カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

よしこちゃん。その4。

2008-10-08 14:55:35 | Weblog

 飲みながらいろんな話をした。
 山谷で会ったよしこちゃんの話しもした。

 おじさんたちにどう接していいか分からない彼にはこう話した。

 「同じ人間だよ。日本人もインド人も、違うのはそれに向かっていく自分の態度や考え、思い込みだけだよ。そうした自分の感情を分かった上で、それを超えて、愛情を持って接する。マザーの言うように{前よりも元気にして帰っていくように}するんだよ。もちろん、それは簡単なことではないけどね」

 「大切なことは受け容れること」山谷を歩きながら自分が話したその言葉が彼のなかでは激しい葛藤が生まれていた。

 彼は言葉を詰まらせ涙を流した。

 インドでは出来たことが日本では出来ないその違いに彼は初めて気が付いた。そこはまだ彼が向き合っていない自身のなかの未成熟なところであり、影であるかもしれない。

 それを知り、彼は内省し深く反省したのだろう。こうした自分自身を知ることが今まで以上に愛を強く深いものにしていく。

 彼は分からないことが分かった。分かったつもりでいたことがわかった。答えが見つからないことが分かった。そうした自分があることが分かった。

 なぜ、そうした自分があるのだろうと考えることを拒否してしまえば、楽なものへ落ち着こうと逃げてしまえば、成長していくことは難しい。彼は初めて向き合おうとしていたその証しが涙のようだった。それは綺麗だった。

 酔いや日々の生活からの思いなど、いろいろなものが合わさって涙として現れただろうが、彼は良くなっていくと思った。これからも見守っていこうと思った。

 分かったつもりでいる自分もいる。思いを行動に移せない自分もいる。マザーにもあっただろうと思う。ただ彼女は激しく内省し自身に祈りのなかで問い続けていたであろう。神さまが見守るなかで。
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よしこちゃん。その3。

2008-10-07 02:00:58 | Weblog
 ふぅーちゃんが吉祥寺で人と会う約束があるということで吉祥寺に向かった。短い時間会うだけかもしれないとのことで、また合流するかもしれないと言って別れた。
 自分とゆうたく君はいせや{やきとり屋}に行った。

 ここ2・3年も行っていなかったから、いせやに行きたかった。焼酎とやきとりをインドから帰ってきてからずっと楽しみにしていた。

 いせやに行く前にインドの雑貨屋に行き、口琴を買った。インドでは吹いているツーリストがかなり居たがずっと気になっていただけで実際には手にふれることをしなかった楽器だった。とりあえず、うまくなるかは分からないが買ってみた。

 新しくなったいせや本店の方に向かった。

 いせやには店の前に数人並んで待っていた。ここぞと思い、買ったばかりの口琴をならしてみた。

 うまくならない。ゆうたく君からいろいろと教わったが、なかなかうまくならない。頭も痛くなったので長くはやらなかった。簡単に鳴るものではないことも分かっていたが、どこかが寂しい気もした。けれど、それが当たり前だと思い直し、練習すれば、またどうにかなっていくだろうという気持ちに落ち着いた。

 あまり待たずに席が空いた。やっぱり、いせやの雰囲気は好きだ。客がごった煮のように感じで飲んでいる。一つひとつのグループや一人で来ている客にはそれぞれの今日があり、ドラマがある。数々の思いを酔いのなかで楽しみは大きくし、悲しみは癒そうとしている。それを勝手に思い描き眺めているだけでも面白い。
 
 みな、いい顔してやきとりを食べ酒を飲んでいた。

 丸イスに腰を下ろして、定番の煮込み、シューマイ、やきとり、そして、ビールを頼んだ。

 {つづく} {ゆうたく君もふぅーちゃんもカルカッタで会った友達}
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よしこちゃん。その2。

2008-10-06 12:32:57 | Weblog
 よしこちゃんは何度も、これで話は終わるかと思って少し離れてもまた話をし始めては笑っていた。まだまだ話し足りないのは分かった。その笑った笑顔は笑い飛ばさなくてはならない何かを考えなくさせるもののようにも思えた。

 「またね、身体は大事にするんだよ」彼女の小さな背中を見送った。

 施設まで帰る途中、ゆうたく君に聞いてみた。
 「どう、愛は渡すことが出来た?」
 「・・・出来ませんでした・・・。どう接していいか分かりませんでした。インドではこうした人たちにも話すことが出来たけど、なぜ、出来ないのか分からないけど、話すことは出来ませんでした」
 「いいんだよ。最初からうまく話せる人なんていないよ。ゆっくりと話せるようになれば良いんだよ。言葉も通じてしまうし、自分の親たちや身近な人たちも同一視してしまい、激しくいろんなことを思うだろうね。それはここに来て初めて分かったことだから、それだけでも、良いんだよ」
「はい・・・」

 空はとても青くいい天気だった。自分の少し後ろで自転車をこぐ青年の心には彼が今まで感じたこと、考えたことのないものを考えざるをえない思いのなか、あたたかな日差しを浴びていた。

 ボランティアを終えてから、グローバルフェスタに二人で行った。
 まず、ラオスのビールを飲んだ。続いて、フィリピンのビールを飲んだ。
 二人ともカリーやサモサもあったが食べなかった。どうしても海外で食べたことのある二人にはその味が納得がいかないという点では同じだった。
 
 食べるということはその場の雰囲気、空気、気持ちなど、そのもろもろから味となってくる。素敵な思い出として自分の心にある味が綺麗なテントが立ち並び、ハッポスティロールでのった食べ物はその味わいもなくなってしまう。フェアトレードだと思えば食べれないこともないが思い出を大切にした。後は値段も向こうと比べてしまっていた。

 何人かの友達にあった。ビールを三本飲んだあと、ふぅーちゃんが来た。
 お腹が空いているということでカレーとナンを食べた。味はインド風レトルトのカレーみたいと言っていた。
 「そうか」一言だけ言ってみた。彼女もその表情からは期待していた訳ではなかったようだった。

 不思議なことにアサダ父ツヨシにあった。
 両腕を持たれてドキッとしたが、満面の笑みを浮かべたツヨシだった。
 「てっちゃん、いやー偶然だね。どうしている?元気?」
 「いやいや、元気ですよ。ここで何にしているの?」
 「・・・の団体でね」
 「あっ、そうか、何かに入っているって言ってたもんね。家族のみんなは元気にしている?」
 「元気にしているよ。おかあさんも、ともちゃんも元気だよ。ともちゃんもブラジル{ともこはカポエラしていた}から帰ってきてから働き始めたよ」
 「そうか、良かった良かった。先月は会いに行けなくて申し訳なかった。また行く予定を作るから。なかなか忙しくてね」
 「またいつでもご飯を食べにきて。みんな来て良いから。うちは大歓迎だから」
 初対面のゆうたく君とふぅーちゃんにも声をかけていた。

 まったく想像していなかったから、ほんとうに嬉しかった。先月に行こうと思っていたが時間がなかった。いや、時間を作ろうとしていなかったところもあった。それでも、その約束を神さまが果たしてくれたように思った。アサダが会うように仕向けたかもしれない。

 それはとても面白いこと。ツヨシと別れたあと、笑顔が尾を引いていた。

 {つづく}
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よしこちゃん。

2008-10-05 12:43:37 | Weblog
 昨日の山谷には今回のインドで会ったゆうたく君を連れて行った。

 山谷へは何十人もインドで会った人たちを今まで連れて行った。今回のインドで会った人たちのなかではゆうたく君は初めてだった。

 彼にはおじさんたちに会う前にどういうことを思えばいいかを話した。
 「彼らがどんな姿しているか?どんな表情をしているか?どんな持ち物を持っているのか?どんな風にカレーを食べるか?彼らの昨日はどういったものなのか?彼らの過去は、そして、いまは、どういったものなのか?良く思い描いてみること。そして、目の前に立っている自分がその人にどんな影響を与えるのか?自分の内側にはどんなものが現れて来るのか?よくおじさんたちを観ることが大切だよ。同じように自分がどのように感じているかを観ることが大切だよ・・・」

 前日のメールでは「何か持っていくものはありますか?」と書いてあったので、「愛」とだけ返信した。

 「いっぱい持って行きます」と帰ってきた。

 自分が意識出てきている愛というものがどういったものなのかが彼自身が彼のなかにあるものが気付くことだと期待した。

 並んでいる500人以上のおじさんたちに挨拶をしに行くのに彼を誘った。
 「良いですよ」そう言った。
 「笑顔で最後まで挨拶をするんだよ」
 「分かりました」すでに緊張しているだろう彼はそう答えた。

 生まれて初めて500人以上のおじさんたちに挨拶にして向かうことは実はかなり緊張もするし、複雑な思いもするものである。
 自分も何年もこの短い挨拶をすることに自分の意識すること以外からの緊張から鳥肌がたったりもしていたこともあった。

 それでも、笑顔で彼らに声をかけ続けてきた。その意味、その答え、その意志はマザーの「あなたのなかの最良のものを」の祈りの最後の三行のように思えてならない。
 
 「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」

 彼は最後まで声を出して彼らに挨拶をした。
 列の前まで二人で戻った。

 カレーを配っているボランティアに笑顔が少なかったので、「笑顔でするように」声をかけた。

 ゆうたく君に聞いた。
 「カレーをあのように渡すことがマザーがいう愛を渡しているように思える?」
 「思えないです」
 「そうだよね。それでも、なかなか気付かないんだよ。一生懸命に働いているだろうけど、愛を渡していないということに。自分のなかで精一杯になってしまっているんだよ」

 カレーを渡しているボランティアに近寄り、「丁寧に渡すんだよ。笑顔でね」そう声をかけた。

 ゆうたく君には何度も言った。
 「彼らを良く観るんだよ。そして、良く感じるんだよ」

 ゴミ集めも終え、帰ろうとしようとしていたとき、よしこちゃんの姿を見た。
 列に並んでいたときには一言二言しか話していなかったので帰ろうとしていた後姿のよしこちゃんに「よしこちゃん。久しぶり、最近見なかったけど、どうしていたの?心配していたよ」声をかけた。

 よしこちゃんは入院していたことから始まり、少年院に入っていたこと、胸にシリコンを入れたこと、売春をして二年で460万稼いだこと、売春のおとり捜査をしていた警官に捕まって二日間拘束されたこと、働いていたところのママが下を無認可のところで女性にしたこと、競輪を覚えお金をかなり注ぎ込んだこと、そして、自分はいつも楽天家であることなど、彼から始まり彼女になった半生を怒涛の如く話した。

 どれだけ、孤独だった。その話し振りから容易に分かった。どのくらい長い間、聞いてくれる人がいなかったのか、そして、聞いて欲しかったのか、その孤独を感じた。自分では楽天家と自己認識をしているよしこちゃんだが、決して、それだけではない彼女がありありとしていた。

 話を聞きながら自分のなかの一部にはフランチェスコの祈りが祈られていることを感じた。
 
 「わたしを あなたの平和の道具として お使いください
 憎しみのあるところに 愛を
 いさかいのあるところに ゆるしを
 分裂のあるところに 一致を
 疑惑のあるところに 信仰を
 誤っているところに 真理を
 絶望のあるところに 希望を
 闇に 光を
 悲しみのあるところに よろこびを
 もたらすものとしてください
 慰められるよりは 慰めることを
 理解されるよりは 理解することを
 愛されるよりは 愛することを
 わたしが 求めますように
 わたしたちは 与えるから 受け
 ゆるすから ゆるされ
 自分を捨てて 死に
 永遠の生命を いただくのですから

 {つづく}


 
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約束。

2008-10-03 12:26:37 | Weblog

 「この人は絶対に病院には入院させない。家でちゃんと看るって約束したんだから、何があっても家の方が絶対に良いんだから・・・」

 寝たきりで言葉を話すことの出来ない旦那さんの意志を強く守ろうとしていた。

 「約束だから、約束だけは絶対に守らなくては・・・」

 目頭を熱くして話していた。

 自分の胸も熱くなった。

 「約束」を必死に守ろうとするその奥さんの思いに誠実さ、愛情、純粋性を溢れていた。その思いに胸が熱くなった。

 愛する人の願いを叶えようと守る姿には、どれだけその人を大切にしてきたかの愛の現われだった。

 「約束」を守れないときがある。そこには数々の言い訳をしてしまう。そして、その状態が続けば、その状態になれてくる。そのうち、それを他人にもそうあるものとして投影していく。「みんなもそうだから」言い訳をする。その奥底には自分自身が傷付くことを避けている。

 傷付くことを避けていくことで自分と相手を傷付けていくことになってからも、それを正当化しようと必死に戦い、相手を傷付けてしまったり、自分を苦しめて行ってしまったりする。

 深く自分の心を知ることを避けてしまう。そして、自分が無くなっていってしまう。

 だから、約束は守った方がいい。そして、出来ない約束はしない方がいい。どんな小さな約束ですら、そうあることがいい。約束を守れないときは素直に謝ればいい。

 自分は言いたい。
 この世の中には誠実な人はいる。約束を守る純粋な人がいる。愛情溢れる人がいる。

 そして、誠実になろうと、純粋になろうと、愛情を持とうとする意志が誰の心のなかにあるだろう。

 それにどうあるかは向こうから問われている。
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雨のなか。

2008-10-01 12:58:43 | Weblog

 一昨日、12時近くカラオケ屋でうたの練習をしてから帰る途中、横断歩道を渡ると傘を差したままうずくまっている人がいた。

 傘しか見えない状態だった。しゃがんでその人を覗き込むようにして声をかけると70代ぐらいおじぃちゃんだった。

 「大丈夫ですか?どうかされました?」

 おじぃちゃんは顔をゆっくりと上げ、自分を誰だか知り合いかと思ったのか、それとも、誰が声をかけているのかを確かめるためにほんの少し時間が必要のようだった。その時間が必要だったのは酔っていたからだった。

 「どうしました?大丈夫ですか?飲みすぎたの?おじぃちゃん、こんなところにいたら危ないよ。もし、寝てしまったりしたら、車に引かれてしまうよ。もっと道の外側に来ないと。どう歩ける?」

 「いや~飲みすぎた。五時から飲んでた。飲みすぎて腰が抜けた・・」

 「どこに住んでるの?家は近い?」

 「六丁目に住んでいる。。富士スーパーの・・」酔い過ぎてうまく言葉が出てこない状態だった。

 「大丈夫なの?飲みすぎちゃったんだ{笑}」

 「そう、飲みすぎた{笑}」

 「帰れる?送っていこうか?」

 「大丈夫。ありがとう。こんなに優しくされて自分は幸せだぁ」片手を地面に付けて礼を言っていた。

 「そう、んじゃ、道の脇で、こっちでちゃんと座って少し酔いを醒ましてから帰って」

 「うん、ありがと」

 「それじゃね」

 その場を離れた。五メール歩いては後ろを振り向いた。
 どうしようか、これで良かったのか?あのまま寝込んだりしていないか?ちゃんと手を引いて家まで送ってあげれば良かったのか、どうなんだろう。

 また五メートル歩いて後ろを振り向いた。
 あそこまで歩けたら、また歩けるだろう。

 また暫くして、後ろを振り向いて立ち止まった。
 もう一度見に行こうか、どうしようか、心の納まりが良くなかった。

 何人かの通行人がいた。
 自分だけが彼を助けるのではない。きっとまた誰かが自分と同じようにおじぃちゃんに声をかけるだろうと思った。

 自分がすべてするのではない。見えない他者に信じることも必要だろう。
 自分がすべてしなくては気がすまないという思いは誰かを信じていない思いと合わせて、そこにあった。

 気がすまないという思いは自分のなかでの思い、相手への思いではない。

 そして、いつも決断の遅い自分がいた。いつも迷っている自分がいた。そうした自分がいたことを確認した。居るんだっていうことをあたたかく認めてあげた。

 また雨のなかを歩いた。傘が雨に濡れることから守っていてくれた。

 雨は静かに降っていた。優しく降っていた。

 
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