先般、私のうちの近くの廃屋やもはや使われないままに打ち捨てられた農機具などについて書いた。こうした廃屋や廃車など「廃された」ものへの哀れ(古語でいえば「あはれ」。ただし、「枕草子」などでみるように、古語のほうが「しみじみとした」情感一般を指していて、その用途が広いようだ)の感情はなぜ起こるのだろうか。
さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。
ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。
物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。
廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。
しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
https:/ /www.yo utube.c om/watc h?v=DQA stpXLkm E
https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g
この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。
私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。
「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。
*全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。
その写真は以下です。
さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。
ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。
物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。
廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。
しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
https:/
https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g
この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。
私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。
「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。
*全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。
その写真は以下です。