今日は読響マチネの日。
マチネー会員として読響のコンサートを聴くのは、実は来月が最後になる。
「ライヴこそ私のサプリメント。何としても継続して生の音楽に触れたい」と渇望し、6~7年前から年間会員として聴き続けてきたマチネーコンサートだったが、4月からは新たに芸劇名曲コンサートの会員として読響のコンサートを聴くことにした。
理由は単純で、来シーズンのプログラムを見比べて、名曲シリーズの方により強く惹かれたから。
この経緯については、後日もう少し詳しく書かせていただこうと思う。
さて、2月のマエストロはセゲルスタム。
お国もののオール・シベリウス・プログラムというのが嬉しい。
いままでセゲルスタムの演奏で裏切られたことは一度もなかったので、大いに期待して一路芸劇へ。
<日時>2010年2月 6日(土) 14:00開演
<会場>東京芸術劇場
<曲目>
《オール・シベリウス・プログラム》
■交響詩〈フィンランディア〉
■ヴァイオリン協奏曲
■交響曲第1番
<演奏>
■松山 冴花(ヴァイオリン)
■レイフ・セゲルスタム(指揮)
■読売日本交響楽団
ところが行く途中でアクシデント勃発。
埼京線が強風で遅れてしまい、池袋駅に着いたら開演4分前だった。
これはいかんと、慣れないダッシュでホールへ向かい、何とか滑り込みセーフ!
ホールへ繋がるエスカレータが、今日ほど長く感じられたことはなかった。
ほんと、あぶないあぶない。
客席で汗を拭きながら待っていると、セゲルスタムが巨体を揺らしながらステージに登場してきた。
相変わらず大きい。赤い服を着せたら、まさにサンタさんそのものだ。
しかしひとたびタクトを握れば、この人並み外れた巨体が包容力の源に変わるのだから不思議。
フィンランディアの冒頭から、早くもセゲルスタム節が炸裂する。
スケールが大きく、ドラマティックだ。
それでいて荒っぽい感触は皆無。
進む方向性が明快で、太いタッチで描かれた彼の音楽は、やはり際立って大きな安心感を与えてくれる。
2曲目は、松山冴花さんをソリストに迎えてのヴァイオリン協奏曲。
松山さんの演奏を聴くのは初めてだったが、第1楽章冒頭の弱音部の表情が独特だった。
儚さとか強いメッセージ性は感じられない。
その代わり、まったく重量がないようなふわっとした感触でフレーズが紡ぎだされる。
まるで空間にメロディが浮かんでいるようだった。
その後、徐々に輪郭がはっきりしてきて、実在感を増した表現に変わっていく。
そのさまは、まさに圧巻。
ライトのせいかチューニングに苦労していたようだが、私は大変充実した演奏だと感じた。
また、演奏とはまったく関係ないが、以前彼女の書いたブログが実に面白いので、興味のある方は是非読んでみてください。
とくにピアスのことを書いたエントリーは抱腹絶倒です。
休憩をはさんで、この日のメインは交響曲第1番。
これがまた良かった。
雄大なスケールと抒情美あふれる歌に圧倒される。
見たこともないフィンランドの情景が、まざまざとステージ上に描き出されているような気がした。
少し話がそれるが、昨年末に開催された「M1グランプリ」で「笑い飯」が「鳥人(とりじん)」というネタを披露した。
もう最高に面白い出来で、島田紳介さんが100点を出して話題になったのだけど、私はオール阪神巨人の巨人師匠の評が忘れられない。
「何度見ても本当に素晴らしい。普通は回数を重ねると球も遅く感じるものだけど、このネタは逆だ。いつでも鮮明に情景が浮かんでくるんですよね」と。
そう、情景(=イメージ)をはっきりと表現するすることは、かくも重要なのです。
それからセゲルスタムは、この交響曲第1番について、次のように語っている。
『交響曲第1番では、「シーベリウス」と聞こえるクラリネットソロで始まっています。シベリウスの母国語であるスウェーデン語では、リウスには光という意味があり、シーベは半音を意味します。ですから、ちょっと冗談めかして言えば、「さて、今から半音を使っていかに陰影をつけられるか、ひとつやってみせましょう」と言っているように思えるのです。』
なかなか含蓄のある説明でしょ。
私は大いに納得してこの日の演奏を聴いたのです。
すると、確かに「シーベ・リウス」と聴こえてくるじゃありませんか。
しかし、その後登場するフレーズも「シー、ベリベリベリ・・・」と聴こえてくるし、第2楽章も「もういくつ寝ると、シベリウス」と聴こえてくる。
終楽章もまったく同じ。
もう40分間、ステージ・ホールを問わず、「シーベリウス」だらけじゃないか。
サンタ・セゲルスタムさん、ほんとに貴方は殺生なことを教えてくれました。
これから私はこの曲を聴くときに、絶対「シーベリウス」の呪縛から逃れられなくなってしまったじゃないですか。
夢の中にまで「シーべリウス」が出てきたら、いったいどうしてくれるの?
マチネー会員として読響のコンサートを聴くのは、実は来月が最後になる。
「ライヴこそ私のサプリメント。何としても継続して生の音楽に触れたい」と渇望し、6~7年前から年間会員として聴き続けてきたマチネーコンサートだったが、4月からは新たに芸劇名曲コンサートの会員として読響のコンサートを聴くことにした。
理由は単純で、来シーズンのプログラムを見比べて、名曲シリーズの方により強く惹かれたから。
この経緯については、後日もう少し詳しく書かせていただこうと思う。
さて、2月のマエストロはセゲルスタム。
お国もののオール・シベリウス・プログラムというのが嬉しい。
いままでセゲルスタムの演奏で裏切られたことは一度もなかったので、大いに期待して一路芸劇へ。
<日時>2010年2月 6日(土) 14:00開演
<会場>東京芸術劇場
<曲目>
《オール・シベリウス・プログラム》
■交響詩〈フィンランディア〉
■ヴァイオリン協奏曲
■交響曲第1番
<演奏>
■松山 冴花(ヴァイオリン)
■レイフ・セゲルスタム(指揮)
■読売日本交響楽団
ところが行く途中でアクシデント勃発。
埼京線が強風で遅れてしまい、池袋駅に着いたら開演4分前だった。
これはいかんと、慣れないダッシュでホールへ向かい、何とか滑り込みセーフ!
ホールへ繋がるエスカレータが、今日ほど長く感じられたことはなかった。
ほんと、あぶないあぶない。
客席で汗を拭きながら待っていると、セゲルスタムが巨体を揺らしながらステージに登場してきた。
相変わらず大きい。赤い服を着せたら、まさにサンタさんそのものだ。
しかしひとたびタクトを握れば、この人並み外れた巨体が包容力の源に変わるのだから不思議。
フィンランディアの冒頭から、早くもセゲルスタム節が炸裂する。
スケールが大きく、ドラマティックだ。
それでいて荒っぽい感触は皆無。
進む方向性が明快で、太いタッチで描かれた彼の音楽は、やはり際立って大きな安心感を与えてくれる。
2曲目は、松山冴花さんをソリストに迎えてのヴァイオリン協奏曲。
松山さんの演奏を聴くのは初めてだったが、第1楽章冒頭の弱音部の表情が独特だった。
儚さとか強いメッセージ性は感じられない。
その代わり、まったく重量がないようなふわっとした感触でフレーズが紡ぎだされる。
まるで空間にメロディが浮かんでいるようだった。
その後、徐々に輪郭がはっきりしてきて、実在感を増した表現に変わっていく。
そのさまは、まさに圧巻。
ライトのせいかチューニングに苦労していたようだが、私は大変充実した演奏だと感じた。
また、演奏とはまったく関係ないが、以前彼女の書いたブログが実に面白いので、興味のある方は是非読んでみてください。
とくにピアスのことを書いたエントリーは抱腹絶倒です。
休憩をはさんで、この日のメインは交響曲第1番。
これがまた良かった。
雄大なスケールと抒情美あふれる歌に圧倒される。
見たこともないフィンランドの情景が、まざまざとステージ上に描き出されているような気がした。
少し話がそれるが、昨年末に開催された「M1グランプリ」で「笑い飯」が「鳥人(とりじん)」というネタを披露した。
もう最高に面白い出来で、島田紳介さんが100点を出して話題になったのだけど、私はオール阪神巨人の巨人師匠の評が忘れられない。
「何度見ても本当に素晴らしい。普通は回数を重ねると球も遅く感じるものだけど、このネタは逆だ。いつでも鮮明に情景が浮かんでくるんですよね」と。
そう、情景(=イメージ)をはっきりと表現するすることは、かくも重要なのです。
それからセゲルスタムは、この交響曲第1番について、次のように語っている。
『交響曲第1番では、「シーベリウス」と聞こえるクラリネットソロで始まっています。シベリウスの母国語であるスウェーデン語では、リウスには光という意味があり、シーベは半音を意味します。ですから、ちょっと冗談めかして言えば、「さて、今から半音を使っていかに陰影をつけられるか、ひとつやってみせましょう」と言っているように思えるのです。』
なかなか含蓄のある説明でしょ。
私は大いに納得してこの日の演奏を聴いたのです。
すると、確かに「シーベ・リウス」と聴こえてくるじゃありませんか。
しかし、その後登場するフレーズも「シー、ベリベリベリ・・・」と聴こえてくるし、第2楽章も「もういくつ寝ると、シベリウス」と聴こえてくる。
終楽章もまったく同じ。
もう40分間、ステージ・ホールを問わず、「シーベリウス」だらけじゃないか。
サンタ・セゲルスタムさん、ほんとに貴方は殺生なことを教えてくれました。
これから私はこの曲を聴くときに、絶対「シーベリウス」の呪縛から逃れられなくなってしまったじゃないですか。
夢の中にまで「シーべリウス」が出てきたら、いったいどうしてくれるの?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます