Nonsection Radical

撮影と本の空間

混ぜて薄めて元どおり

2016年03月07日 | Weblog
すっかり世事には疎くなってるんだけど、「日本死ね」という”話題”があることをあるところから知り、だよねと思って様子を見ていたら、結局”自浄作用”が働いているようだ。
意識的か無意識か知らないけど、こういうストレートな発言が出てくると、それをストレートには受け取らないで、でもさとか、いやいやとか、またまたとか、微妙に話題をずらした発言をする人が出てきて、”本意”がいつのまにか薄まって、話題は別の方へ方向転換され、結局何も変わらない元の木阿弥状態に戻ってめでたしめでたしとなるわけね。
単に働きたいのに保育園に入れないのはおかしい、そんな日本はおかしいと言っている”だけ”なのに、大人の事情を説明したり、そんな考え方がおかしいと言ったり、入れないわけがないと言ったりと、現実に入れないことを無視した話に向かって行って、結局入れないことに変わりはない状態のまま放置プレーされるんだよね。
誰でも希望者は保育園に入れる、という事の何が問題なんだ。
そうすりゃイイだけの事じゃない。
それで働きに行って金を稼いで税金を納めて物を買って次にまた子供を作ってとなるんだろう。
そういう社会が望ましいとされているんだから、そうなるようにすればイイだけの事じゃない。
それに対して、論点をずらした話をして、そうはさせない(極端)動きに意図してか意図せずかもっていく事に意味があるのだろうかね。
「少し遠くまで行けば空いている保育園もある”はず”」なんて意見を言う人がいるらしいが、そういう問題じゃないでしょ。
便利を求めすぎる、甘えてるなんていう声もあるらしいけど、もちろんそういう問題じゃないでしょ。
どういう問題かというと、自分の生活環境に必要なものが欲するところにあってしかるべきだという事でしょ。
たとえば、役所が自分の生活圏にないことに不満を持たない人はいないでしょ。
あるところまで行けばイイというのは勝手な考えでしょ。
病院だろうと、コンビニだろうと、郵便局だろうと、銀行だろうと、自分ちの近くに望むことはイケナイことなのだろうか。
いろいろ大人の事情があるだろうけど、できればあって欲しいと思うのは自然なことだろう。
近くにあって、そこを利用したいと思うのは贅沢なことではなく自然な欲求だろう。
我慢してこれまで何かイイことがあったのか?日本に。
我慢しないで欲してきたから発展してきたんだろ。
それを我慢しろと押さえつけるように(結果的に)混ぜて薄めて元どおりになってしまうような話題に終わらせる事こそ「日本死ぬ」に近づいていくんだけど。



相模が丘の街並み 1
神奈川県座間市相模が丘1,2,5丁目
撮影 2015年7月25日 土曜日 17時10分
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