ブロムシュテットのブルックナーの8番。
しかもオーケストラは、かつてマタチッチとブルックナーの名盤を残しているチェコフィル。
「これは今しか聴けないかもしれないかも・・・」という思いもあって、昨日サントリーホールへ行ってきた。
席は普段あまり座らないLC席。
今回は1列目ということもあって、視界的にも音響的にも申し分ない。
さて、肝心の演奏。
フィナーレが終わって(正確に書くと、指揮棒が静止したのをみて一度拍手が起こったのだけど、ブロムシュテットがそれを制して暫し沈黙の時間があったあと)場内は大きなブラヴォーと熱狂的な歓声に包まれた。
確かに熱演だった。
凄い迫力だった。
隣に座っておられた女性お二人も、「いい演奏でしたね。こんな素晴らしいブルックナーを聴けて心から感動ました。」と興奮しながら会話されていたので、間違いなく心のこもった演奏であったのだろう。
そんな中で、その光景を意外なくらい冷静な感覚でみている自分がいた。
人一倍感激屋の私が、終演後こんなに冷静になっていることはあまりない。
その差の大きさに、一日経った今でもいささか戸惑っている。
<日時>2009年11月23日 (月) 19:00 開演
<会場>サントリーホール
<曲目>
■ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調
<演奏>
■指 揮:ヘルベルト・ブロムシュテット
■管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
考えていくと原因はいくつかある。
第1楽章。
地の底から響くような運命の動機は、どこか不気味さを感じさせてくれる。
しかし、聴き進むにしたがって、音がいや響きが澄んでいないことが気になり出した。
はっきり言うと、ほとんどの和音が団子に聴こえるのだ。
音はとても大きく太いけど、いささか粗い。
第2楽章も基本は全く同じ。
ただ、第3楽章アダージョの冒頭は実に美しかった。
ノン・ヴィブラート気味に弾かれるファーストヴァイオリンの旋律がいじらしいくらいにピュアだ。
しかし、次第に音が大きくなるにつれて、和音が明晰さを欠いてくる。
ただ、最後のほうのクライマックスの描き方と、直後のsehr markig(きわめて力強く)の毅然とした表情は本当に素晴らしかった。
続くフィナーレは、勇壮さは申し分ない。
その意味でも最も安心して聴けた楽章だったが、最後のコーダにきて、やはり気になっていたことが現実のものとなってしまった。
ここでは、すべての主題が立体的に響かなければならないが、それこそ「全身を耳のようにして」聴いたにもかかわらず、声部が明瞭に聴きとれない・・・。
このもどかしさは、なかなか分かっていただけないかもしれないが、最後にきて「ああ、やっぱり」と感じたことは事実だ。
もちろん私の耳が至らないことも十分承知しているが、私が音楽で最も大切にしている要素の一つである「透明さ」という面において、いささか残念な思いがぬぐえない。
一般的に、ブロムシュテットの演奏スタイルは端正・流麗という言葉で語られることが多いが、ひょっとすると違うのではないだろうか。
実はかなり細かくテンポや表情を変化させながら音楽を作っていくタイプのマエストロだと私は感じている。
それが恣意的な印象を与えないところこそ、ブロムシュテットのブロムシュテットたる所以であって、彼の人間性や音楽家としての器の大きさがそうさせているのだと思う。
その意味で、この日は、ブロムシュテットの意図に敏感に反応する奏者とそうでない奏者にはっきり分かれていた。
客演指揮者という立場からは仕方がないともいえるが、それがアンサンブルの乱れに繋がり、テクスチュアの明晰さを欠く一番の原因だったように思う。
ここまでネガティブなことばかり書いてきたが、もちろん凡庸な演奏だったわけではない。
それだけ私の期待が大きかったのだとご理解ください。
80歳をゆうに超えていながら、なお背筋のピンと伸びた姿勢でブルックナーの大曲を暗譜で最後まで振ってくれたマエストロの姿をみて、私は感無量だった。
思えばもう30年近く前の話になるが、ブロムシュテットがドレスデン・シュターツカペレを率いて来日したときに、大阪のフェスティバルホールで聴いた「ジュピター」の精妙で気品のある演奏が今も忘れられない。
やはり、ブロムシュテットにとって最も相性のよかったオケは、ドレスデン・シュターツカペレだったのではないだろうか。
もう一度シュターツ・カペレと組んで、モーツァルトやブラームス、そしてリヒャルト・シュトラウスを聴かせてほしい。
もはや叶わぬ夢かもしれないが・・・。
しかもオーケストラは、かつてマタチッチとブルックナーの名盤を残しているチェコフィル。
「これは今しか聴けないかもしれないかも・・・」という思いもあって、昨日サントリーホールへ行ってきた。
席は普段あまり座らないLC席。
今回は1列目ということもあって、視界的にも音響的にも申し分ない。
さて、肝心の演奏。
フィナーレが終わって(正確に書くと、指揮棒が静止したのをみて一度拍手が起こったのだけど、ブロムシュテットがそれを制して暫し沈黙の時間があったあと)場内は大きなブラヴォーと熱狂的な歓声に包まれた。
確かに熱演だった。
凄い迫力だった。
隣に座っておられた女性お二人も、「いい演奏でしたね。こんな素晴らしいブルックナーを聴けて心から感動ました。」と興奮しながら会話されていたので、間違いなく心のこもった演奏であったのだろう。
そんな中で、その光景を意外なくらい冷静な感覚でみている自分がいた。
人一倍感激屋の私が、終演後こんなに冷静になっていることはあまりない。
その差の大きさに、一日経った今でもいささか戸惑っている。
<日時>2009年11月23日 (月) 19:00 開演
<会場>サントリーホール
<曲目>
■ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調
<演奏>
■指 揮:ヘルベルト・ブロムシュテット
■管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
考えていくと原因はいくつかある。
第1楽章。
地の底から響くような運命の動機は、どこか不気味さを感じさせてくれる。
しかし、聴き進むにしたがって、音がいや響きが澄んでいないことが気になり出した。
はっきり言うと、ほとんどの和音が団子に聴こえるのだ。
音はとても大きく太いけど、いささか粗い。
第2楽章も基本は全く同じ。
ただ、第3楽章アダージョの冒頭は実に美しかった。
ノン・ヴィブラート気味に弾かれるファーストヴァイオリンの旋律がいじらしいくらいにピュアだ。
しかし、次第に音が大きくなるにつれて、和音が明晰さを欠いてくる。
ただ、最後のほうのクライマックスの描き方と、直後のsehr markig(きわめて力強く)の毅然とした表情は本当に素晴らしかった。
続くフィナーレは、勇壮さは申し分ない。
その意味でも最も安心して聴けた楽章だったが、最後のコーダにきて、やはり気になっていたことが現実のものとなってしまった。
ここでは、すべての主題が立体的に響かなければならないが、それこそ「全身を耳のようにして」聴いたにもかかわらず、声部が明瞭に聴きとれない・・・。
このもどかしさは、なかなか分かっていただけないかもしれないが、最後にきて「ああ、やっぱり」と感じたことは事実だ。
もちろん私の耳が至らないことも十分承知しているが、私が音楽で最も大切にしている要素の一つである「透明さ」という面において、いささか残念な思いがぬぐえない。
一般的に、ブロムシュテットの演奏スタイルは端正・流麗という言葉で語られることが多いが、ひょっとすると違うのではないだろうか。
実はかなり細かくテンポや表情を変化させながら音楽を作っていくタイプのマエストロだと私は感じている。
それが恣意的な印象を与えないところこそ、ブロムシュテットのブロムシュテットたる所以であって、彼の人間性や音楽家としての器の大きさがそうさせているのだと思う。
その意味で、この日は、ブロムシュテットの意図に敏感に反応する奏者とそうでない奏者にはっきり分かれていた。
客演指揮者という立場からは仕方がないともいえるが、それがアンサンブルの乱れに繋がり、テクスチュアの明晰さを欠く一番の原因だったように思う。
ここまでネガティブなことばかり書いてきたが、もちろん凡庸な演奏だったわけではない。
それだけ私の期待が大きかったのだとご理解ください。
80歳をゆうに超えていながら、なお背筋のピンと伸びた姿勢でブルックナーの大曲を暗譜で最後まで振ってくれたマエストロの姿をみて、私は感無量だった。
思えばもう30年近く前の話になるが、ブロムシュテットがドレスデン・シュターツカペレを率いて来日したときに、大阪のフェスティバルホールで聴いた「ジュピター」の精妙で気品のある演奏が今も忘れられない。
やはり、ブロムシュテットにとって最も相性のよかったオケは、ドレスデン・シュターツカペレだったのではないだろうか。
もう一度シュターツ・カペレと組んで、モーツァルトやブラームス、そしてリヒャルト・シュトラウスを聴かせてほしい。
もはや叶わぬ夢かもしれないが・・・。
コンサートホールや映画館で感動…の場合、ほかスポーツやフィギュアスケート、バレエ…演劇の舞台。
自宅で1人の鑑賞ならば号泣レベルでしたら?
周囲の皆様への配慮と常識的行動の維持に努めておりますと…私は『感激!』…の、我慢が大変です。
しかし、確かにすばらしいシーンや音楽ならば演奏や作品で、本当にすばらしかった瞬間なのが、…頭では理解出来たのだけれども…?なぜだか分かりませんが、感激なのですが、心の底からの感激?ではない様な?時…って?とバイオリンの先生に以前わたくし質問しました…
『説明が難しい感想は珍しいことではありません。』…以後わたくしは、感想が難しい時にそう述べていますが、考えていたら、ここがこうです。と言った箇所はありましたり?でも感激したり、バランスがとれすぎても人工的?になるのかなぁ…?芸術とは『感性。感覚』なのかしら…と思ってみたりの昨今です。
お恥ずかしい私はレッスンの半分は雑談と音楽のあれこれを先生と語り?…先生は『エルザさんてストレスないでしょう?アハハ楽しかったです。さて音を合わせましょう』…
オーケストラを最近わたくしコンサートホールで拝聴しておりません次第です。来年そしてこれからは交響曲をオーケストラを生の演奏を…と思います。
追伸…ブレンデルのアルバム良かったです。人生の美学を彼の哲学と音色から学んだ様に今、思っています。
個人的にはマタチッチ、ヨッフム、朝比奈に劣らない名演だと思いました。
いつもコメントいただき本当にありがとうございます。
生のコンサートって、ある意味でリスクの塊ですよね。
演奏ももちろんですが、演奏中のあらゆるノイズやマナー違反の拍手・ブラヴォー、みんなが息をひそめている最中に響きわたる携帯の呼び出し音等々。
でも私がコンサート通いをやめられないのは、生でしか絶対に味わえない「ホールの空気を通して演奏者から発信されるメッセージ」を受け取ることができるからなんです。
この日のブルックナーも、実はしっかりとそのメッセージを受けとってはいたのですが、やはり期待が大きすぎたのかもしれません。
>ブレンデルのアルバム良かったです。人生の美学を彼の哲学と音色から学んだ様に今、思っています
ほんとにそうですね。私もブレンデルのシューベルトをここ数日良く聴いています。
素晴らしい音楽家だと、聴くたびに思い知らされます。
大阪では、新世界とブラ1だったのですね。
>82歳とは思えないブロムシュテットの凄まじいエネルギーを感じました。
いやー、全く同感です。彼独特の指揮姿(とくに両手を胸の位置から斜め上に上げるような動作)が何度も見れて、もうそれだけで嬉しくなってしまいました(笑)
ただ、聴きながら、ブルックナーはやはり手強いと改めて痛感しました。同じスタイルでマーラーをやったら、もっともっと大きな感動を覚えたと思うのです。
ブルックナーにはやはり一種茫洋とした広さ・奥の深さと、相矛盾するようですが「透明感」が必要なんですね。
CDにもなっているドレスデンシュターツカペレとの4番・7番や、ゲヴァントハウスとのお別れ演奏会での8番は本当に素晴らしかったので、ひょっとするとオーケストラとの相性の問題のようにも感じました。
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、サントリーホールとの相性もあったのかもしれませんね。
ただ、1週間前に同じサントリーホールで聴いたヤンソンスは、バランスに配慮しながら入念に表情を作りつつ、本当のクライマックスまでバイエルンのブラスを爆発させなかったし、シャイーもゲヴァントハウスのオケから団子にならない輝きを持った響きを引き出していたので、やはりブロムシュテットとオケの相性の問題のようにも思えます。
あと多くの人がチェコフィルの弦楽器の音色を称賛しておられましたが、私には正直首を傾げるばかりです。
ウィーンフィルやドレスデンのときは、ここサントリーホールでも、それこそ身体じゅうが痺れるような感覚を味わいました。
これは、ひょっとすると私とチェコフィルの相性の問題なのかもしれないと、たった今考え始めたところです。
私事で申し訳ございません。チェコのバイオリンを弾いていた時期があります。
最初数回楽器店様にて試し弾きを重ね、音色や楽器の安定性、外観としてニスの光沢感、色、ネックや雰囲気全てが珍しい楽器でした。
新しい楽器でレッスンに行くと、私の先生は国外でも演奏活動をされていらっしゃいまして、
私エルザは…『音楽は完全な趣味』をご理解の上レッスンして下さいます。毎日必ず音階をこれだけ課題、次レッスン用の曲、数年間かけて弾いて行く曲…が理想だとは思いますが『弾きたい曲にしましょうよ?』というタイプの先生なので楽しいレッスンが継続です。
相当な楽器をご存知の先生が『この楽器、音が違います。同じ技術で音色がこれだけ違う楽器?…』
しばらくは楽器の調子はよく、練習の意欲は向上、楽器がチェコ製となりますとチェコの音楽……と至りました。
その後…
チェコの楽器を弾くと、疲れや痛みが生じ始めました。日本のスズキバイオリン(幼少時の分数サイズから買い換えで殆んどのレッスン生の通過するコースでした。今は4/4の大人サイズから外国製のかた多数だとは思います。スズキバイオリンはオーダーではないですが、アウトフィット(弓とケースのセット販売)が当時はなくて、単品のシールが楽器の中にあります。
このスズキバイオリンでは、練習あとに肩や首、顎に疲れや痛みは全く出ません…
チェコ製はなぜ?
音も籠もる様になりました。
チェコも弦楽器の国です。…が?当時たまたまチェコに留学して帰国、それまでの概念が…チェコにて…目から鱗でした。という先生とお話する機会があり驚きました!
バッハを、カジュアルに?あなた流に弾きなさいと言われて?…バロックを私流?室内を確か、歩きながら?弾くレッスンをなさったり?それがずっと二時間位?
違う先生でしたが、長年の私の先生とスタイルも考え方も違いました。
チェコの音楽は素晴らしい。弦楽器の国でもあり、チェコにいましたという先生は、チェコにいたら身近に普段に皆様がチェコフィルを良心的価格で聴ける日常…
素晴らしい環境の国…チェコだと思います。
バイオリンも調子が悪くなり?…
楽器の調子だけならまだしも…痛みが?肩当てでも調節不可能
弦を張り替えるとすぐにダメ、1日で消耗…
買い換えを悩み考えて、大切に弾いて下さるかたに…と違う条件にて楽器店様にお願いしました。
今そのチェコの楽器は音大志望生のかたが弾いて下さっています。
いつも調子いいです。チェコの音楽も開眼しました…そのかたより。
結局、好みとか、その国特有の雰囲気もありますが『相性』もある。と、気付きました。
私の個人的感想ですが、チェコの弦楽器の音色、
…とても美しく澄んでいますが、なぜだか交響曲により濁る様な?時…ならびに、弦楽器の高音域が人工的?と表現したい様に感じたりします?
クライスラーの曲は音の安定性を保ちつつ深い低音域の音色を表現し、曲調を出してハイポジション…クライスラーはバイオリニストで作曲家…交響曲とはまた異なりますが…
要は相性…
コンサートホールの音響や、その時の観客のかたのマナーやエチケットも影響は大きいと思います。
生のコンサートの感動は素晴らしいです。
躍動感…オーケストラの皆様の一眼となり一曲に向かっている姿…そして指揮者のかたの曲に込める魂…
相性は影響があると思います。
それもまた音楽の魅力かもしれないと思います。
大変な長文、申し訳ございませんでした。
チェコ製のヴァイオリンのお話、なるほどと思いながら、とても興味深く拝読させていただきました。
たしかに、チェコは弦楽器の国なんですよね。
名人もたくさん輩出していますし・・・。
実は本文でちらりと触れたロブロ・フォン・マタチッチがチェコフィルと組んだブルックナー(5番・7番・9番)は、私の愛聴盤なんです。
少々豪快すぎると感じる部分もありますが、響きが「黒光りする」ような魅力があったのです。
それがサントリーホールで聴いた先日の演奏では感じられなかった。
それが指揮者とオケの相性なのか、オケと私の相性なのか、それともホールを含めたトライアングル的な相性なのか、これがいまだにわかりません。
ただ、サントリーホールの音は世界一じゃないかとひそかに思っていますので、私とホールの相性ではないと思います。
今後、別のコンサートをサントリーホールで聴いていくうちに、ある日突然何か閃くかもしれません(笑)
でもいい勉強になっています。
いつもありがとうございます。
私の言いたかったことを、ずばり言い当てていただいたような気がします。
ブロムシュテットの今回のコンサートは、「聴き逃したら一生後悔するかも・・・」というある種の予感があって聴きに行きました。
本文にも書きましたが、もちろん標準以上の演奏だったのですが、何かが足りなかった。
そのうちのひとつは明らかに「透明感」なのですが、透明感が多少希薄であったとしても、それを突き抜けるような何かがあればきっと感動したと思うのです。
ライヴ特有の何かが・・・。
残念ながら、今回は私にとってその「何か」が感じられなかったという気がします。聴くところによると、今回のコンサートは賛否が大きく分かれたようです。
音楽は難しいですね。そして本当に深いです。