闘う社長の再起編

大きな夢を持って、日々、いろいろな事と格闘しています。
このブログは、そんな私の毎日の成長記録です。

「害」でも「碍」でもいいじゃない、論点が違うぜ

2009年07月02日 15時10分57秒 | Weblog
今日の読売オンラインに『「碍」常用漢字に必要?…障「害」印象悪く、賛否両論
という記事が載っていました。

「碍」という見慣れない漢字は「がい」と読みます。
現在では「障害者」と記述されるのが一般的ですが、
戦前には「障碍者」と記述される事も多かったようです。
どうして「害」が一般的に使われるようになったかというと
当用漢字に「碍」が入らなかったので、「害」が一般化したのだそうです。

確かに「害」というのは、良い意味では使われませんね。
公害、薬害、被害、・・・どの言葉をとっても、それを蒙る人にはマイナスだ。

そもそも私は「障害者」という単語自体大変不愉快でした。
とっても差別的な響きで、人間として否定されているような感じです。
「ボケ」と言っていたのを「痴呆」と言うようになったりしたので
同時に「障害者」というのも、別の単語を当てるべきだと思います。
しかし一方では、障害者という単語を無くしてしまうと
現在、社会に存在するバリアや差別を覆い隠してしまうという意見もあります。
難しいところですね。確かに美しい言葉ばかりでは、現実を語れませんし・・・

大体「害」が良いか「碍」が良いかという議論をする前に
私の心の中の障壁を取り除くところからはじめなければなりません。
そして障害者の方の障害は、その方の「個性」だと認識する必要があります。

障害者の人たちだって、自分で望んでそうなられたわけでありません、
しかし神様の悪戯により、生まれつきまた後天的要因によって
そのような個性を得られたのであり、
私たちだって明日同じ個性を得るかもしれません。
自分自身はもちろん、社会もその現実を受け入れるしかりません。

私は以前とんでもない勘違いをしていました。
障害者の人は不便だろうから、何とか機械の力を使って、
健常者と同じように生活できるものを作りたいと思っていました。
しかしそれはとんでもない一方的な思い上がりです! 
障害者の方は、自分の個性を受け入れておられるので不自由なんてないんですよ
不自由があるとしても、それは私たちが抱く不自由と同じなんです。

私たちは不自由を感じたりすると、便利な機械を作り出すでしょう?!
例えば聴覚障害者の方に骨伝導で音が聞こえる機械を作ったら
それは障害を補助するものではなく、単に便利さが増えただけなんですよ。

私はそういう経験があるので、今回の「害」「碍」漢字騒動も
障害者の気持ちを理解していない人間たちの騒動で
当の本人たちは、どうでも良いと思っているに違いないと思いますよ。


今日目に付いた記事:
 ・入学許可決定に町側が即時抗告 奈良の車いす少女
  こんなのは言語道断! 少女側も設備が完全でない事は知っているけど
  そういうリスクを乗り越えても普通中学に行きたいと願っているんですよ。
  いざという時の責任を回避するための逃げ口上ですよ町側は。

今日の気持ちステータス:

今日の一言:
 所詮、健常者の空論