル張りで、台座と柱頭は石造になっています



■これだけ立派な戦前期の講堂と校門が残る小学校はそうはありません。
これからも学校の象徴として末永く受け継がれていくと良いですね。

撮影:2016/05/04


鈴木禎次記念碑(名古屋市昭和区)

2016-05-29 | まちかどの20世紀遺産

鶴舞公園のすぐ東にある名古屋工業大学の敷地内に、鈴木禎次記念碑があります。
鈴木禎次はこのブログでもたびたび登場する日本の近代建築を支えた巨匠のひとりで、名古屋市を中心に東海地方で数多くの名建築を残しています。
記念碑は大正11年(1922)、名古屋工業(現名工大)の建築科教授退官を記念したもので、石碑に「OCT.1923」の銘があります。


■記念碑は近代建築の巨匠にふさわしく、古典主義建築を象徴するイオニア式オーダーがデザインされています



■オーダー下部の石碑には「TO COMMEMORATE THE MERIT OF PROF.SUDZUKI」と彫られています
 

◆鈴木禎次記念碑/名古屋市昭和区御器所町
 竣工:大正12年(1923)
 設計:鈴木禎次
 構造:石造
 撮影:2018/05/01 


旧サッポロビール名古屋工場遺構(名古屋市千種区)

2016-05-21 | まちかどの20世紀遺産

若宮大通とJR中央本線が交差する北東の一角には、現在イオンタウン千種と高層マンションが建ち並んでいますが、かつてここには大正期から操業していたサッポロビール名古屋工場がありました。ビール工場の東側には浩養園(昭和6年開業)が設けられ、工場出来立ての生ビールが楽しめるビアガーデンとして長年多くの人々に親しまれてきました。(浩養園は現在も引き続き営業中)

その浩養園とイオンタウンに挟まれた一画に高松南公園があります。その小さな公園の中央には、かつてサッポロビール名古屋工場でビール醸造に使われていた仕込み槽が残されています。そのかたわらには、大正13年竣工の工場の醸造棟の壁面の一部もレリーフとして保存されていますが、現在は生い茂る草に覆われ、かろうじて装飾が施された丸窓が確認できる状態です。

かつてこの地で、大正~平成まで操業を続けてきたビール工場の記憶のかけらは、公園の片隅で静かに時を刻んでいます。


■公園の一画に残された銅製の仕込み槽



■現在はステンレス鋼製に変わり、銅製の仕込み槽は姿を消しました



■初期のRC造工場建築で、当時流行の表現主義風の丸窓のある壁面が保存されています


 
撮影:2016/05/01 


松田橋遺構(名古屋市瑞穂区)

2015-11-25 | まちかどの20世紀遺産

旧東海道(県道222号)と国道1号が合流する松田橋交差点北西角にある八丁畷公園内に松田橋遺構が復元されています。
公園の説明看板によるとかつてこの辺りには用水が通っていて、松田橋という小さな橋が架かっていました。
橋の撤去に際し保存されていた親柱を使い、平成5年公園内に松田橋が復元されました。
大正の年号が刻まれた石造の親柱の丸く削った柱頭には、セセッション風のシンプルな装飾が施されています。


■3本の親柱と石橋が復元されています



■公園内にある説明看板



■大正十四年?の銘がある親柱



■現在の松田橋交差点~小さな石橋が架かっていた90年前に誰がこの風景を想像できたでしょう?

撮影:2015/11/03


津の琺瑯看板

2015-07-15 | まちかどの20世紀遺産

今回は津市の建築探訪で偶然琺瑯看板を発見しました。
最近は旧街道沿いでもほとんど琺瑯看板を見かけることは困難で、もはや絶滅寸前です。 


■ひさびさに発見!キンチョーの蚊取り線香とキンチョールの必殺2枚貼り。
過去に岐阜県でキンチョーの一大群生地を発見しましたが、まだあるんだろうか?心配です.....
となりの宝石店の北村の看板も小ぶりながら味があります。



■かなりの年代物の掲示板にしっかり琺瑯看板がディスプレイしてありました。
「赤いキャップのおそうじ道具」の看板は初めて見ました。



■琺瑯看板のある建物も昭和のオーラを発散していました。

撮影015/05/03



旧安濃津監獄正門(三重県津市)

2015-07-05 | まちかどの20世紀遺産

大門商店街から旧伊勢街道を南へ、岩田橋を渡り川沿いを西へ向かうとほどなく左手に三重刑務所の広い敷地が見えてきます。お目当ての旧安濃津監獄正門は、刑務所正面の駐車場の奥の木立の中にポツンと建っていました。もちろん正門以外の建物はすべて建て替えられているため、当時の安濃津監獄時代の全容は分かりませんが、残された煉瓦造の正門からは明治~大正期に建てられた監獄建築の一端を垣間見ることができます。

監獄建築と言えば明治期に建てられた、千葉、鹿児島、奈良、長崎、金沢の五大監獄が有名です。当時の建物の一部が今も残るのは、千葉、奈良監獄(現刑務所)のみで、鹿児島、長崎監獄は正門のみ現地保存、金沢監獄は正門と看守所、監房の一部が明治村内に移築保存されています。私は明治村の金沢監獄正門しか見たことはありませんが、東京駅にも通じる明治建築らしい赤煉瓦の美しいデザインでした。その他の監獄の正門もすべて煉瓦造りで、特に千葉と奈良監獄の正門はどこかのテーマパークの門と見まごうばかりの明るく華やかなデザインで、とても監獄の門とは思えません。

今回訪れた安濃津監獄正門も煉瓦造りですが、五大監獄の門に比べるとちょっと渋めの色合いで装飾も簡素、竣工が大正5年ということで明治期の赤煉瓦建築の華やかさにくらべ落ち着いた重厚な外観になっています。


■前の道路から駐車場の奥にある旧正門が確認できます



■正門はフェンスの中ですが、近くまで行って見学可能





■重厚感漂う焼きすぎ煉瓦の外壁に、赤煉瓦で色目を変えて幾何学模様の装飾を施しています





■旧安濃津監獄正門/三重県津市修成町16-1
 竣工:大正5年(1926)
 設計:司法省
 構造:煉瓦造
 撮影:2015/05/03 


四間道~美濃路界隈の屋根神様(名古屋市西区)

2015-05-10 | まちかどの20世紀遺産

四間道散策後、美濃路を北上し庄内川に架かる枇杷島橋まで歩きました。
途中この地方特有の屋根神様をいくつか見かけました。屋根神様は屋根の上に祭られた祠で、特に戦災被害が少なかった名古屋市西区には多く残っていて、名古屋市全体では100社以上が現存しているようです。


■四間道界隈(西区那古野)







■マコロン製菓/昭和8年頃築/登録地域建造物資産(西区栄生)





■名鉄東枇杷島駅西(西区枇杷島)



撮影:2015/04/26


今回見かけた祠は、反り返った千鳥破風や唐破風など、小さいながら細部にこだわったデザインで、昔の職人さんの仕事ぶりがうかがえます。
最近は屋根神の数も激減しているようで、この地方独特の屋根の上の小さな神社建築、いつまでも後世に残して欲しいものです。 


第三師団司令部煉瓦塀(名古屋市中区)

2015-04-29 | まちかどの20世紀遺産

名古屋城本丸の南を通る出来町通二の丸交差点の北西、名城病院の北向かいの歩道に、ひと目で年代物と分かるイギリス積みの煉瓦塀があります。これは明治19年に設置された第三師団司令部の煉瓦塀なのですが、現在跡地には水資源機構中部支社の建物が建っていて、敷地の南側歩道に沿って50mほどの低い煉瓦塀だけが当時のまま残されたようです。

名古屋城内には明治6年(1873)名古屋鎮台が置かれ、明治19年(1886)には第三師団司令部が設置されました。
昭和初期の地図を見ると、名古屋城の周囲には歩兵第6連隊、野砲兵第3連隊、衛戍病院、被服庫、練兵場など軍の施設がずらりと並んでいますが、現在は当時の軍関係の施設、建物はほとんど残っていません。
戦前まで名古屋城周辺に軍の施設が並んでいたことはあまり知られていませんが、その時代を語る第三師団司令部の煉瓦塀は、いつまでも街角の風景として現地に残ってほしいものです。







撮影:2015/04/26



■明治19年(1886)に設置された第三師団司令部



■昭和初めの名古屋城周辺地図
第三師団司令部跡地は現在名古屋農林総合庁舎と水資源機構中部支社になっています。
周囲の衛戍病院と歩兵第6連隊兵舎の一部が明治村に移築保存されています。



■名古屋衛戍病院/明治11年(1878)/明治村内



■歩兵第六連隊兵舎/明治6年(1873)/明治村内


鶴舞公園の近代散歩(6)~加藤高明像台座(名古屋市昭和区)

2015-04-19 | まちかどの20世紀遺産

鶴舞公園の東北、樹木に覆われた一画に奇妙な形の石碑がポツンと建っています。実はこれは石碑ではなく、愛知県出身の内閣総理大臣加藤高明伯爵を顕彰して建立された銅像の台座なのですが、現在銅像が載っていないのでただの石碑になっています。

銅像は公園内にある普選壇と同時期の昭和3年の建造で、普選壇の青銅版とともに昭和19年、大戦による物資不足のため供出・撤去されました。銅板は昭和42年復元されましたが、なぜか銅像は撤去されたまま現在も台座のみが残されています。

台座は御影石製、当時流行していた表現主義の影響を受けた自由な造形で、まるでロケットを思わせる外観です。設計者は不明ですが、公園のすぐ東にある名古屋高等工業(現名工大)の関係者が携わったものと言われています。
ところで、岐阜公園にある板垣退助の銅像は供出後復元されているのですが、加藤さんもいつか当時の姿に戻る日が来るのでしょうか?


■公園の片隅にひっそりと建つ台座



■銅像建立当時の絵はがき~ちゃんと加藤さんが台座の上に載っています


◆加藤高明像台座/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和3年(1928)
 構造:御影石造
 撮影:2008/02/10


鶴舞公園の近代散歩(5)~鶴舞公園付属動物園通用門(名古屋市昭和区)

2015-04-18 | まちかどの20世紀遺産

名古屋市の動物園の歴史は明治23年(1890)、動物商を営む今泉七五郎が現鶴舞駅の南七本松付近に、私設浪越教育動物園(今泉動物園)の開設に始まりました。明治43年(1910)大須門前町に移転しましたが、規模が大きくなるにつれ個人での経営が困難になり、鶴舞公園付属動物園へと引き継がれました。
昭和7年(1918)現在の鶴舞中央図書館、競技場の南、勤労会館付近に開園しましたが、動物が増えると狭くなり、昭和12年(1937)閉館、動物はすべて東山動物園に移譲されました。

現在動物園の痕跡をとどめるものはまったくありませんが、公園の南西隅、中央図書館のすぐ南側にポツンと残された当時の通用門の門柱2基だけが、かつてここに動物園があったことを伝えています。 


■残された門柱と案内看板(撮影:2015/03/21)





■当時の鶴舞動物園



中川運河・名古屋港の近代化遺産(2)~中川口閘門・取水門(名古屋市港区)

2015-03-25 | まちかどの20世紀遺産

 平和橋から東へ向かい中川運河沿いを名古屋港へ下ると、国道23号線の高架の下に中川口閘門が見えてきます。中川運河は名古屋港と都心の旧国鉄笹島駅を結ぶ閘門式運河で、堀川の水運の能力に限界が生じたため、新たな物流幹線として昭和5年(1930)に竣工しました。閘門式とは、水門で仕切った区画(閘室)の水量調節により、水位の異なる河川や運河間で船を昇降させ運河内外へ通過させる仕組みで、パナマ運河もこの方式です。中川運河では、中川口閘門で船を運河に出入りさせると同時に伊勢湾と水位を隔てて、運河内の水位を一定に保つように設計されています。

 中川運河には上流に松重閘門も設けられましたが、現在は埋め立てられ公園になっていて閘門としての役割は果たしていません。中川口閘門は現在も現役で活躍中で、大雨の際には海側に中川運河の水を強制排水し、市内の冠水を防いでいます。


■中川運河側から中川口閘門を望む(上は国道23号の高架)



■中川運河側の閘門



■閘室内運河側扉



■閘室内名古屋港側扉



■名古屋港側から閘門を望む~中央の緑の建物は中川口ポンプ所



■名古屋港側閘門



■中川口取水門
中川運河の水位調整用で7門の扉が設けられている(昭和48年ポンプ導入排水用→平成2年浄化用に)



■中川閘門から下流名古屋港側を望む~ガーデンふ頭の大観覧車と中川橋が見えます

撮影:2015/03/21


◆中川口閘門/名古屋市港区中川本町~熱田前新田
 竣工:昭和5年(1930)
 構造:鉄

◆中川取水門(旧中川口放水門)/名古屋市港区熱田前新田
 竣工:昭和5年(1930)
 構造:RC水門(石張)



名古屋城外堀の名鉄瀬戸線遺構(名古屋市東区)

2015-03-15 | まちかどの20世紀遺産

 現在名鉄瀬戸線(前身は瀬戸電気鉄道)は、尾張瀬戸~栄町間を運行していますが、昭和51年(1976)までは景雲橋東の堀川がターミナル駅でした。瀬戸~堀川間が全通した明治末当時は、瀬戸方面からの「瀬戸物」の荷を堀川で船に積み替えるため、堀川のそばをターミナル駅にする必要があったわけです。名古屋城の東側~南側の空堀だった外堀の中を通っていたため、お堀電車と呼ばれ親しまれましたが、堀川の水運がすたれると繁華街の栄町にターミナル駅が移され、外堀を通る区間は廃線となりました。

 現在も東から南側にかけての外堀は瀬戸電が走っていた頃のままで、大津町駅の跡や本町橋の煉瓦アーチの狭いトンネルなどが当時のまま残っていて、かつてのお堀電車が走っていた時代の面影を伝えています。


■かつて線路があった空堀もそのままで、大津橋の南側に残る大津町駅の跡には、ホームへの階段がそのまま残されています。





■本町橋の狭いトンネル(東側)~この辺りに本町駅のホームがあったようです。



■石積と煉瓦アーチが当時のままの姿で残る本町橋西側。
トンネルの幅が狭いため、一時的に複線から単線にするガントレットと言う珍しい方式を採用、鉄道ファンには有名なスポットでした。



■新御園橋~こちらは本町橋よりかなり新しいためトンネル幅が広く複線に対応しています。



■御園橋の西側に堀川駅がありましたが、現在は空き地になり駅の痕跡は皆無です


昭和40年代終わり頃の堀川~本町の様子がご覧になれます→お堀を走っていた頃の瀬戸電  
このHPの写真を見ると、40年前に名古屋の官庁街の真ん中にまだこんな風景があったとはかなりの驚きです。
どこか地方の小さな町のローカル線の風景だと言われても何の違和感もありません。
近代的なオフィスビルの谷間にこんな隠れ里的スポットがあったとは!
 


瀬戸の琺瑯看板

2015-02-17 | まちかどの20世紀遺産

瀬戸の町歩きで3枚の琺瑯看板が採集できました。
たった3枚ですが、最近の絶滅寸前状態ではまあこんなものでしょうか。
それでも「山種オープン」と「づつうにノーシン」の2枚の新種が採集できたのは収穫でした。
「ごきぶりホイホイ」はすでに採集済みですが、やっぱりいつ見てもゴキブリがリアルでインパクト大です・・・

ところで、わたしは「山崎証券」については全く聞いたことがなかったので、ちょっと調べてみました。
山崎証券沿革~山崎種二商店として証券業を開始(S8)→山崎証券に商号変更(S19)
→東京証券取引所正会員(S24)→名古屋証券取引所正会員(S33)→山種証券に社名変更(S40)
→その後合併を繰り返し、現在はSMBCフレンド証券になっています。
山種証券は創業者の山崎種二の名前から取ったもので、商品名の「山種オープン」のネーミングもなるほどとうなづけます。

琺瑯看板は名古屋証券取引所正会員に加入した昭和30年代頃のものでしょうか。
一枚の古い琺瑯看板から、過ぎ去った昭和を振り返るのも町歩きの楽しみの一つです 



■路地裏の板張りの壁の隅、消費者ローンの看板の陰でひっそりと生息する「山種オーオープン」を発見



■名古屋の市内局番がまだ二けたの時代。
名古屋支店の「中区南伊勢町」はかつて名古屋証券取引所のあった界隈の名称で、現在の栄3丁目あたりになります



■薬局の店頭で見つけた2枚
 
撮影:201501//25

 


昭和のにじむ地名案内板~Part3(愛知県瀬戸市)

2015-02-15 | まちかどの20世紀遺産

瀬戸市で見つけた琺瑯製の地名案内板です。
昭和40年代頃までに設置された思われますが、ブルーとオレンジの色も鮮やかです。

■スポンサーの「瀬戸信用金庫」が旧字体なのが時代を感じさせます


 


■こちらのスポンサー「第二サカエ」は美容院で、現在も銀座商店街に店舗が健在でした


瀬戸散策(1)~銭湯編

2015-02-08 | まちかどの20世紀遺産

名鉄尾張瀬戸駅の東側、瀬戸川沿いに拡がる瀬戸の古い町並みを散策しました。
戦前から陶磁器で栄えた瀬戸の街角の風景には、まだ懐かしい昭和の面影が残っていました。

まずは現役で営業中の銭湯を2軒見つけました。
町を歩いていて遠くの煙突を見つけると、ついつい引き寄せられてしまいます。
やっぱり現役の古い銭湯のある町はいいですね。


■日本鉱泉(銀杏木町)~入母屋造りの昔ながらの和風正統派銭湯です





■コンクリート塀の角にアールがつけてあるのが如何にも昭和モダンな雰囲気です



■定休日、営業時間の張り紙があり元気に営業中でしたが、4:30からの開店で入浴は断念



■蛭子湯(蛭子町)~浴場の上にさらに2階部分があるので3階建に見えます



■木造の銭湯でこれだけのものは、今ではなかなかお目にかかりません





■門柱にも昭和のモダニズムが宿ります



■両親と銭湯に行った遠い日を思い出す、懐かしい路地裏の風景

撮影:2015/01/25