サッカー日誌 / 2012年07月15日


関塚U-23のコンセプト


ロンドン五輪壮行試合
キリンチャレンジカップ2012
男子U-23 日本 1-1 ニュージーランド
(7月11日 国立競技場 第2試合)

★「後ろで回す」ことへの評価
 ロンドン・オリンピック男子壮行試合は、ニュージーランドと1対1の引き分けだった。
 結果が重要な試合ではない。引き分けでもいいのだが内容を検討する必要はある。
 試合後の記者会見で関塚隆監督は、次のように語った。
 「後ろでやりすぎた。走らなかった」。
 ぼくは思った。「そうだろうか?」
 後ろで回すことが必ずしも悪いとは言えない。
 走り続けることが必ずしもいいとは言えない。
 たしかに、日本U-23代表は、最終ラインでパスを回している時間帯が長かった。
 しかし、一方でチャンスと見れば、鋭く相手の守備ラインの背後を突くテンポのはやい攻めも試みていた。

★監督と選手の食い違い
 ぼくの考えでは、ゆっくり回す場面と鋭く攻める場面を、うまく組み合わせる必要がある。緩急自在、チャンスに集中。これは一つの理想形である。U―23代表の選手たちは、それを狙っているように見えた。
 もちろん程度の問題はある。関塚監督の眼には、後ろで回す時間帯が多すぎ、走って攻める時間帯が少ないと映ったのかもしれない。
 しかし、前半と後半の立ち上がりの集中的な攻めは悪くなかった。
 欧州でプレーしている大津祐樹、清武弘嗣の前線への走り込みは鋭かった。そこへワンタッチでパスをつないで合わせる。その狙いは良かった。
 関塚監督が、前へ前へと走るサッカーをめざしているのであれば、選手たちのコンセプトと食い違っていると思う。

★問題は守りに
 シュート数19対2の一方的な試合で、1点しか取れなかったのはさびしい。しかし集中的な攻めでラストパスが合わなかったのは、はやいテンポが正確なパスとボールコントロールに結びつかなかったからである。五輪開幕までに修正する時間はある。
 問題は守りにあった。
 1点のリードで試合が終わろうとしていた後半追加時間ぎりぎりの4分に失点して引き分けにされた。後方でボールを回していて、村松大輔がパスを受けるところを狙われてボールを奪われ、速攻で攻め込まれた。
 あと数十秒という気を引き締めて戦わなければはならない時間帯で集中力を欠いていた。
 オーバーエージで補強した吉田麻也をケガで温存していたという事情はあったが、守備プレーヤーの人選、オーバーエージの人選が適切だったのかどうかが疑われる。


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サッカー日誌 / 2012年07月14日


「なでしこ」のカギは澤の復調


ロンドン五輪壮行試合
キリンンチャレンジカップ2012
女子 日本 3-0 オーストラリア
(7月11日 国立競技場 第1試合)

★攻めの組み立ては的確
 「メダル獲得へのカギは、やっぱり澤穂希だな」
 ロンドン・オリンピックへの壮行試合。なでしこJAPANの試合ぶりを見ながら、そう思った。
 日本が圧倒的に攻め続ける。オーストラリアが若手主力ということもあって、澤は、ボランチとしての守りは阪口夢穂にまかせ、攻撃の第2線に出て攻めにからんだ。
 「なでしこ」は、いろいろな形の攻めを試みていたが、そのなかでも、澤が出すパスは的確だった。相手の守りに囲まれていても、もっともいい位置にいる味方にワンタッチで繋ぐ。そういう場面が何度もあった。
 最前線に出てのヘディングシュートも前半に2本あった。
 守りでも、相手のパスのコースを読んで先回りする予測のいいプレーを何度も見せた。

★澤の完全復調が不可欠
 「なでしこ」は前半、2対0とリード。圧倒的に攻め、15本のシュートを放ちながらPKを含む2点はもの足りないが、本番へ向け仕上がり途上だと考えればまずまずである。
 後半13分に3点目。これは澤のゴールだった。コーナーキック後の混戦から出たボールをワンタッチで蹴り込んだ。一瞬のうちにすばやく反応できたのがよかった。
 澤は、3ヵ月半前のアルガルベカップ(ポルトガル)で倒れてから体調を崩していたが、確実に復活しつつあるようだ。
 このゴールの直後に澤は交代した。澤がいなくなったあと、ゴール前へ通すパスが合わない場面が多くなり、追加点は生まれなかった。
 壮行試合のこういう試合ぶりを見て「なでしこ」がオリンピックのメダルを獲得するためには澤の完全復調が欠かせないだろうと思った。

★佐々木監督の気になる発言
 澤は復活しはじめているが、この試合では動きの速さと量は不十分だった。本番まで2週間、専門のトレーナーの協力を得て、オリンピックの第1戦までにフィジカルとメンタルの状態を完全に仕上げてほしいものだと考えた。
 ところが試合後の記者会見で佐々木則夫監督が気になる話をした。
 「ピッチの中だけでなく、外でも宮間(あや)が中心になりつつあるのですよ」
 宮間を中心に若手がまとまってきているという。聞きようによっては、33歳の澤は「チームのなかで浮いている」と取られかねない発言である。
 アルガルベカップのときから、キャプテンの腕章は宮間が付けている。
 佐々木監督は、澤が体調を崩す前から、宮間を中心に新しい「なでしこ」で金メダルを狙おうと考えていたのかもしれない。


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サッカー日誌 / 2012年07月12日


ゴールの判定に機械導入


国際FA評議会(IFAB)特別会合
(7月5日 チューリヒ)

◇サッカーよ! お前もか!
 ボールがクロスバーに当たって真下に落ちる。地面に跳ね返ってピッチ内に出る。ゴールか、ノ―ゴールか?
 1966年ワールドカップ決勝の場面がよく知られているが、その後も同じような微妙なケースが、何度も問題になっている。
 サッカーのルール改正を決める国際FA評議会(IFAB)が、このような場面で機械判定を導入することを決めた。
 「サッカーよ!お前もか!」
 これが、ぼくの感慨である。
 大相撲、ラグビー、テニスでは、すでに取り入れられている。サッカーもついに踏み切ったのかという思いである。

◇導入が遅れた理由
 FIFAは長い間、機械判定採用に踏み切らなかった。これには2つの理由があったと思う。
 1つは「試合は主審の笛によって成り立つ」という原則である。
 サッカーは、人間の判定に両チームが従うという「約束」によって成り立っている。お互いに、その約束を尊重するのが「フェアプレー」である。
 もう1つは「サッカーは1つ」という理念である。
 トップのプロも、草の根のアマチュアも同じサッカーをする。こういう考えが、サッカーを世界の大衆のものにした。草の根レベルでは導入できない高価な設備を使うことは避けたかった。

◇サッカーの理念を忘れるな
 テクノロジーの進歩によって精密な機械判定が可能になった。しかし、地球上の何億もの試合で、その設備を取り入れることは不可能だ。ワールドカップのようなトップレベルの試合も草の根レベルと同じように、主審の判定に従って試合をしよう。これが、一つの考え方である。
 一方で、テレビで何億もの人たちが見ている試合で、再現映像によれば明らかな「誤審」を見過ごすことにも問題がある。視聴者が納得できる方法を採用しよう。これも一つの考え方である。
 機械導入は「やむを得ない」と思う。一方でフェアプレーの精神とシンプルな大衆のスポーツという考え方も忘れないで欲しい。


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サッカー日誌 / 2012年07月09日


学校スポーツの曲がり角


高校野球の連合チーム容認
(7月7日~7月29日 東京大会)

◇少子化の影響
 夏の甲子園2012の予選、高校野球東京大会の出場は265チームだった。しかし参加した高校は実は267校である。チーム数が学校数より少ないのは2校合同で参加したチームが2つあったからである。
 部員数が少なくて1校ではチームができない場合は、2校合わせて1チームを編成して参加することが認められた。
 連合チームの一つは、部員5人の五日市高校(あきるの市)と部員8人の瑞穂農芸高校(瑞穂町)。合わせて13人が選手登録されている。もう一つは京北高校(北区)で系列校の京北白山高校から1年生2人を派遣してもらって10人を登録している。

◇連合と選手貸出し
 五日市・瑞穂農芸は、ともに東京都の西の端に近い地域の都立校である。別の市と町にあって近接しているとは言えない。常時いっしょに練習できるわけでもない。ともに部員数が足りないので1校1チームの原則を崩して連合したのである。
 京北の場合は、系列校の京北白山と同じ敷地内にあり、ふだんから合同で練習しているという。京北白山は13人登録で別に参加している。余っている選手2人を京北が借りて、もう1チーム編成した形である。もともとクラブとしては事実上一つだが、学校は2つなので2チーム出場できたわけである。
 この二つの例は学校スポーツの矛盾を典型的に示している。

◇崩れた1校1チーム
 高校野球の場合、連合チームの参加が認められたのは今回が初めてである。これまでは、学校の統廃合が予定されている場合だけ「連合」が認められていた。
 「1校1チーム」は学校スポーツの原則である。別の学校との連合が認められるのであれば「学校単位」ではなく「クラブ単位」である。
 少子化を主な原因とする「連合チーム」は、高校ラグビーや中学バレーボールでは数年前から行われているようだ。それが高校野球にまで及んだことに注目した。
 学校スポーツは「曲がり角」に立っている。


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サッカー日誌 / 2012年07月08日


「スペインの時代」を歴史に


ユーロ2012の意味したもの

6月8日~7月1日 ウクライナ、ポーランド
決勝 スペイン4対0イタリア(キエフ)

◇「ブラジルの時代」との比較
 サッカーの欧州選手権「EURO2012」でスペインが2連覇を決めたあと、外電がペレとのインタビューを伝えていた。
 「今回のスペインと1970年のブラジルのどちらが強いだろうか?」という質問に対する答えである。
 質問自体は「白鵬と双葉山はどちらが強いだろうかは?」というのに似ていて、あまり意味はない。時代も状況も違うので、まともな比較はできないからである。
 ペレの答えは「1970年ワールドカップで優勝したブラジルのほうが、いいプレーヤーを揃えていた」というものだった。一方で「スペインは新しいサッカーを作り出した」と評価もしていた。

◇世界を変えた足跡
 ペレの時代のブラジルは、ペレに加えてトスタン、ジャイルジーニョなどの優れた個人を揃えていた。
 一方、スペインは、パスをつなぐ独特の組織的なスタイルで2008年ユーロ、2010年ワールドカップ、そして今回のユーロと3連続で大きなタイトルをとった。ペレは、その点を捉えて巧みに、ソツなく答えている。
 1958年、1962年、1970年と3度のワールドカップを制覇したペレの時代のブラジルは、疑いもなく世界のサッカーを変えた。
 スペインの3タイトル連覇は「ブラジルの時代」と同じように、サッカーの歴史に大きな足跡を刻んだものだと思う。

◇テレビ中継の作るイメージ
 「ブラジルの時代」を、日本の多くの人たちは、まず雑誌や本で知り、後になってから主としてテレビの録画映像で確かめた。
 ユーロ2012は、日本では衛星波のWOWOWが全試合を中継し、地上波でもTBSが主要な試合を放送した。「スペインの時代」は映像で先に知ることができた。
 リアルタイムで世界のサッカーを知ることができる時代になったのは、ありがたい。
 一方、テレビの解説者やアナウンサーの「その場」でのコメントが、十分に検討されないまま「スペインのサッカー」の型にはまったイメージとして定着するのではないかと心配にもなった。


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サッカー日誌 / 2012年07月06日


Jリーグ発足20年


小倉純二前会長の功績補遺
(日本サッカー狂会会報149号)

★23年前の中日の特ダネ
 日本サッカー狂会の会報「FOOTBALL」の149号(2012年7月)が送られてきた。
 「協会」ではない。「狂会」である。サッカー和尚で知られる愛知県の鈴木良韶さんを中心に運営されている日本代表チーム応援団体の草分けだ。会報は手作りの謄写版刷りである。
 今回の会報の表紙にびっくりした。
 1989年(平成元年)1月21日付の「中日スポーツ」の紙面の一部が転載されている。
 「3年後、日本サッカー・プロリーグ誕生」という大見出しである。書きぶりを見ると中日の特ダネ(スクープ)だったらしい。

★JSL活性化委員会の決定
 当時、ぼくは読売新聞の記者だったが、この記事を読んだ記憶がない。運動部(スポーツ部)を離れて、編集委員としてニューヨークに駐在していたときである。
 会報の表紙に掲載されているのは名古屋の「中日スポーツ」の紙面だが、系列の東京中日スポーツと東京新聞にも掲載されたはずである。ニューヨーク支局にも2~3日遅れで東京の新聞が送られてきていたが、慣れない海外勤務で舞い上がっていて読み落としたのだろうか?
 そのころ、主として会社チームで構成されていた「日本リーグ」(JSL)の活性化委員会がプロ化を決めたという記事である。

★小倉純二さんが委員長
 記事によると活性化委員会の委員長は小倉純二さんだった。当時、古河電工のサッカー部長だった。
 日本のサッカーを大きく転換させたときの責任者は、小倉純二さんだったのである。そのことを改めて認識した。
 プロ化の功労者は、もっぱら川淵三郎さんのように思われている。川淵さんが障害を乗り越えてJリーグを創設した突破力は評価すべきだが、功績を一人だけに帰するのは歴史を誤る。
 今回、日本サッカー協会の会長を退いた小倉さんの功績のなかに、プロ化に踏み切ったときの責任者だったことを加えなければならない。


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サッカー日誌 / 2012年07月05日


サッカー協会の新体制(7)


小倉純二前会長の功績

日本サッカー協会評議員会
(6月24日 JFAハウス)

★みごとな適時打を放つ
 日本サッカー協会が大仁新体制に移行するのに当たって、小倉純二前会長の業績を評価しておくべきだろう。
 歴史的な評価は今後、何十年もたってから定まるものだろうが、同時代の視点で、どう見ていたかを書き残して後世の歴史的評価の資料にしたいと思う。
 ぼくの見たところでは、小倉前会長はピンチヒッターとして、みごとに適時打を放ち、追加点をあげるとともに走者を塁に残してチャンスを広げた。
 川淵三郎元会長が強打力で大量点をあげたあと、次の投手が乱調で失点したのをカバーしたといっていい。

★賢明かつ無難な運営
 川淵元会長のあとを継いだ犬飼基昭元会長は功を焦って、自分の考えを性急に打ち出した。
 その一つが、Jリーグ・シーズンの「秋春制」である。Jリーグの管轄である問題をサッカー協会会長の権限で押し付けようとした。サッカー界の仕組みについても、これまでのいきさつについても無智だったとしか思えなかった。
 この問題は小倉前会長に引き継がれた。
 事情を知っている小倉前会長は無理に解決しようとはせずに先送りした。賢明かつ無難である。いろいろな立場と、いろいろな考えがある問題だからである。

★協会の公益法人化
 小倉会長任期中の大きな仕事は、サッカー協会の「公益法人化」だった。公益法人の制度改革でスポーツ団体の対応には難しい問題があった。サッカーは試合の興業収入が大きいので、利益をあげることのできない公益法人への転換は、他のスポーツ団体より問題が多かったと思う。
 主として当時の事務局長が担当したのだろうが、事務局長の能力を生かしたのは会長の器量である。
 FIFA理事としての小倉前会長の功績は非常に大きい。外交面での功績は史上最高である。これだけでも「サッカー殿堂」入りに値する。


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サッカー日誌 / 2012年07月03日


サッカー協会の新体制(6)


専務理事の役割は何か?

日本サッカー協会評議員会
(6月24日 JFAハウス)

★田中事務局長が昇格
 小倉体制のもとで専務理事を兼ねていた田嶋副会長が専務理事をやめて国際担当に専念することになった。専務理事の後任には田中道博事務局長が昇格した。
 新専務理事と個人的な付き合いはない。したがってマスコミの報道以外の知識は持っていない。銀行からサッカー協会事務局に出向してサッカー界に入ったと聞いている。そして川淵元会長の信頼を得て登用されたと聞いている。川淵元会長が三選されるときの裏工作に関係したという記事を読んだことがある。
 そういうことが「専務理事への昇格は川淵元会長の影響力の表れだ」という憶測につながっているかもしれない。

★昇格は筋が違う?
 「専務理事」と「事務局長」の仕事は何なのだろうかと考えた。
 政治の世界にたとえれば、会長は総理大臣、専務理事は「大臣」、事務局長は「事務次官」にあたるのだろうか?
 大臣はふつう国会議員の中から総理大臣が選ぶ。事務次官は各省の官僚(事務職員)が昇進して行きつく。
 省庁のお役人と政治家は、まったく別の系列に属しているから事務次官が大臣に昇格することはない。事務次官は官僚組織のなかでは最高の地位である。
 そういうふうに考えると、事務局長から執行役員の専務理事への「昇格」は筋が違うような気がする。

★専務理事の役割は?
 専務理事は主として国内の問題全般を担当するのだろうか? 国際問題、Jリーグ、天皇杯など個別の分野には、それぞれ担当の副会長や常務理事がいる。それを調整する役割だろうか?
 あるいは事務局長の上に立って事務局を統括するのだろうか? 
 そのあたりが、よく分からない。
 おそらく協会の事務組織も問題を抱えているだろう。肥大化した協会のなかで当初は若手だった職員もベテランの年代になり組織疲労が起きている可能性がある。協会の組織をスリムにし、経費を削減する必要に迫られているのではないだろうか? 
 それは専務理事の守備範囲なのだろうか?


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サッカー日誌 / 2012年07月02日


サッカー協会の新体制(5)


田嶋副会長の国際担当

日本サッカー協会評議員会
(6月24日 JFAハウス)

★将来のための選択
 専務理事兼任だった田嶋幸三副会長は専務理事をやめた。国内の担当を離れて国際問題担当に専念するのだという。
 これは賢明な選択かもしれない。
 第一に、これまで国際問題を一手に扱っていた小倉純二前会長が退いたあとの空白を埋める必要がある。
 第二に、田嶋副会長はまだ54歳である。67歳の大仁副会長を差し置いて新会長をめざさなくても次のチャンスは十分ある。
 第三に、国内では、まだ十分に信頼されているとは言えないのであれば、国際的な舞台で実績を作って実力を認めてもらうのがいい。

★語学力と外交力
 国際問題を担当するには語学力が第一条件である。田嶋副会長は英語とドイツ語を話す。どちらの言葉も話しているのを聞いたことがある。
 ただし、国際舞台で活躍するには語学力だけでは十分ではない。語学力を生かして交渉する能力が必要である。つまり外交力が必要である。
 小倉前会長は、英語がきわめて達者であるだけでなく、誠実な人柄と柔軟な対応によって国際舞台で信頼を得ていた。
 田嶋副会長についての不安は「まじめ」すぎることである。外交は「駆け引き」だから「まじめ」だけでは通用しない。

★まずアジアで信頼を
 もう一つ、あまり大きな声では言えない問題がある。それは、アジアで信頼を得るには個人的な資金力がいることである。
 かつて1970~80年代に藤田静夫サッカー協会会長がアジア・サッカー連盟で大きな信頼を得ていたことがある。
 藤田会長は、それほど語学が達者だとはみえなかった。しかし京都出身で個人的に裕福だった。たとえば外国の役員が来日したとき京都に招いて接待することができた。東南アジアに出かけたときにパーティーを開いて外国の役員と交流することができた。
 それが、いいというつもりではない。しかし、田嶋副会長にとって、まずアジアで地歩を築くことが、まず必要だと思う。


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サッカー日誌 / 2012年07月01日


サッカー協会の新体制(4)


川淵元会長の影響力

日本サッカー協会評議員会 
(6月24日 JFAハウス)

★「ダイニ」会長発言
 日本サッカー協会の大仁邦弥新会長が、就任記者会見でジョークを飛ばした。「私は第2(ダイニ)会長です。ほかに第1会長がいるのでは……」
 自分の名前の大仁(ダイニ)にかけたダジャレである。マトモに取り上げることはないのだが、ヘタをすると誤解を生みかねない発言だった。
 というのは新体制人事に川淵三郎元会長の影響を憶測する向きもあったからである。陰の第1会長は川淵元会長だと取られかない。ただし、今回の新会長選考は小倉前会長が選考委員長で川淵元会長はメンバーではなかった。

★川淵体制は終わるか?
 Jリーグ創設以来、川淵元会長が強力な指導力を発揮してきた。小倉純二会長は古河電工のころからの川淵元会長の仲間だから川淵体制の継続だと思われていたのは不思議でない。 
 新しいことを始めるためには強いリーダーシップが必要である。その点で川淵元会長の功績は大きい。また指導者には優れた協力者が必要である。小倉前会長が川淵元会長の仕事を補完したのも良かったと思う。
 問題は今後である。
 大仁新会長の政権は「川淵体制」の継続なのだろうか? 
 それとも、川淵体制の終わりなのだろうか?

★次の体制への移行期
 2年前、当時の犬飼会長は再選されないで退任した。しかし、名誉会長に推薦されなかった。会長職が1期2年だけだったので名誉会長になれなかったのだと言われていた。そのため川淵前会長が引き続き名誉会長の職に留まった。協会の建物のなかに「名誉会長室」を持ち、影響力を維持した形だった。
 今回、小倉会前会長も1期2年での退任だったが、名誉会長に推された。川淵元会長は「最高顧問」に退いた。その点を見ると「川淵支配」は終わろうとしているように見える。
 大仁政権は川淵体制から次の体制への移行期を担うのではないかと、ぼくは予想している。


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