ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:兵舎1、右:屋外の便所。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

土木学会選奨土木遺産>猿島要塞の解説シート』によると、猿島要塞は東京湾防衛の要塞の一つとして築かれた。第1期工事は1881~84(明治14~16)年。横須賀鎮守府が置かれたのが明治17年だから、それに先行して要塞が構築されたわけだ。「戦備完了は1895(明治28)年4月1日」の意味がよく分らないが、「千代ヶ崎砲台」が明治28年の竣工なので、それをもって「戦備完了」としたのかと思う。なお、1894年に始まった日清戦争は、1895年4月17日に講和条約を調印している。
「設計・施工は、陸軍臨時建築署(当時)が担当し、そこで技術主任であった上原勇作陸軍工兵大尉(後元帥)がフランスで築城学を学んできた経緯から、フランス式築城方式が採用された。」とある。軍港に付随する施設なのに陸軍の管轄だった、というのが不思議である。
その後「関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は、一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍。その後、海軍に移管されて高角砲陣地となり、終戦を迎える。」

島の観光コースに従って道なりに上っていくと両側に石垣を築いた「切通し」に入る。その右(東)側に、兵舎1、弾薬庫1、兵舎2、弾薬庫2が並んでいる。兵舎・弾薬庫は、外から見えるのはレンガの壁に入口が付いたもの。要塞の施設は砲撃から守るために地下に造られ、それらの連絡路として切通しを通したのだろう。空から見えないように、としたサイトもあるが、当時飛行機のことは考えていなかったと思う。
弾薬庫1の向かいに便所と思われる小部屋がある。奥に出入り口がないので兵舎ではなく見える部分だけのものらしい。外から出入りできる便所があったほうがいいということで造ったと思われる。



左:弾薬庫2、右:西側施設の便所

弾薬庫はそう大きいものではない。幅は外のレンガ壁の幅くらい、奥行きはレンガ壁の幅の5倍くらいだが、手前は通路でその奥に2部屋だけ。正面左の小さい入口は廊下のもので、廊下から弾薬庫が覗けるらしい。大砲1門ごとに、その下に弾薬庫が造られたかんじだ。弾薬庫2は第2砲台のためのもの。
弾薬庫2の向かいに便所跡がある。壁に出入り口があるので、奥に兵舎かなにかの施設があって、そこの便所らしい。汲取り式だろうから取り出しやすいように外側に設置される。

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