NHKで高校生が出演して、貧困なので進学できないと語ったとか。
一部見ていたが、そうなのだろうなあと思って、特に違和感はなかったが、世の中にはずいぶん、他人の生活をあれこれ言う人がいるらしい。国会議員にもいるらしい。
世の中せちがらくなっている。
自分が貧乏だと自分より少しいい生活をしているように思える人が「貧困なんで」というと、「なにいってだ!」と怒るようである。
私よりいい生活しているくせに貧困だなんていっているよ!ということなんだろう。
みんな生活に余裕がないと、他人の生活をうらやましく思い、ちょっとでも、貧困なんで、というようなものなら、攻撃を仕掛ける。我慢が足りないと。
そもそも非難している人というのは、貧困概念について無知なのだろう。
きっと「貧乏」というのは住むところもなく食べるものもなく、ぼろぼろの身なりで、電気も止められて、毎日水しか飲まないような生活だと思い込んでいるようである。
現代の貧困、先進国における貧困はそういう貧困ではないというのは、この20年ぐらい言われ続けていることである。
相対的貧困というものである。
その社会の常識的な生活様式からかけな離れているかどうか、その度合いで決まる。
皆が携帯をもっている、毎日風呂に入るという文化のなかで、携帯をもっていない、週に1回しか風呂に入れないというのは、ある意味貧困であるということである。
OECDなどでは、平均所得の半分に満たない所得しかない人は相対的貧困としてみなして国際比較するのであるが、日本は、この率が意外に高いということで先進国のなかでめずらしがられているのである。
ここで強調すべきなのは、豊かな日本に生まれているのに、その豊かさを享受できず、本人の責任ではなく、経済的に苦しい家に生まれたというだけで、進学ができないということ、それが不平等であること、それが問題なのである。
ぼんくらのくせに、総理大臣の孫にうまれたというだけで、家庭教師をつけてもらって、クーラーの部屋で何不自由なく暮らしている小学生、おじいさんのコネで何でも手に入るような安倍晋三少年みたいなのがいる一方、その逆もいるわけで、それは不平等というものである。
生まれた家庭の貧富にかかわらず、平等に機会が与えられる社会でないと有能で才能ある子どもが埋もれてしまい社会としてももったいないのである。
一部見ていたが、そうなのだろうなあと思って、特に違和感はなかったが、世の中にはずいぶん、他人の生活をあれこれ言う人がいるらしい。国会議員にもいるらしい。
世の中せちがらくなっている。
自分が貧乏だと自分より少しいい生活をしているように思える人が「貧困なんで」というと、「なにいってだ!」と怒るようである。
私よりいい生活しているくせに貧困だなんていっているよ!ということなんだろう。
みんな生活に余裕がないと、他人の生活をうらやましく思い、ちょっとでも、貧困なんで、というようなものなら、攻撃を仕掛ける。我慢が足りないと。
そもそも非難している人というのは、貧困概念について無知なのだろう。
きっと「貧乏」というのは住むところもなく食べるものもなく、ぼろぼろの身なりで、電気も止められて、毎日水しか飲まないような生活だと思い込んでいるようである。
現代の貧困、先進国における貧困はそういう貧困ではないというのは、この20年ぐらい言われ続けていることである。
相対的貧困というものである。
その社会の常識的な生活様式からかけな離れているかどうか、その度合いで決まる。
皆が携帯をもっている、毎日風呂に入るという文化のなかで、携帯をもっていない、週に1回しか風呂に入れないというのは、ある意味貧困であるということである。
OECDなどでは、平均所得の半分に満たない所得しかない人は相対的貧困としてみなして国際比較するのであるが、日本は、この率が意外に高いということで先進国のなかでめずらしがられているのである。
ここで強調すべきなのは、豊かな日本に生まれているのに、その豊かさを享受できず、本人の責任ではなく、経済的に苦しい家に生まれたというだけで、進学ができないということ、それが不平等であること、それが問題なのである。
ぼんくらのくせに、総理大臣の孫にうまれたというだけで、家庭教師をつけてもらって、クーラーの部屋で何不自由なく暮らしている小学生、おじいさんのコネで何でも手に入るような安倍晋三少年みたいなのがいる一方、その逆もいるわけで、それは不平等というものである。
生まれた家庭の貧富にかかわらず、平等に機会が与えられる社会でないと有能で才能ある子どもが埋もれてしまい社会としてももったいないのである。