かどの煙草屋までの旅 

路上散策で見つけた気になるものたち…
ちょっと昔の近代の風景に心惹かれます

第三師団司令部煉瓦塀(名古屋市中区)

2015-04-29 | まちかどの20世紀遺産

名古屋城本丸の南を通る出来町通二の丸交差点の北西、名城病院の北向かいの歩道に、ひと目で年代物と分かるイギリス積みの煉瓦塀があります。これは明治19年に設置された第三師団司令部の煉瓦塀なのですが、現在跡地には水資源機構中部支社の建物が建っていて、敷地の南側歩道に沿って50mほどの低い煉瓦塀だけが当時のまま残されたようです。

名古屋城内には明治6年(1873)名古屋鎮台が置かれ、明治19年(1886)には第三師団司令部が設置されました。
昭和初期の地図を見ると、名古屋城の周囲には歩兵第6連隊、野砲兵第3連隊、衛戍病院、被服庫、練兵場など軍の施設がずらりと並んでいますが、現在は当時の軍関係の施設、建物はほとんど残っていません。
戦前まで名古屋城周辺に軍の施設が並んでいたことはあまり知られていませんが、その時代を語る第三師団司令部の煉瓦塀は、いつまでも街角の風景として現地に残ってほしいものです。







撮影:2015/04/26



■明治19年(1886)に設置された第三師団司令部



■昭和初めの名古屋城周辺地図
第三師団司令部跡地は現在名古屋農林総合庁舎と水資源機構中部支社になっています。
周囲の衛戍病院と歩兵第6連隊兵舎の一部が明治村に移築保存されています。



■名古屋衛戍病院/明治11年(1878)/明治村内



■歩兵第六連隊兵舎/明治6年(1873)/明治村内


鶴舞公園の近代散歩(7)~鶴々亭(名古屋市昭和区)

2015-04-21 | 名古屋の近代建築

公園の西側木立が繁る一画に、木造平屋建の日本家屋が建っています。
この建物は天皇即位の大典を祝し、産業振興、文化の発展を願って、昭和3年9月に催された「御大典奉祝名古屋博覧会」の際、茶席の参考館として建てられたものです。
名古屋材木商組合によって木曽桧材の最高級品を以ってつくられ、同年10 月に名古屋市に寄附されました。
現在は一般の利用も可能で、この日もアニメなどのコスプレを行うコスプレーヤーの皆さんのが、撮影に興じていました。


■戦前の歴史的建造物とコスプレーヤーの取り合わせは、まさに時代を感じさせます。
鶴舞公園は和洋風の庭園と歴史的建造物が一か所に集まり、屋内外での撮影が可能なので、全国からコスプレーヤーが集まるメッカになっているそうです。






◆鶴々亭/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和3年(1928)
 構造:木造平屋建・桟瓦葺
 撮影:2015/03/21


鶴舞公園の近代散歩(6)~加藤高明像台座(名古屋市昭和区)

2015-04-19 | まちかどの20世紀遺産

鶴舞公園の東北、樹木に覆われた一画に奇妙な形の石碑がポツンと建っています。実はこれは石碑ではなく、愛知県出身の内閣総理大臣加藤高明伯爵を顕彰して建立された銅像の台座なのですが、現在銅像が載っていないのでただの石碑になっています。

銅像は公園内にある普選壇と同時期の昭和3年の建造で、普選壇の青銅版とともに昭和19年、大戦による物資不足のため供出・撤去されました。銅板は昭和42年復元されましたが、なぜか銅像は撤去されたまま現在も台座のみが残されています。

台座は御影石製、当時流行していた表現主義の影響を受けた自由な造形で、まるでロケットを思わせる外観です。設計者は不明ですが、公園のすぐ東にある名古屋高等工業(現名工大)の関係者が携わったものと言われています。
ところで、岐阜公園にある板垣退助の銅像は供出後復元されているのですが、加藤さんもいつか当時の姿に戻る日が来るのでしょうか?


■公園の片隅にひっそりと建つ台座



■銅像建立当時の絵はがき~ちゃんと加藤さんが台座の上に載っています


◆加藤高明像台座/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和3年(1928)
 構造:御影石造
 撮影:2008/02/10


鶴舞公園の近代散歩(5)~鶴舞公園付属動物園通用門(名古屋市昭和区)

2015-04-18 | まちかどの20世紀遺産

名古屋市の動物園の歴史は明治23年(1890)、動物商を営む今泉七五郎が現鶴舞駅の南七本松付近に、私設浪越教育動物園(今泉動物園)の開設に始まりました。明治43年(1910)大須門前町に移転しましたが、規模が大きくなるにつれ個人での経営が困難になり、鶴舞公園付属動物園へと引き継がれました。
昭和7年(1918)現在の鶴舞中央図書館、競技場の南、勤労会館付近に開園しましたが、動物が増えると狭くなり、昭和12年(1937)閉館、動物はすべて東山動物園に移譲されました。

現在動物園の痕跡をとどめるものはまったくありませんが、公園の南西隅、中央図書館のすぐ南側にポツンと残された当時の通用門の門柱2基だけが、かつてここに動物園があったことを伝えています。 


■残された門柱と案内看板(撮影:2015/03/21)





■当時の鶴舞動物園



鶴舞公園の近代散歩(4)~名古屋市公会堂(名古屋市昭和区)

2015-04-15 | 名古屋の近代建築

噴水塔のすぐ北側、鶴舞公園の西北に名古屋市公会堂があります。
公会堂は昭和5年、昭和天皇の御成婚記念事業として建てられたものですが、大正~昭和にかけて大阪中之島公会堂(T7)や東京日比谷公会堂(S4)など、各地に大規模な公会堂が造られました。
3階までの吹き抜けの大ホールは2,700席、規模としては日比谷公会堂に肩を並べ、当時の名古屋市の意気込みがうかがえます。

建物全体を茶褐色のスクラッチタイルで覆い(1階部分は石張り)、玄関入口や最上階の窓にアーチを配した隅丸のデザインは、かたまり感のある彫塑的な当時流行の表現主義風です。
愛知県内では、現存する戦前の公会堂としては豊橋市公会堂(S7)がありますが、外観の印象は対照的です。
明るく軽やかな豊橋市公会堂に対し、名古屋市公会堂は重厚感あふれる落ち着いた雰囲気で、タイプの異なる二つの公会堂が残ったのは、近代建築ファンには嬉しいところです。

蛇足ながら名古屋市公会堂は、クラッシックからロックまで、数々の世界的アーティストの公演の舞台となりました。
ちなみに私も名古屋市公会堂へコンサートに行った思い出があります。「おくさまは18歳」でおなじみの岡崎友紀のコンサートだったのですが(友人が大ファンだった)、それが名古屋市公会堂では最初で最後のコンサートになりました。



■建物南側正面



■玄関廻りの造形は、昭和初期の近代建築特有の重厚感あふれたデザイン



■建築細部には昭和のモダニズムが宿る
     

       



■建物西側


    



■建物北側



■建物東側





■雪の日の公会堂(撮影:2008/02/10)



◆名古屋市公会堂/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和5年(1930)
 設計:名古屋市建築課(建築顧問:武田五一、佐野利器、鈴木禎次)
 施工:大林組、清水組、大阪鉄工
 構造:SRC造地上4階、地下1階
 撮影:2015/03/21
 ※景観重要建築物等


鶴舞公園の近代散歩(3)~普選壇/御誓文記念壇(名古屋市昭和区)

2015-04-12 | 名古屋の近代建築

 噴水塔のすぐ南側に小さな野外ステージがあります。石張りの壁には何やら難しそうな文言が彫られた青銅版が埋め込まれていて、噴水塔や奏楽堂に通じる歴史的建造物に共通のたたずまいが感じられます。
 
 この建造物は普選壇(御誓文記念壇)と言って、大正14年普通選挙法成立時、時の総理大臣で愛知県出身の加藤高明の功績を記念して昭和3年6月に銅像とともに建設されたものです。野外劇壇(ステージ)後ろの青銅版の難しそうな文言は、普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」で、建設の趣旨とともに漢字とカタカナの文章で刻まれています。

 明治政府の基本方針となった「五箇条の御誓文」と言えば、私などは坂本竜馬の「船中八策」がすぐ頭に浮かびます。しかし実際の起案は福井藩の由利公正だそうで、「船中八策」を竜馬が書いたのは由利公正に会った後だったとのことです。どうも高校生の時にハマった司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響で、明治維新の陰の立役者としての坂本竜馬のイメージが強いようです。私にとって、高校生の時に読んだ司馬さんの「竜馬がゆく」は、今でも忘れられない『青春の一冊』で、「五箇条の御誓文」→「船中八策」→「坂本竜馬」まで思いが飛んでしまいました。


■普選壇全景





■「五箇条の御誓文」が刻まれた青銅版(昭和42年復元)



■普選壇裏側





◆普選壇(御誓文記念壇)/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:昭和3年(1928)
 設計:佐藤功一
 施工:沢田巳一郎
 構造:RC造石張り
 撮影015/03/21
 ※市指定文化財、景観重要建築物等


鶴舞公園の近代散歩(2)~鶴舞公園奏楽堂(名古屋市昭和区)

2015-04-08 | 名古屋の近代建築

 明治43年開催の共進会に併せて噴水塔とともに造られたのが奏楽堂で、噴水塔のすぐ東にあります。共進会の際には、正門を入ると真っ先に目に飛び込む位置に建てられていました。頂部には銅板葺きのルネサンス風ドームが載せられ、それをイオニア式柱頭のエンタシス(柱の中央部のふくらみ)のある列柱(2本1組で8組の列柱)が取り巻いています。
 
 昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和12年(1937)にドームが無いフラットな屋根の形で復旧されましたが、その後平成9年(1997)、当初の姿に復元されました。
 

◆鶴舞公園奏楽堂/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:明治43年(1910)
 設計:鈴木禎次
 構造:RC造
 撮影:2015/03/21
 ※名古屋市景観重要建築物等
 

■噴水塔とともに共進会を記念して建てられた奏楽堂





■ルネサンス風ドームの周囲にはハープの装飾をめぐらす



■アールヌーボー調の白鳥型手すりが可愛らしい



■鋳鉄製の手すりには「君が代」の冒頭部分の楽譜がデザインされ、ステージ下は半地下になっている



■イオニア式柱頭の列柱は中央部がふくらんだエンタシス





■雪の日の奏楽堂(撮影:2008/02)




■共進会会場正門



■共進会会場遠望~正門を入って正面に奏楽堂が見えます



■大正4年(1915)からは奏楽堂にイルミネーションが灯り、第三師団軍楽隊の演奏による音楽会が開かれるようになりました





鶴舞公園の近代散歩(1)~鶴舞公園噴水塔(名古屋市昭和区)

2015-04-06 | 名古屋の近代建築

名古屋市内では戦前、名古屋汎太平洋平和博覧会(港区)と関西府県連合共進会(昭和区)の二つの大きな博覧会が開催されています。今回は名古屋汎太平洋平和博覧会の跡地を訪問した後、もう一つの博覧会跡地、昭和区の鶴舞公園に向かいました。

鶴舞公園は、明治42年(1909)沼地だった場所を新堀川整備で出た大量の土砂を埋め立てて造られました。翌明治43年、名古屋開府300年を記念して行われた愛知県主催の第10回関西府県連合共進会の会場になり、主要会場のほか各県(3府28県)のパビリオンや娯楽施設も多数建設されました。博覧会の入場者は過去最多の260万人を集め、名古屋が近代都市へ発展する契機となったといわれています。

閉会後会場跡地は、名古屋で最初の都市公園として整備が続けられ、墳水塔と奏楽堂は公園の恒久的施設として残されました。大正9年(1920)にはフランス式庭園と日本庭園(設計は日比谷公園を手がけた東京大学教授、本多静六)が整備され、その後も動物園、図書館、公会堂や運動施設などが建設され、現在の鶴舞公園の姿が整いました。

今回は2か所の名古屋の近代化を担った大きな博覧会跡地を訪れました。港区の跡地は公園として残っているものの、博覧会当時の遺産が平和橋だけというのは、いかにもさびしい。対照的に鶴舞公園跡地は、閉会後すぐに名古屋市を代表する近代公園として整備されたこともあり、博覧会当時の噴水塔や奏楽堂、その後建設された公会堂などが健在なのは嬉しい限り。今回訪問時も、公園では春の日差しの下、お彼岸の休日を思い思いに過ごす大勢の市民でにぎわっていました。

鶴舞公園では、明治以来長い年月をかけて近代化を象徴する歴史的建造物が風景に溶け込み、市民と同じ時を過ごしてきました。街角の身近な近代化遺産が、人々に「安らぎを与える景観をつくりだしているんだなあ~」と、あらためた実感できた幸せな一日でした。


◆鶴舞公園噴水塔/名古屋市昭和区鶴舞1丁目
 竣工:明治42年(1909)
 設計:鈴木禎次
 構造:石造
 撮影:2015/03/21
 ※市指定文化財、景観重要建築物等 


■公園のシンボルともいえる噴水塔は、博覧会会場の正門前広場に造られたもので、設計は名古屋ではおなじみの鈴木禎次
(バックの建物は名古屋市公会堂)


■本格的なローマ様式の石造建築で、テラスの手摺は備前焼の陶器、池の石組は地元の木曽川から運ばれた



■コンポジット式の柱を備える本格的な古典様式の噴水塔



■小噴水盤には名古屋市の〇八マーク



■噴水塔の案内板



■噴水塔は公園のほぼ中央⑥番の位置



■雪景色の噴水塔(2008年2月)



■当時の絵はがき~噴水塔の背景には各県売店が見えます



 


名古屋港界隈の昭和を歩く

2015-04-05 | まち歩き

今回の中川運河~名古屋港界隈散策で見つけたちょっと気になる昭和な風景をご紹介します。


■中川橋たもとの昭和の風情が残る家並み



■中川橋西で見つけた琺瑯看板



■地下鉄築地口~名古屋港界隈に残る古い建物





■ガーデンふ頭北側の工場群~日本製粉の建物は外観デザインからすると戦前モノか?


中川運河・名古屋港の近代化遺産(5)~名古屋港跳上橋/旧1・2号地間運河可動橋(名古屋市港区)

2015-04-04 | 近代橋めぐり

今回の港区中川運河~名古屋港めぐりもいよいよラストです。

 港橋から埋め立てられた運河沿いを東へ向かうと、堀川と中川を結んでいた運河の堀川の出口のところに、旧1・2号地間運河可動橋(跳上橋)が見えてきます。この橋は昭和2年(1927)、綿花の輸入取扱会社が鉄道可動橋として建設したもので、鉄道廃線後は橋を上げた状態で保存されています。設計製作は現役最古の鉄道可動橋として知られる旧四日市港駅鉄道橋(国重文)を手がけた、可動橋の第一人者山本卯太郎。国内で現存する可動橋はわずか7橋(そのうち跳開は4橋)で、旧1・2号地間運河可動橋は現役ではありませんが、市内では唯一の現存する跳上橋です。

 現在橋は上がったままの状態で固定され、もう開閉の様子を見ることはかないませんが、昭和初期の名古屋港の運河の雰囲気を伝える土木遺産として、これからも時を刻んでいくことでしょう。


◆名古屋港跳上(なごやこうはねあげ)橋(旧1・2号地間運河可動橋)/名古屋市港区入船1-6~千鳥2-4地先
 竣工:昭和2年(1927)
 設計:山本卯太郎
 施工:山本工務所
 構造・形式:鋼PG(跳開=上部CW/カウンターウエイト式)
 撮影:2015/03/21
 ※国指定登録文化財 


■運河の堀川口に架けられた名古屋港跳上橋を西側より望む



■4径間の桁橋のうち、向かって一番右側の1径間が可動桁になっている



■旧四日市港駅鉄道橋と同タイプの山本工務所・山本卯太郎の銘が入ったプレート
 


中川運河・名古屋港の近代化遺産(4)~港橋(名古屋市港区)

2015-04-01 | 近代橋めぐり

 地下鉄名港線の終点名古屋港駅の南にあるガーデンふ頭には、名古屋港水族館、遊園地、ポートビル、南極観測船「ふじ」などがあり、休日ともなると大勢の家族連れ、カップルなどで賑わいます。その名古屋港駅の2番出入り口すぐのところに、昭和モダンな親柱が目につく港橋があります。初代港橋は現在のガーデンふ頭がある1号地埋立地と2号地埋立地との連絡橋として明治39年に架橋されました。木製の橋だったため老朽化が早く、昭和11年3月コンクリート製の永久橋に架け替えられました。現在の港区役所周辺で昭和12年に開催された汎太平洋博覧会のために整備されたもので、平和橋とともに博覧会当時の面影を残す貴重な遺構です。

 当時港橋の下には運河が流れていたのですが、現在は埋め立てられ橋の東側は公園になっています。その時に橋は撤去されたのですが親柱と欄干はその後当時の姿に再建されました。船の出入りが激しかった当時は、屋台や船員のためのバーが軒を連ね、港橋周辺も大変な賑わいだったようです。現在はガーデンふ頭方面に向かう人たちが時おり通り過ぎるだけで、港橋だけが戦前の賑わった街角の雰囲気を伝えるだけになってしまいました。


■港橋全景(東側)~かつての運河は埋め立てられ、公園になっています



■昭和のモダニズムが薫る親柱~昭和11年竣工の銘板が掲げられています


 


■分離帯のフェンスも橋の欄干に合わせたデザイン


◆港(みなと)橋/名古屋市港区入船
 竣工:昭和11年(1936)
 構造:鋼桁
 撮影:2015/03/21
 ※撤去後高欄のみ再建