たくさんの子どもたちが被災し、そして親を失っている。地震、津波、肉親の喪失、精神的なダメージも大きい。彼ら彼女らをどう支援したらよいのか。
戦争末期の東京大空襲でも、多くの子どもたちが被災した。家を失い、親を失った。戦後の児童福祉はこの焼け跡で生き残った子どもたちへの支援から始まった。当時、上野駅地下道にはたくさんの「浮浪児」がいて、栄養失調で病死する子も多数いた。生きるために物乞いをするか、食うものを探して、窃盗をして捕まる子もいた。そういう子どもたちを「刈込」と称してトラックで「保護」し、孤児院(養護施設)へ送った。すし詰め集団収容に耐え切れず、脱走するものもいたということである。それでも養護施設で衣食住を保障され、学校に通い、中学を卒業し、まじめに働き、結婚し、家庭を作り幸せになっていった事例も多い。そこで働く職員、彼ら彼女らも戦争から引き揚げてきたり、空襲で肉親を失ったものたちだったから、そこには戦争体験という共通の悲痛な経験があり、復興のために、がんばろうという気概があり、互いに助け合って生活していた。
東北で被災し、親を失った子どもたちは、強く立ち上がると思う。精神科医や臨床心理学者はPTSDを心配するけれど、そういう子どもたちもゼロではないにしろ、基本的には子どもは支えあって乗り越えていく力をもっているものだ。被災体験という共通体験をもつ人たちは子どもも大人も、互いに共感し、互いの悲しみを共有しながら、立ち直っていこうとするだろう。別れはつらくとも、愛された記憶があればやっていけるのだ。
東北大震災で被災した子ども達の生活再建の支援をどうしたらよいのか。
学校給食が始まって、パンと牛乳だけでも楽しそうに食べている映像を見ると、学校というのは勉強や友達との交流だけでなく、給食が心身の健康保持のために大きな役割を果たしていることがわかる。生き残った親は仕事を探したり、家の片づけで忙しい。学校に子どもがいるうちは、本当に安心だ。
また、今日のテレビで、吹奏楽部の子どもたちが町の人たちのために「見上げてごらん空の星を」を演奏したと報じていた。町の人たちが涙ぐんでいた映像をみて、子どもたちの存在がどれだけ土地の人を励ましていることかと思う。子どもは力と勇気をくれる存在なのだ。自分の子も隣のうちの子もみんなで育てようと町の人たちは思ったはずだ。
学校を子ども達、地域の拠点にする街づくりは有効と思う。そこに地域包括やデイケア、ミニ老人ホーム、障がいのある人々の施設、基幹的な病院をセットにして付設する。そのまわりに商店街、そして住宅を建設する。高台にある小学校センター方式のコンパクトな街である。小学校というのは基本的に徒歩圏に設置されているから、高齢者や障がいをもつ人々もだれでも使いやすいはずである。車に頼らない。できれば路面電車を敷くというのはどうだろう。みなが車に依存し、ガソリンの調達に奔走するような社会はもうやめたほうがよい。
今回の被災地はあまりに広域であるために自治体への支援や自治体同士の連携もとりにくいと聞く。23区の自治体をたとえば、それぞれ福島をはじめとする東北の自治体と個別に支援する体制を構築する。つまり、文京区は浪江町、世田谷区は双葉町・・・、こうやって東京の大規模で豊かな自治体が複数の東北の自治体を支援するという割り当て制を1年ぐらいとって、被災した子ども達や家族を受け入れるとか、当分、東京での就職さきなどをあっせんするとか、自治体職員を派遣するとか、いろいろきめ細かな生活支援、再建への手助けができるのではないかと思う。すくなくとも23区をはじめとする東京に在住在勤のものは大量の電気を福島から供給されていたのだから、それくらいの恩返しは当然である。都庁職員や都職にある人たちは、各県の支援に回る。こういうシステムなら、担当の町でなにが不足しているか、明らかにし、それを自区に要請し、調達することも可能だし迅速だろう。区民はボランティアや物資の調達に奔走し、なければ、ほかの区に応援を求める。そうやって、効率よく自治体を経由した人とモノの流れができあがる。それぞれの避難所で何が不足しているか、避難所から退去しなければならなければならないのなら、一時的に自分の区の公営住宅に引き取るとか・・・さまざまな良い案をそれぞれ編み出せばよい。
東北の人々は土に親しむ人々である。農業や林業、漁業という自然を相手に暮らしを立ててきた人たち。東京のように寄せ集め、根無し草のような市民ではない。東京は地域共同体の枠を嫌って出奔した者たちの集まりともいえ、かなり生活感覚が違うだろう。そこに軋轢が生じる可能性もある。しかし、都民も故郷を聞けば、東北だったりする。2代さかのぼれば、岩手や宮城、福島が故郷である人も多い。東北の復興、再建に東京は何ができるか。よく考えよう。義捐金の行方を心配するより話が早い。
戦争末期の東京大空襲でも、多くの子どもたちが被災した。家を失い、親を失った。戦後の児童福祉はこの焼け跡で生き残った子どもたちへの支援から始まった。当時、上野駅地下道にはたくさんの「浮浪児」がいて、栄養失調で病死する子も多数いた。生きるために物乞いをするか、食うものを探して、窃盗をして捕まる子もいた。そういう子どもたちを「刈込」と称してトラックで「保護」し、孤児院(養護施設)へ送った。すし詰め集団収容に耐え切れず、脱走するものもいたということである。それでも養護施設で衣食住を保障され、学校に通い、中学を卒業し、まじめに働き、結婚し、家庭を作り幸せになっていった事例も多い。そこで働く職員、彼ら彼女らも戦争から引き揚げてきたり、空襲で肉親を失ったものたちだったから、そこには戦争体験という共通の悲痛な経験があり、復興のために、がんばろうという気概があり、互いに助け合って生活していた。
東北で被災し、親を失った子どもたちは、強く立ち上がると思う。精神科医や臨床心理学者はPTSDを心配するけれど、そういう子どもたちもゼロではないにしろ、基本的には子どもは支えあって乗り越えていく力をもっているものだ。被災体験という共通体験をもつ人たちは子どもも大人も、互いに共感し、互いの悲しみを共有しながら、立ち直っていこうとするだろう。別れはつらくとも、愛された記憶があればやっていけるのだ。
東北大震災で被災した子ども達の生活再建の支援をどうしたらよいのか。
学校給食が始まって、パンと牛乳だけでも楽しそうに食べている映像を見ると、学校というのは勉強や友達との交流だけでなく、給食が心身の健康保持のために大きな役割を果たしていることがわかる。生き残った親は仕事を探したり、家の片づけで忙しい。学校に子どもがいるうちは、本当に安心だ。
また、今日のテレビで、吹奏楽部の子どもたちが町の人たちのために「見上げてごらん空の星を」を演奏したと報じていた。町の人たちが涙ぐんでいた映像をみて、子どもたちの存在がどれだけ土地の人を励ましていることかと思う。子どもは力と勇気をくれる存在なのだ。自分の子も隣のうちの子もみんなで育てようと町の人たちは思ったはずだ。
学校を子ども達、地域の拠点にする街づくりは有効と思う。そこに地域包括やデイケア、ミニ老人ホーム、障がいのある人々の施設、基幹的な病院をセットにして付設する。そのまわりに商店街、そして住宅を建設する。高台にある小学校センター方式のコンパクトな街である。小学校というのは基本的に徒歩圏に設置されているから、高齢者や障がいをもつ人々もだれでも使いやすいはずである。車に頼らない。できれば路面電車を敷くというのはどうだろう。みなが車に依存し、ガソリンの調達に奔走するような社会はもうやめたほうがよい。
今回の被災地はあまりに広域であるために自治体への支援や自治体同士の連携もとりにくいと聞く。23区の自治体をたとえば、それぞれ福島をはじめとする東北の自治体と個別に支援する体制を構築する。つまり、文京区は浪江町、世田谷区は双葉町・・・、こうやって東京の大規模で豊かな自治体が複数の東北の自治体を支援するという割り当て制を1年ぐらいとって、被災した子ども達や家族を受け入れるとか、当分、東京での就職さきなどをあっせんするとか、自治体職員を派遣するとか、いろいろきめ細かな生活支援、再建への手助けができるのではないかと思う。すくなくとも23区をはじめとする東京に在住在勤のものは大量の電気を福島から供給されていたのだから、それくらいの恩返しは当然である。都庁職員や都職にある人たちは、各県の支援に回る。こういうシステムなら、担当の町でなにが不足しているか、明らかにし、それを自区に要請し、調達することも可能だし迅速だろう。区民はボランティアや物資の調達に奔走し、なければ、ほかの区に応援を求める。そうやって、効率よく自治体を経由した人とモノの流れができあがる。それぞれの避難所で何が不足しているか、避難所から退去しなければならなければならないのなら、一時的に自分の区の公営住宅に引き取るとか・・・さまざまな良い案をそれぞれ編み出せばよい。
東北の人々は土に親しむ人々である。農業や林業、漁業という自然を相手に暮らしを立ててきた人たち。東京のように寄せ集め、根無し草のような市民ではない。東京は地域共同体の枠を嫌って出奔した者たちの集まりともいえ、かなり生活感覚が違うだろう。そこに軋轢が生じる可能性もある。しかし、都民も故郷を聞けば、東北だったりする。2代さかのぼれば、岩手や宮城、福島が故郷である人も多い。東北の復興、再建に東京は何ができるか。よく考えよう。義捐金の行方を心配するより話が早い。