3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

内閣府政務官、務台俊介って、議員として資質に欠けるんじゃないか

2016-09-12 17:14:11 | 現代社会論


被災地視察の務台政務官 官房長官「配慮欠けた行為」

http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/11/syunsuke-mutai_n_11968946.html

内閣府の務台俊介政務官が、台風10号の被災地の視察に訪れた際、長靴がなく、内閣府の職員に背負われて水たまりを渡った。
「被災者への配慮に欠けた行為」だよね。

あきれるのである。
東大法学部出のエリートは、泥んこは嫌だったのだろうか。

長靴がなけりゃあ、革靴で水たまりの中を歩けよ、と怒鳴りたい。
泥んこになって何がいやなのか。

かつて田中角栄、浜田 幸一もそうだけど、遊説先で田植えをしている農家の人のところへ、靴のまま入っていって握手して絶大な支持を得た。
それくらい当たり前なのである。政治家というのは、被災地の人々の生活に深く入り、その本当の苦しさをくみ取っていく仕事であるはずである。
内閣府の職員も職員である。おんぶなんかするな、バカ。

ああ勘違いの国会議員、内閣府の政務官をこんな奴がやっているのか、即刻首である。

本当に頭にくる。

ぼくちゃんぬかるみニガテなのよね。長靴わすれちゃったし、内閣府の若手の職員にお願いおんぶしてよ、って言ったのだろうか。
おんぶを指示した内閣府の職員は一体誰だ?内閣府の職員も職員である。そんなことしたら、批判の的になると想像できなかったのだろうか。
内閣府の職員も、ぼくちゃんも泥んこ嫌いだしって思ったけど、ここでおんぶすると出世できると思ったのだろうか。

はいはいと馬鹿面さげておんぶされた務台ってやつの顔も殴ってやりたいほど頭にくる。

何様か。

務台なんて首だ、クビ!!

こんな奴に被災地の悲惨な生活がわかるっていうのか。
涼しい顔して、良きに計らえっていうのが関の山である。
こんな奴に政治はできないのである。
辞めさせるべきなのである。
政治家としての資質に欠けるのである。
というか、こんな奴は政治家どころか一般市民としても失格なのである。

胸糞悪いのである。


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舞踏会の手帳を観て

2016-09-12 16:29:54 | DVDノート
舞踏会の手帳、古い映画 1937年、フランス映画。

16歳の時の初めての舞踏会、そこで踊った男のその後をたどる話である。
主人公の女性は、夫に先立たれた。ふと、結婚前に出会った男の消息を知りたくなって、舞踏会の手帳を頼りに訪ねる。

失恋を苦に自殺をした男。
悪党になった男
司祭、理髪師、アルピニスト、あやしい産婦人科医、町長・・。

だれも幸せとは言えないその後の人生。
最後に会いに行った男は会う直前に死んでいた。
生き写しの息子。
その息子を引き取る主人公、というシーンでFIN

青春の美しい日々は短い。短いからこそ美しいのか。
少女のころ、若くてはつらつとしていて、まだ、本当の恋も知らず、人生を知らず。
それでも愛の言葉は覚えているものである。
いくつかの美しいフランス詩とともに。
あるいは、いくつかの美しい万葉集や古今和歌集とともに。

この映画ではヴェルレーヌの「感傷的な会話」が引用されていた。
http://baudelai.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-ccb4.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

感傷的な会話
           ヴェルレーヌ

人気もなく凍った廃園の中
二つの影がたったいま通り過ぎた。

その目は死んで唇はゆるみ、
話す言葉はほとんど聞こえない。

人気もなく凍った廃園の中
二つの亡霊が過去を呼び起こした。

―きみは思いだすかい、昔の陶酔を?
―なぜあなたは私に思いださせたいの?

―ぼくの名前を聞くだけで今でも胸がときめくかな?
今でもぼくの魂を夢にみるかい? ―いや。

―ああ! えもいわれぬ幸福なあの美しい日々、
ぼくらの唇を合わせた頃! ―そうだったかもしれない。

―あんなに青い空、あんなに大きな希望が!
―希望は打ち負かされて、黒い空に逃げ去った。

こうして二人はからす麦の中を歩いていった、
ただ夜だけが二人の言葉を聞いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今でもぼくの魂を夢にみるかい?

このフレーズは、中島みゆきの歌にもありそうである。
中島みゆきアルバム「臨月」の最後の歌、夜曲のなかに

♪今でもあなたは私の夢をみてくれることがあるかしら♪

もし、今でも私の夢をみてくれることがあるとしたら、うれしいかもしれない。

ずっと昔に別れた恋人が今でも私の夢をみてくれているとしたら、女冥利に尽きるというもの。

舞踏会の手帳、という戦前の映画、全く偶然みたのだが、古い恋をしばし思い出し、消息をひとりひとり訪ねてみたくなるのである。

死んでしまっていたり、落ちぶれていたりする人ばかりでなく、
声もかけられないようなまぶしい人もいるかもしれない。

今ではFBで何気なく近況がわかるもので、
容貌から仕事の内容から業績の一つ一つまで知ることができるから、戦前のこの白黒の映画のように訪ねていく必要もないけれど。

それでもあったら、泣いてしまいそう。
それは悲しい恋の思い出、成就しなかった恋のため、というより、若い青春の一つ一つの場面、無垢な自分の人生とその後の人生を知っているからかもしれない。
一つ一つの恋の結末を知っているから、とにかく、懐かしさと自らの未熟さに泣けてくるのだと思うのである。

ベルレーヌやアポリネールの詩とともに、懐かしさがこみあげてくる秋の夕暮れである。







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