ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




花重(はなじゅう)商店。台東区谷中7-5。1990(平成2)年2月18日

谷中霊園のほぼ中央を南北に通っている桜並木のメインストリート(中央園路、さくら通り)の南の入口付近に「お茶屋」が5・6軒あるが、そこにある花屋。谷中霊園では墓参りの客にお茶の接待などをするのがお茶屋で、一般に花屋というが、花重は生花店だ。
『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)によると、創業者は国井重三郎といい、1861(文久1)年に谷中初音町の生花問屋・花長の養子になった後、1870(明治3)年に独立開業した。明治7年に谷中霊園が開設されると東京の墓地の花屋を中心に卸商を営む。戦後は小売を主体にするようになった。
店舗は当初は平屋だったが、1877(明治10)年にこれを後ろにずらして現在の店舗を建てた。ぼくの知らない用語もあるが、当書にある建物の特徴を書き写してみると「木造2階建、切妻造・桟瓦葺、平入、2階は階高が低い辻子2階で虫籠窓風の窓。2階軒は出桁、1階正面を奥行が深い下屋庇。これらの造りは江戸の町やの特徴を残している」。2003年に国登録有形文化財に指定された。



三原家(みはらや)、おもだかや。谷中7-5。1990(平成2)年2月18日

花重の北に似たような古い日本家屋のお茶屋が2軒並んでいる。左が「休息所三原家」右が「おもだかや坂本」。『東京都の近代和風建築』では、「三原家、店舗一般住宅、木造2階建瓦葺、-」「おもだかや、店舗一般住宅、木造2階建瓦葺、-」で、建築年は残念ながら不明らしい。
谷根千7号(1986年発行)』に三原家から聞いた話として、家の隠し戸棚から発見した古文書の内容が書いてある。「……広島の三原の西宮社の宮司になっています。その子孫の高尾重一は江戸に出て蔵前で札差を手広く 営み、」というから「三原家」の屋号は先祖の出身地から付けたらしい。また「たまたま安政の大地震〈1855年〉のあと、谷中では潰れた家を見ない、地盤が良いというので、隠居所にでもしようと天王寺から五百坪ばかり譲ってもらった。そこにご維新後、赤坂区役所に勤めていた俊平が父重一と共に、東京府民のための墓地を官民一体となって開くのに尽力しました」とあり、谷中霊園の主みたいな店らしい。
写真右端の煙突は山田ビルの菊の湯。現在は廃業して煙突は取り壊されている。

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