新潟カウンセリング研修センター

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「いじめ」の捉えように危機感を覚える

2017-09-24 07:56:56 | 私の声
昨日の新聞を開いたら、小中学校のいじめに関する報道に眼が止まった。市議会の9月定例会本会議での質問に教育委員会が答えているもの。認知件数が増加した理由とその捉え方が掲載されていた。「ささいな一回の冷やかしや悪口でも、された児童生徒が『嫌だ』『つらい』といった心の部分をいじめととらえている」とした上で、「各学校が早期発見に取り組んでいる結果だ。」と。「研修や組織的対応が大事になる」と。 
 私が危機感をつのらせているのは、『ささいな』『一回の』『でも』である。たった独りの目の前の児童生徒の声『つらい』『嫌だ』を、このように聞いている人間(教師)には、尊重されていないのは顕か。「いじめの早期発見」では、目の前のその子の心身(いのち)は救われていかない。「いじめ」と言うのは解釈にほかならない。分かりづらいででしょうね。その子の今・声にしているかけがえのないその言葉『嫌だ』『つらい』が、その教師に聞えたかどうかである。その子が、聞いてもらえたとなるかどうかだ。「解釈」や「自分の思い」で教師が聞くから、聞かれた子は絶望になる。その子が聞いてもらえたになれたかどうかに、ひとえにかかっているのであう。『悪口』や『冷やかし』を言ったとするその子も、かけがえのない独りである。双方が育まれる対応は在るのだが、教師にはとうていできまい。もう、組織的対応を言い続けるのはよそう。教師が自分の聞けなさに目を向け、いのちがけで学んでほしい。能動的に学ぶ姿勢が欠落している。自分の聞けなさ・どうしていいか分からないと、苦悩している教師に一人でも出会いたい。自分の聞けなさに嘆けたら、学びはおのずからせずにはおれないものだ。現にこの私はそうだったし、今もこれからも。聞けなさに学び続けて40余年になる。生涯の課題にさせていただいている。

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