昨日の山谷には今回のインドで会ったゆうたく君を連れて行った。
山谷へは何十人もインドで会った人たちを今まで連れて行った。今回のインドで会った人たちのなかではゆうたく君は初めてだった。
彼にはおじさんたちに会う前にどういうことを思えばいいかを話した。
「彼らがどんな姿しているか?どんな表情をしているか?どんな持ち物を持っているのか?どんな風にカレーを食べるか?彼らの昨日はどういったものなのか?彼らの過去は、そして、いまは、どういったものなのか?良く思い描いてみること。そして、目の前に立っている自分がその人にどんな影響を与えるのか?自分の内側にはどんなものが現れて来るのか?よくおじさんたちを観ることが大切だよ。同じように自分がどのように感じているかを観ることが大切だよ・・・」
前日のメールでは「何か持っていくものはありますか?」と書いてあったので、「愛」とだけ返信した。
「いっぱい持って行きます」と帰ってきた。
自分が意識出てきている愛というものがどういったものなのかが彼自身が彼のなかにあるものが気付くことだと期待した。
並んでいる500人以上のおじさんたちに挨拶をしに行くのに彼を誘った。
「良いですよ」そう言った。
「笑顔で最後まで挨拶をするんだよ」
「分かりました」すでに緊張しているだろう彼はそう答えた。
生まれて初めて500人以上のおじさんたちに挨拶にして向かうことは実はかなり緊張もするし、複雑な思いもするものである。
自分も何年もこの短い挨拶をすることに自分の意識すること以外からの緊張から鳥肌がたったりもしていたこともあった。
それでも、笑顔で彼らに声をかけ続けてきた。その意味、その答え、その意志はマザーの「あなたのなかの最良のものを」の祈りの最後の三行のように思えてならない。
「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」
彼は最後まで声を出して彼らに挨拶をした。
列の前まで二人で戻った。
カレーを配っているボランティアに笑顔が少なかったので、「笑顔でするように」声をかけた。
ゆうたく君に聞いた。
「カレーをあのように渡すことがマザーがいう愛を渡しているように思える?」
「思えないです」
「そうだよね。それでも、なかなか気付かないんだよ。一生懸命に働いているだろうけど、愛を渡していないということに。自分のなかで精一杯になってしまっているんだよ」
カレーを渡しているボランティアに近寄り、「丁寧に渡すんだよ。笑顔でね」そう声をかけた。
ゆうたく君には何度も言った。
「彼らを良く観るんだよ。そして、良く感じるんだよ」
ゴミ集めも終え、帰ろうとしようとしていたとき、よしこちゃんの姿を見た。
列に並んでいたときには一言二言しか話していなかったので帰ろうとしていた後姿のよしこちゃんに「よしこちゃん。久しぶり、最近見なかったけど、どうしていたの?心配していたよ」声をかけた。
よしこちゃんは入院していたことから始まり、少年院に入っていたこと、胸にシリコンを入れたこと、売春をして二年で460万稼いだこと、売春のおとり捜査をしていた警官に捕まって二日間拘束されたこと、働いていたところのママが下を無認可のところで女性にしたこと、競輪を覚えお金をかなり注ぎ込んだこと、そして、自分はいつも楽天家であることなど、彼から始まり彼女になった半生を怒涛の如く話した。
どれだけ、孤独だった。その話し振りから容易に分かった。どのくらい長い間、聞いてくれる人がいなかったのか、そして、聞いて欲しかったのか、その孤独を感じた。自分では楽天家と自己認識をしているよしこちゃんだが、決して、それだけではない彼女がありありとしていた。
話を聞きながら自分のなかの一部にはフランチェスコの祈りが祈られていることを感じた。
「わたしを あなたの平和の道具として お使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑惑のあるところに 信仰を
誤っているところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに よろこびを
もたらすものとしてください
慰められるよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが 求めますように
わたしたちは 与えるから 受け
ゆるすから ゆるされ
自分を捨てて 死に
永遠の生命を いただくのですから
{つづく}
山谷へは何十人もインドで会った人たちを今まで連れて行った。今回のインドで会った人たちのなかではゆうたく君は初めてだった。
彼にはおじさんたちに会う前にどういうことを思えばいいかを話した。
「彼らがどんな姿しているか?どんな表情をしているか?どんな持ち物を持っているのか?どんな風にカレーを食べるか?彼らの昨日はどういったものなのか?彼らの過去は、そして、いまは、どういったものなのか?良く思い描いてみること。そして、目の前に立っている自分がその人にどんな影響を与えるのか?自分の内側にはどんなものが現れて来るのか?よくおじさんたちを観ることが大切だよ。同じように自分がどのように感じているかを観ることが大切だよ・・・」
前日のメールでは「何か持っていくものはありますか?」と書いてあったので、「愛」とだけ返信した。
「いっぱい持って行きます」と帰ってきた。
自分が意識出てきている愛というものがどういったものなのかが彼自身が彼のなかにあるものが気付くことだと期待した。
並んでいる500人以上のおじさんたちに挨拶をしに行くのに彼を誘った。
「良いですよ」そう言った。
「笑顔で最後まで挨拶をするんだよ」
「分かりました」すでに緊張しているだろう彼はそう答えた。
生まれて初めて500人以上のおじさんたちに挨拶にして向かうことは実はかなり緊張もするし、複雑な思いもするものである。
自分も何年もこの短い挨拶をすることに自分の意識すること以外からの緊張から鳥肌がたったりもしていたこともあった。
それでも、笑顔で彼らに声をかけ続けてきた。その意味、その答え、その意志はマザーの「あなたのなかの最良のものを」の祈りの最後の三行のように思えてならない。
「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」
彼は最後まで声を出して彼らに挨拶をした。
列の前まで二人で戻った。
カレーを配っているボランティアに笑顔が少なかったので、「笑顔でするように」声をかけた。
ゆうたく君に聞いた。
「カレーをあのように渡すことがマザーがいう愛を渡しているように思える?」
「思えないです」
「そうだよね。それでも、なかなか気付かないんだよ。一生懸命に働いているだろうけど、愛を渡していないということに。自分のなかで精一杯になってしまっているんだよ」
カレーを渡しているボランティアに近寄り、「丁寧に渡すんだよ。笑顔でね」そう声をかけた。
ゆうたく君には何度も言った。
「彼らを良く観るんだよ。そして、良く感じるんだよ」
ゴミ集めも終え、帰ろうとしようとしていたとき、よしこちゃんの姿を見た。
列に並んでいたときには一言二言しか話していなかったので帰ろうとしていた後姿のよしこちゃんに「よしこちゃん。久しぶり、最近見なかったけど、どうしていたの?心配していたよ」声をかけた。
よしこちゃんは入院していたことから始まり、少年院に入っていたこと、胸にシリコンを入れたこと、売春をして二年で460万稼いだこと、売春のおとり捜査をしていた警官に捕まって二日間拘束されたこと、働いていたところのママが下を無認可のところで女性にしたこと、競輪を覚えお金をかなり注ぎ込んだこと、そして、自分はいつも楽天家であることなど、彼から始まり彼女になった半生を怒涛の如く話した。
どれだけ、孤独だった。その話し振りから容易に分かった。どのくらい長い間、聞いてくれる人がいなかったのか、そして、聞いて欲しかったのか、その孤独を感じた。自分では楽天家と自己認識をしているよしこちゃんだが、決して、それだけではない彼女がありありとしていた。
話を聞きながら自分のなかの一部にはフランチェスコの祈りが祈られていることを感じた。
「わたしを あなたの平和の道具として お使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑惑のあるところに 信仰を
誤っているところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに よろこびを
もたらすものとしてください
慰められるよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが 求めますように
わたしたちは 与えるから 受け
ゆるすから ゆるされ
自分を捨てて 死に
永遠の生命を いただくのですから
{つづく}