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信州上田は別所温泉 山本宣治ほかの活動家記念碑

2018-06-16 01:37:03 | 歴史を考える
 先月の信州の旅で載せていなかった情報などについてである。
 かつて信州はいわゆる「左翼」の強い土地であった。ここでかつてというのは、戦前、戦中、そして戦後の一時期までのことである。
 その一つの源流は、戦前の地主と小作という農業生産のあり方の中で、一方的に搾り取られていた小作人の農民運動にあった。その中から、タカクラ・テルや山本宣治などの活動家を輩出した。
 真田の隠し湯といわれる別所温泉の一角に、彼らに関する記念碑が建立されている。

             

 詳しくは後掲の記念碑についての説明に譲るが、山本宣治は、1929年3月1日、労農党代議士として、この地で1,000人を超える聴衆を前に講演をし、その足ですでに悪名高い弾圧法として機能していた治安維持法のさらなる改悪に、ひとり立ち向かうため上京した3月5日、右翼テロリストの凶刃に倒れた。

          

 タカクラ・テルはその治安維持法によって逮捕され、1945年の敗戦によりその10月に釈放され、共産党の代議士などになるも、今度は、マッカーサーの司令による公職追放となり、徳田球一などとともに北京に亡命、さらにソ連などを転々としたあと、1959年に帰国、政治家として、また文学者として、さらには国語国字改革などの活動に取り組む。
 ただし、晩年は、日本共産党の方針転換などによってしだいに閑職へと追いやられ、この党によってひところもてはやされた国語国字改革運動も誤りとして批判の対象とされることとなった。

          

 斎藤房雄は私の調べた限りではとくに華々しい活動歴はでてこなかったが、彼は、老舗温泉旅館の当主であり、タカクラに住居を貸していた家主でもあったから、山本も含めた当時の活動家の心強い支援者だったと思う。
 すでに戦前に建てられていた山本宣治の記念碑については、警察当局からその撤去を命じられた際、自宅の庭に埋めてそれを守り通したという。
 
 戦後、それを掘り起こして38年間ぶりに再建されたのがこの碑で、その上部にある「VITA BREVIS SCIENTIA LONGA」は山本の座右の銘であった、「生命は短し、科学は長し」というラテン語だという。生物学者でもあった彼の一面を示すものであろう。

 斎藤房雄の碑は、その内容からして、辞世の歌ではないかと思われる。
 タカクラ・テルのそれは自筆によるものという。

          

 最後に掲げる寺と花の写真は、山本宣治らの石碑近くの古刹・安楽寺とその境内で今まさに開きそうな芍薬の花である。もって、山本宣治以下、治安維持法などによる戦前の弾圧の犠牲者、活動家、文学者、俳人などの表現者諸兄姉への献花としたい。

          

 私が、金子兜太氏最後の揮毫という「俳句弾圧不忘の碑」と金子氏の弟子、マブソン青眼さんと会ったのはその翌日のことだった。これもなにかの因縁だと思っている。

             

*以下は記念碑に添えられた説明である。

          

■山本宣治 高倉・テル 齋藤房雄 記念碑について■

 昭和初期の大恐慌の中、上小(上田・小県)農民組合連合会が結成され、小作料値下げ、土地取り上げ反対などの運動に立ち上がった。
 これより前、上田自由大学の講師として別所に在住していたタカクラ・テル(高知県出身、文学者、日本共産党衆・参議員)は、農民運動・民主主義と社会進歩の運動に指導的役割を果たした。
 1929年(昭和4年)3月1日、上小農民組合連合会は第2回総会にタカクラの義兄弟にあたる山本宣治(京都府出身、生物学者、労農党代議士)を招く。この記念講演は1千名を超える聴衆に深い感動を与えた。
 この講演から4日後の3月5日、山宣は治安維持法改悪承認の議会にただ一人反対演説をすべく上京したが、その夜、右翼によって暗殺された。
 上小農民組合は山宣の死を悼み、追悼大会の決議により抗議の記念碑を翌年5月1日(メーデー)にタカクラの借家の庭に建立した。
 1933年2月、治安維持法による県下最大の弾圧事件であった「二・四事件」でタクラ・テルは逮捕、家族は県外追放となった。
 警察は家主の齋藤房雄に、碑の取り壊しを命じてきたが、氏は碑を密かに自宅(旅館柏屋別荘)の庭に埋め、38年間守り通した。
 戦後、この碑の再建委員会を結成、多くの協力者を得て1971年10月、碑はこの地に再建された。
 碑の前面に彫られたラテン語は、山宣座右の銘「生命は短し科学は長し」の意である。なお、碑面の文字はタカクラの筆である。
 タカクラ・テルは1986年4月に亡くなり、記念碑は1988年10月、山宣の碑に並べて建立された。齋藤房雄記念碑は2006年、山宣碑再建35周年記念事業で建立した。

                           長野山宣会

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4 コメント

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山宣 (漂着者)
2018-06-18 11:54:13

学生時代の先輩が山本宣治に心酔していました。
彼の名言もいくつか聞かされました。
それにしても六文さんは、渋いところへ行かれますね。

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六文銭のふるさと (六文銭)
2018-06-18 14:04:19
 「山宣」という略称、懐かしいです。文中で使おうかと思ったのですが、わかいひとにはわからないだろうなぁと思ってやめました。
 私も若い頃、先輩から山宣名語録を聞いています。
「山宣一人孤塁を守る。だが、私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・・」
 というのは墓碑銘のようですね。
 「渋いところ」というのは、あの辺りは私のハンドルネームにしている「六文銭」の故郷だからです。
 別所温泉や上田城、そしてその周辺は、なんやかんやで三度ほど行っています。その名前の店で長年食わせていただいたお礼参りです。
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真田一族の (漂着者)
2018-06-18 17:40:19

真田一族の拠点ですよね。
だからお礼参りと。
失礼しました、認識不足でした。

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そうなんです。 (六文銭)
2018-06-18 23:26:57
>漂着者さん
 ガキの頃、講談本で真田幸村や真田十勇士に胸踊らせていたのと、六文銭が仏教で言うところの六道の衆生にすべからく幸をというシンボルマーク(お棺に六文銭を入れるのは、「次の世で、六道のどこに生まれ変わっても幸あれ」という祈りだそうです)だということから、店名を「炉端酒房 六文銭」にしました。
 もっとも、「六道の衆生」の話は、抹香臭くなるのであまり公表しませんでしたが。
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