新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

自分が自分でなくなっている・・・悲劇に目覚めよ!

2016-10-17 08:39:25 | 私の声
 自分が自分でなくなっているのだが・・・そのことに頓着できないまんま、生きている。どなたもどなたも、生まれながらにして、自分でありたがっているようになっている。しかし、自分が自分になった慶びの体験してこそ言えるのだから、分かり難いところだ。声にならずじまいのことばが、身体の奥深くに封じ込められているのだ。いつしか積もり積もって、怒りになって体外に噴出する。まるで火山の爆発とよく似ている。都度都度声になり、聞いて聞こえて自分の精神の肥やしに変化(へんげ)させていただける関係のある体験を、知らない人たちの実に多いことか。そのまんまでいいんですか?。個人と個人のケンカ・歪みあい・不信感・孤独・疎外感・殺し合い・自殺・戦争・・・。全てはやり残している自分に起因している。共々の生かし合い・思いやりの手だてが分からない者同士だから当然のできごと。「人間になるセミナー」が今月末に予定されている。これほど崇高な関係・学び合いはないと断言できる。清々しさ・あたたかさの風が心身に吹き渡る、ことばとことばの通い合い・・・。

「いい人になったねぇ」

2016-10-15 07:11:34 | 私の声
 「いい顔で写っているねぇ」と、一枚の写真を見て母に声をかけた。職員のどなたかが撮ってくださったものだろう。「いいでしょう!、家へ帰るとき、それ持って帰ろうと思って}と母が言う。「家へ帰るとき持って帰ろうと思っているのね」と声になった私。車いすの生活では、帰れるような状態ではないが、そのことはどうでもよかったのだ。「いい人になったねぇ」と母。過日、施設に高齢の母を訪ねたときの何気なく交わしていた会話であった。母の声になったそのことばに、安堵のような感じに包まれた。安らかさが母に訪れてきて・・・亡くなっていただいていい、と言う気持ちになった。有難かったことに、私がいい人かどうかに、関心がなかった点だ。いい人にならなければと言ったような、私に力み・無理がなかったところを母は感じられて、「いい人」に想えたのではなかったかと。さわやかが遺った。

どうしたらいいか分からなくになれる

2016-10-11 08:57:54 | 私の声
 どうしたら分からなくになれるかどうか、どうしたらいいか分からなくなっている、が感じられるかどうかだ。自分事として。人生が豊かになれるには。より人間として深く広く変化できるには。どうしていいか分からない、と言いつつなおざりにしている間は、学ぼうとはしない。うやむやのままの人生を続けて往く他はない。なによりも、有耶無耶になっていることに、気づけていないのだから。まさに闇のなかに住んでいる。カウンセリングと言う学びに出会えて言えている。カウンセリングと言っている場は、あふれるほどに見聞きするが、そのほとんどは私の出会った、私の成長を促してくださった・くださっているものとは、全く質を異にしている。体験して分かった。従って、体験していない人にとっては、選びようがないのである。体験したところで、大方の人は他もみな同じと思い込んでしまうであろう。カウンセリングは人間(ひと)なのである。選れたカウンセラーに値遇(であ)えて今の私にならせていただけた。不可思議なご縁に恵まれたとしか言いようがない。私が施されてきた、すてきな体験・学び合いを、一人でも多くの方々と分ち合いたい。

分からなさが声に

2016-10-08 07:08:34 | 私の声
今や、分からなさに触れたな?と感じられたなら、迷わず声になれるようになってきている。分からなさが感じられる私自身に、誇れるのだ。分からなさは、なかなか前に出にくいようになっているようだ。退きやすいとも言える。声にすることの怖さも、人との関わりからいつしか獲得してきたのであろう。声にするのが怖かったんだ!このことばに、顕かにさせていただいた後、私は変化した。不可思議としか言いようがない。今は、声にすることは私自身の成長へのプロセスに、必須だとこれまでの道程で確信できたのである。その実感は、怖さを超えられるようになれたのだ。声にするとは、吾自身が表れるということになる。表れたことばに、自他の評価で聞くできごとが生じてくる。けがをしたり後悔したり喜んだり・・・。ところが、ことばは人間が一喜一憂しているようなレベルにはないということだ。吾の評価に一喜一憂しているところが声になり、そこに気付かせていただければ、新しい世界に誕生させていただける。ひとところに留まっていると、活き活きにならないばかりか、死んでしまう。呼吸はしていても、精神はね。ことばに畏敬の念を抱くようになったのは、聞いてくださる人間(カウンセラー)に値遇えたからだった。奇跡としか言いようがない。

ことばのオートファジー

2016-10-07 08:29:27 | 私の声
 用(はたら)きに異常があると、細胞にことばが溜り病気(不適応)になるのだ。それでは、異常になるとは、解って終うと言うことであろう。生後私たちは、解ることを促され、解ることを評価される環境で生活し続けてきた。それゆえ解ると言うことの意義を、疑うことを知らないできた。解らないことは恥ずかしいと無意識的に想い、堂々と声にできてこなかった。そのことがどんなにか、人間としての成長の妨げになっていたことか。ときには、滅入って重苦しく、生きていることが慶べずに・・・。分からない自身のところを、恐る恐る声にしながら、声にすることの大切さを学べたのは、学校教育を終えた後だった。分からない自身のところを、聞いてくださる人間(ひと)に出会えたことこそ、有難かった。カウンセリング研修会の場だった。意図しても適うものではないだけに。分からない自身をありのまま聞いていただけると、そこにはオートファジーと言うできごとが、おのずから発生するのである。細胞つまり精神が活性化し、成長へのプロセスを歩んで行けると言いたい。吾体験で学べたところである。解りましたは、今の私にはない。