ハッと目覚めたときには楽曲が終わったところだった。というか、斜め前のオジさんが「ブラボー!」と叫ぶ声で目覚めたのだった。
イビキでもかいていなかったろうかと気になって隣の席などを窺ったが、終わった楽曲に対しての拍手にみなが懸命でよくわからない。
ピアニストは若い男性であるが、ユジャ・ワンなみの深いスリットのはいった柿色のドレス姿で、両性具有の妖しい魅力を振りまいていた。
好きなシューマンの「幻想曲」をちゃんと聴くことができなかったのは悔しいが、自業自得と悟り、拍手に加わるのであった。
例によって、2,3度楽屋との往復があって、アンコールが始まろうとしていた。
そのとき、奇妙なことに気づいた。ピアノが青色に、正確に言うとマリー・ローランサン風のパステルカラーのブルーに見えるのだ。照明の加減かと思ったがそんなことはない。白いピアノならいざしらず、黒いピアノが照明であんな色を放つことは決してないはずだ。
曲が始まった。
モーツァルトだ。「ロンドイ短調 K11」。
小品だが、彼の天才ぶりがわかるような名曲だ。
https://www.youtube.com/watch?v=BV6oyyC4jwA
ロンドイ短調 K11 【広告はスキップして下さい】
これを聴いただけで居眠りをした分が取り返せたように思った。
しかし、拍手は鳴り止まず、さらにアンコールは続くようだった。
彼は、そのスリットの切れ目から、白い脚をのぞかせてピアノの前で居住まいを正した。
そのとき、私はまたもや奇異な感に因われていた。
今度はピアノがやはりパステルカラーの紅色に輝いているのだ。
「レインボウ・ピアノ」そんな言葉が頭をかすめた。
アンコール2曲目の演奏が始まった。ン?これは? それは普通、クラシックのコンサートで演奏されるものとはいささか異色であった。
ジャズの名曲、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」が鳴り響いたたのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=AHYEviiwfUU&list=PLRa5LDsUgugZkj7-zzp_NbR-Pl3_zco10
バド・パウエル「クレオパトラの夢」 秋吉敏子バージョン
レインボーピアノと異色のアンコール曲、それらと距離を置こうと目を閉じた。ちょっと居眠りをしていた間に、異次元の世界へと紛れ込んだのかもしれない。そう思った。
閉じたまなこの裏に、さみしげな田舎道がゆらゆらと地平線の彼方まで続いていた。誰かが耳元で囁いていた。
「お前はあの道を行かねばならない」
「どこまで?」
「お前の行くという行為がその行き先を指し示すはずだ」
田舎道を行く人の背中が揺れながら進んでいた。それが私なのか、それとも別の誰かなのかわからなかったし、それはもうどうでもいいことだった。
斜め前のオジさんが「ブラボー!」と叫び、拍手の渦が巻き起こっていた。アンコールの2曲目が終わったようだ。
しかし、今度はもう目を開けまいと思った。
(「夢六話」より 其之四)
*シューマン 幻想曲 ハ長調 op.17
https://www.youtube.com/watch?v=oKv-gRyQVo8