かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

高山の建築散歩(その3)銭湯編

2012-08-31 | まちかどの20世紀遺産

高山の伝建地区界隈を散策していて、古い和風の銭湯を2軒見つけました。高山には今でも十数軒の銭湯が営業していますが、今回見つけた銭湯は2軒とも出格子に千鳥破風のある純日本建築の銭湯で、高山市内でも珍しい存在です。
残念ながら梅の湯(名田町)は廃業していましたが、もう1軒の桃の湯(朝日町)は今も営業中で、私が訪れた3時ころにはもう綺麗に洗濯された暖簾がかかっていました。

自宅に帰って『ぎふ銭湯ものがたり』という銭湯本で調べてみると、桃の湯の建物は昭和の初め、近くの料亭を解体移築したものだそうで、今も当時の姿のまま営業を続けています。
高山に限らず銭湯がどんどん廃業に追い込まれているなか、昭和の初めの高山の銭湯の風情を残す桃の湯は、ずっと後世に伝えたいまさに「まちかどの20世紀遺産」です。 


■玄関の前には乳母車や自転車が止まり、もう近所の常連さんが入浴に来ている様子。
今回入浴できませんでしたが、次回はゆっくり湯船につかりたいものです。







■廃業した梅の湯
建物は昭和12年築。玄関の千鳥破風には、金色の「ゆ」の文字をあしらった鬼瓦があがります。
もう営業中の暖簾がかかることもなく、立派な建物もやがて取り壊される運命にあります。



撮影:2012/08/18


骨董屋さんの琺瑯看板(岐阜県高山市)

2012-08-30 | まちかどの20世紀遺産

高山市内の骨董屋さんの壁で見つけた琺瑯看板です。
建物は下見板張りの相当古い住宅ですが、琺瑯看板は以前からそこにあったというのではなく、骨董屋さんがレトロな雰囲気を出すためにディスプレイとして貼ったようです。
最近は普通に街角で見かける琺瑯看板はかなり希少で、博物館に展示されたり、飲食店や居酒屋、骨董屋などに昭和レトロな雰囲気を狙って、ディスプレイ用として貼られているケースがほとんどです。
まあ、それだけ琺瑯看板が絶滅寸前、危機的状況ということですが、博物館の展示品としてしか見ることができなくなる日もそう遠くはないかも知れません。
ちょっと昔だと思っていた昭和も、いつのまにか遠い昔になってしまいました。


■官公学生服は以前に見かけましたが、富士ヨットは初めてです。澤之鶴もいい感じです。

撮影:2012/08/18


高山の建築散歩~その2

2012-08-29 | 飛騨の近代建築

■飛騨高山 中華そば 鍜治橋
鍛冶橋西詰、鍛冶橋交差点の北側にあります。2階の角の柱の柱頭飾りとレトロな窓割りが見所。





■高山市図書館の南にある洋風建築。階段状の玄関のひさしの支えと2階の縦長の連続窓が特徴。



■筏橋西交差点南すぐの町家
 1階は純日本風、2階は下見板張りの洋風仕様。



■だんだんばたけ
朝日町の市民広場の東、高山中央駐車場向かいにある店舗。
1階は店舗用に改装されていますが、2階は下見板張り、窓枠も木製で当時のまま。



■川久金物店・刃物の川久(昭和10年)
本町4丁目にある金物店。2階の軒下に小さなアーチが連なるロンバルド帯風の装飾あり。
川の字が一本足らないのはご愛嬌ですが、斜めの屋号はヘタウマか?



ネットで調べてみるとその他にも洋風の店舗建築が多数現存しているようです。
今回は時間が取れずじっくり見て回ることができませんでしたが、伝統的な町家の中に戦前の洋風建築を探すのも高山の町歩きの楽しみです。
(撮影:2012/08/18)

 




高山の建築散歩~その1

2012-08-28 | 飛騨の近代建築

今回高山を訪れたのは実に25年ぶり、お盆休みの最後の連休とあって昔ながらの町並みが残る伝建地区は、夏の軽井沢並みの人手で大賑わいでした。前回訪問時は観光客もそこそこで、まだまだ静かな町並みでしたが、現在は宮川沿いの伝建地区周辺のほとんどの建物が観光客向けの店舗に改装され、京都の清水寺の参道のようにずらりと土産物屋や飲食店が軒を連ねています。

伝統的な町家に混じって古い洋風の建物もちらほら見られ、1階部分は店舗に改装されているものの2階部分は当時のままという建物がかなりあります。観光客向けの店舗に改装されたことにより、結果的に当時のままの外観を残すことになったようで、これが普通の商店街では取り壊しや建て替えになるケースがほとんどだと思われます。

■雑貨店モチーフ
筏橋西詰北側、天狗総本店の向かい側。壁面の装飾や柱頭飾りが見所のかなり本格的な洋風建築。築年は天狗総本店と同じ昭和初期か?
 






■フレッシュフーズ駿河屋本町店
本町通りの筏橋西交差点を50mほど北に向かうと東側に店舗があります。
1階部分はアーケードでほとんど隠れていますが、2階部分にギリシャ風の溝付きオーダーとタイル貼りの壁面が見えています。
駿河屋は昭和8年創業の老舗。



撮影:2012/08/18


和食処 角一亭/旧日下部味噌醤油醸造会社醤油庫(岐阜県高山市)

2012-08-27 | 飛騨の近代建築

高山市中心部の伝建地区にある飛騨高山まちの博物館の南、県道462号線の上一之町交差点から南へ約70メートルのところに、高山で最初の煉瓦造の蔵が残っています。
現在建物は、飛騨牛や朴葉味噌などの郷土料理店「
和食処 角一亭」の店舗として使われていますが、当初は明治38年、高山の豪商日下部一族の経営する醸造会社の醤油庫として建てられました。

◆和食処 角一亭(旧日下部味噌醤油醸造会社醤油庫)/岐阜県高山市上一之町93
 竣工:明治38年(1905)頃
 施工:都竹朝太郎
 構造:木骨煉瓦造2階
 撮影:2012/08/18




 

 


天狗総本店(岐阜県高山市)

2012-08-26 | 飛騨の近代建築

高山市中心部を流れる宮川沿いの伝建保存地区には、江戸時代の面影を残す家並みが広がります。そんな伝統的な古い町並みに、ひときわ異彩を放つ天狗の面が描かれた洋館造の建物があります。
宮川に架かる筏橋の西側、広小路通りと本町通の交差点に建つ天狗総本店は昭和2年創業、現在の建物は昭和11年(1936)に建てられたもので、1階や2階窓は改修されていますが、2階壁面や上部の装飾などは当時のまま残っています。
外観は2階建の城館風でバロック建築の雰囲気が漂いますが、屋上の天狗の顔のトレードマークと「精肉」の文字が日本的で、そのミスマッチ的レトロな外観が、古い高山の町並みに溶け込んでいます。

『そもそもなぜ肉屋に天狗のトレードマークなのか?』
食べ物の洋風化が始まった明治初期に、京都で「肉料理大天狗」という書物が出版され、それが金沢や富山の大きな精肉店に広まり、その屋号にあやかったものと言われています。(参考:総覧日本の建築5)

◆天狗総本店/岐阜県高山市本町1-21
 竣工:昭和11年(1936)
 施工:大工棟梁西田清
 構造:木道2階建
 撮影:2012/08/18
 ※国登録有形文化財


■2階の角にベランダを設け、付け柱の上部に楕円形の装飾と渦巻き型柱頭飾りを施す



■屋根部分には馬蹄形アーチ紋様、小尖塔が並ぶ



■屋号の天狗をモチーフにした妻飾りはひときわ目を引きます
 

 


高山市政記念館/旧高山町役場(岐阜県高山市)

2012-08-24 | 飛騨の近代建築

お盆休みの後半、古くからの友人たちの家族と高山、平湯温泉へ一泊旅行に出かけました。高山市内で2時間ほど時間が取れたので、市内の近代建築を駆け足ですが巡ることができました。高山市内を南北に流れる宮川沿いにある伝統的建造物群保存地区には、江戸から明治、戦前にかけて建てられた伝統的な町家建築が建ち並んでいますが、明治以降に建てられた西洋の技術を取り入れた洋風建築も数は少ないながら点在しています。

高山市政記念館(旧高山町役場)は三町伝統的建造物群保存地区の南の端、高山陣屋の東に位置し、古い町並みを見渡すように建っています。中橋に通じる道路に面した建物の北側に正門があり、正面には二つの玄関が東西に並んでいます。
外観は和洋折衷の明治建築で、明治28年町役場として竣工、高山市役所(昭和11年)、公民館(昭和43年)を経て、昭和61年高山市政記念館として開館し、古くは高山町から現在の高山市にいたる行政資料を保存展示しています。
建物を手がけたのは飛騨の名工といわれた大工棟梁坂下甚吉。甚吉は伝統的技法を基本としながらも洋風建築を巧みに取り入れ、優れた高山の洋風建築を多数手がけ、旧高山測候所は山岳資料館として「飛騨の里」で保存されています。
 

◆高山市政記念館(旧高山町役場)/岐阜県高山市神明町4-15
 竣工:明治28年(1895)
 設計・施工:棟梁坂下甚吉 
 構造:入母屋造桟瓦葺木造2階建
 撮影:2012/08/18
 ※高山市指定文化財 

  
■正門から西玄関を望む
 


■東門から建物を望む



■建物北側正面~同形式の玄関が二つ並び向かって左側が事務室、右側が2階議場への出入り口になっている



■西玄関(向かって右)~東西両玄関ともむくり屋根、ガラス窓は高山で初めて導入された



■東玄関(向かって左)~手前の花の連続模様の鉄欄は、東京の鋳物問屋に注文した特注品で、太平洋戦争で供出後復元されたもの



■西玄関の照明
 


旧奥町駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県一宮市)

2012-08-20 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線奥町駅は終点の玉ノ井駅の隣駅。
2007年に取り壊された旧木造駅舎は、尾西鉄道開業時(大正3年)に建てられた駅舎で、名鉄に経営が移る尾西鉄道時代の唯一現存する貴重な駅舎でした。
犬山線布袋駅と並び大正期の現存する木造駅舎は名鉄でも珍しい存在でしたが、両駅舎とも取り壊され、現駅舎はどれも同じ顔のツルピカ金太郎飴駅舎になってしまいました。

◆旧奥町駅舎(おくちょう)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県一宮市奥町南目草30-1
 竣工:大正3年(1914)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

■現奥町駅舎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okuch%C5%8D_Station_(building).jpg

 
■玄関脇の丸ポストが良く似合う、「これぞローカル線木造駅舎!」と呼びたい名駅舎でした。
 (撮影:2006/05/21)


旧苅安賀駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県一宮市)

2012-08-16 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線苅安賀駅は一宮駅から津島方面へ2つ目の駅で、昭和2年(1927)築の旧木造駅舎は、2007年トランパス導入時に新駅舎に建て替えられました。
旧駅舎は尾西鉄道から名鉄に経営が移った(大正14年)のを機に建て替えられたもので、玄関妻面の和風の丸窓が特徴。
洋風の森上駅舎とは対照的な、今風に言えば和風モダンなユニークな駅舎でしたが、残念ながらもうその姿を見ることはできません。

◆旧苅安賀駅舎(かりやすか)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県一宮市大和町苅安賀上西之杁130
 竣工:昭和2年(1927)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

■現苅安賀駅舎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kariyasuka-sta.jpeg

 
■ファサードの丸窓に昭和の雰囲気が漂う(撮影:2005/10) 

 


旧森上駅舎~名古屋鉄道 尾西線(愛知県稲沢市)

2012-08-15 | 失われた建物の記憶

名鉄尾西線は愛知県の西部を縦貫する路線で、弥富駅から津島、一宮を経て玉ノ井を結んでいます。森上駅は旧祖父江町を代表する駅で、開業は尾西鉄道時代の明治32年(1899)、2007年に現駅舎に建て替えられるまで昭和14年(1939)に建てられた木造駅舎が現存していました。

取り壊された旧駅舎は洋風の木造下見板張りで、ファサードを半切妻にし、あえて玄関をその脇にもってくる印象的な外観。淡いブルーに塗られた下見板のこじんまりとした駅舎は愛らしく、戦前の木造駅舎が比較的多く残る名鉄のローカル線らしい風情が味わえる貴重な駅舎でした。尾西線は戦前のそれぞれに個性のある木造駅舎が多く残る貴重なローカル路線でしたが、名鉄のトランパス(自動改札)導入により、すべてツルツルの同じ顔の駅舎に建て替えられました。

長い間地域の人々に親しまれた個性のある駅舎が姿を消し、新しいツルピカの駅舎に建て替えられた駅前の風景は、薄っぺらでどこかよそよそしく、あらためてその土地に根差した古い建物だけが持つ価値を考えさせてくれます。
 
◆旧森上駅舎(もりかみ)~名古屋鉄道 尾西線/愛知県稲沢市祖父江町森上本郷7-30
 竣工:昭和14年(1939)
 構造:木造平屋
 ※2007年取り壊し後建て替え

 現森上駅舎→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Meitetsu_Morikami_sta_001.jpg  
 


■在りし日の森上駅舎(撮影:2005/10) 


江南市立古知野北小学校校門(愛知県江南市)

2012-08-12 | まちかどの20世紀遺産

江南市立古知野北小学校は江南市の北部和田町にあり、江南市の中心である古知野の町と、かつて木曽川の渡しがあった草井町を結ぶ街道沿いに位置します。学校の沿革を調べてみましたが、小学校のHPなどにも記載がないため詳細は不明です。

校舎は戦後建て替えられた鉄筋コンクリート造ですが、残された校門は脇門もある立派なもので、大正末~昭和初期に県営繕課がてがけた公立の旧制中学と全く同じデザインなので築年はその頃のものと推定されます。
門柱の上部には植物を図案化した装飾が施され、旧字体で書かれた「學」の字が学校の長い歴史を語ります。

■小学校の校門としては脇門も備えた旧制中学並みの立派さです
 

  
(撮影:2006/05/21) 

 


一宮市立木曽川西小学校校門(愛知県一宮市)

2012-08-12 | まちかどの20世紀遺産

                                                             

一宮市立木曽川西小学校は愛知県一宮市木曽川町玉ノ井(旧葉栗郡木曽川町)にある小学校で、設立は明治6年(1873)までさかのぼります。
明治43年に黒田町が木曽川町に改称され、明治45年に現在地に移転、大正9年(1920)に高等科を設置し、木曽川西尋常高等小学校になりました。
戦後昭和50年頃までに現在の校舎が新築されましたが、校門は戦前のまま残されたようです。
校門の築年は不明ですが、御影石の立派な校門で、柱頭のデザインは大正~昭和のモダニズムを感じさせるデザインです。
(撮影:2009/10/18) 


笠松駅の煉瓦造の建物(岐阜県羽島郡笠松町)

2012-08-08 | 岐阜市周辺の近代建築

名鉄名古屋本線笠松駅の東側にかなり古そうな煉瓦造の建物が残っています。
建物の形状から発電所か変電所として建てられたのではないかと思われますが、竣工年など詳細は不明です。
外観は煉瓦の上からセメントが塗られ、南妻側もかなり改変されていますが、北側の壁面に当時の面影を見ることができます。 

■笠松駅東口のすぐ南側に建っています。北側の妻面は窓も残り当時の面影をとどめています。


■南側の妻面は窓も埋められ東側が改変されています



■西側外観(駅ホーム側より)

撮影:2012/05/05


木曽川笠松渡船場跡・石畳

2012-08-04 | まちかどの20世紀遺産

岐阜県笠松町はかつて笠松陣屋が置かれ、徳川幕府の直轄地として、美濃国の中心地として栄えました。
港町にあった笠松湊は、木曽川水運の拠点として古くから発展し、湊周辺には問屋や倉庫、船宿、民家などが建ち並び、船着場から問屋までの道は石畳が敷き詰められました。現在は笠松みなと公園として整備され、笠松渡船場跡石畳として岐阜県の重要文化財に指定されています。
 

■笠松港公園に設置された川灯台



■大八車の車輪がくい込まないように渡船場まで敷き詰められた石畳
 現在残っているのは明治11年の明治天皇御巡幸の際に改修されたもの



■渡船場跡に設置された説明看板

撮影:2012/05/05

 


間口は狭いが敷居は高そうな歯科医院(岐阜県笠松町)

2012-08-03 | まち歩き

岐阜県笠松町で遭遇した、間口がドア一枚の幅しかない歯科医院です。
まるで外付けハードディスクを立てたような形状のビルで、この幅ではさすがに歯科医院としては無理があると思われます。
おそらく奥の新しい建物とつながっているのでしょうが、取り壊さず増築したのはよっぽどこのビルに愛着があったのでしょうか?

■横の建物にへばりつくように建っています


■ドア一枚分の横幅しかない歯科医院の入り口
 一見さんお断りの雰囲気が漂い、初診の患者さんは入るのにかなり勇気がいりそうです
 
撮影:2012/05/05