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神の視座からの殺戮 映画「アイ・イン・ザ・スカイ」を観て思うこと

2017-01-29 00:39:35 | 映画評論
 とても良くできた映画だと思う。演出にそつはなく最後まで画面に釘付けにされるし、起承転結は明確だし、テンポにも狂いはない。にもかかわらず、観終わったあとになんともいえぬ不快感、違和感がオリのように残る。
 急いで付け加えねばならないが、そうした残る思いのゆえにこの映画は失敗しているといおうとしているわけではない。むしろ、その不快感、違和感をちゃんと残したがゆえに、この映画はその辺の軍事サスペンスを超えているとは(ひとまず)いえる。

 そう、映画はいわゆる軍事サスペンスのジャンルに属するであろう。そのサスペンスは終盤に至りある結末へといたり、それまで強いられていた緊張から観客は解き放たれる。
 一般的にいって、この種のサスペンスではそうした形で、観客はある種のカタルシスを味わう。しかし、この映画ではそうではない。
 映画のなかで構想されていた敵の殲滅という意味ではそれは完膚なきまでに遂行された。まだうごめく敵へのダメ押しまでも含めて。
 しかし、その任務遂行に当たってのもうひとつの懸念については、それを完全に払拭することはできなかった。作戦実行のために、その条件が課したハードルを強引に引き下げるという恣意的な作業を行ったがゆえに。

             

 ここで、多少のネタバレは覚悟で映画の状況を概説しておこう。
 ケニアの首都ナイロビのある家屋で、東アフリカでNo.4、No.5を含むテロリストたちが集まり、今や自爆テロの準備がなされつつある。それを何千メートル上空の無人軍用機(グローバルホーク型のドローンか)と地上の工作員が操るハチドリやコガネムシ型の小型ドローンが逐一捉えていて、米英の合同作戦により、それへのピンポイントの攻撃が着々と進行しつつある。

 しかし、ここにひとつの問題が・・・。テロリストたちがいる家屋と壁ひとつ離れた箇所で、一人の少女がその母親が焼いたパンを売っているのだ。
 テロリストへの攻撃がいくらピンポイントで行われても、その少女が死亡する確率は65~75%あるとする。無辜の少女を巻き添えにしても攻撃すべきかどうかがジレンマとして提示される。攻撃を断念すれば、室内で着々と準備されつつある自爆テロで少なくとも何十人かが死亡する可能性がある。
 強硬派と慎重派とがせめぎあうなかでひとつの強引な案がひねり出される。爆弾の着地点を、ほんの少しずらせば、少女の死亡する確率は45%に軽減されるというのだ。

 何やかやあって、作戦は実施され、テロリストたちは殲滅され、そして少女は・・・・。どう思い返しても後味の悪さがベッタリと残る。
 その後味の悪さを、映画そのものはどこまでのレベルで捉えているのかは不明だが、以下は私の所見である。

          

 ひとつは、軍事サスペンスというからにはそこには戦争があるのだが、これがはたして戦争といえるかということだ。
 ここには絶対的ともいえる軍事的非対称、不均衡がある。米英側は、大小のドローンを用いて、テロリストの一挙一投足を把握しているのに、テロリストの方は自分たちの身近に迫っているものをまったく知るところはない。

 だから、ここで行われたことは断じて戦争ではない。一方的な処刑なのだ。ジレンマもまた、処刑の方法をめぐるものでしかない。問題設定はヒューマンな装いを凝らしているものの、トータルな状況は決してヒューマンなものではなく、ただ無機的に効率を慮るものにすぎない。

 このとき米英の合同作戦本部はいったい何と闘っているのか。映画を観るとわかるように、彼らは敵と戦っているのではない。彼らの行為にたいする同盟国内での評価や国際世論の結果に対して戦っているのだ。

          

 彼らが敵と戦っていない理由は今ひとつある。それは、現地の工作員一人を除き、誰一人戦場などにはいないのだ。それぞれが、ロンドンの作戦本部など「現場」から何万キロも離れた地点で、現場を映し出すモニターを見つめているだけなのである。
 テロリストにピンポイントの攻撃を仕掛ける要員もまた、アメリカはネバダの空軍基地に設けられた指令室からのボタンで、空中のドローンに発射の信号を送るのみなのだ。
 繰り返すが、ここには圧倒的な非対称と絶対的不均衡がある。邦題が「世界一安全な戦場」とサブタイトルをつけているが、それは断じて戦場ではない。最終処理工場の遠隔指令室なのだ。

 ついでながら原題の「アイ・イン・ザ・スカイ」は天空の眼、つまり神の視座を意味する。その視座に立ちながら、彼らは誰がどういう状況下でどのように死ぬかを「決定」するのだ。
 かつて、ハンナ・アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、アイヒマンの所業について触れた際に、「君たちは、誰が生きていいか、誰が死すべきかを決定したのだ」と非難したのだが、今それが、自分の手を汚すことなく、何万キロも離れたところから行われている。

 流石にこの映画では描かれていないが、作戦終了後、笑顔で談笑し、恋人とワインを開けたりすることもできるわけだ。

               

 この非対称性は、軍事技術等によってもたらされたものであろうが、一方、徹頭徹尾な「ヨーロッパ中心主義」をも含意している。ようするに、監視し、処罰する側、その判断基準を自らのうちにもち、必要とあらばいつでも決断しうる絶対的主体としての自ら。この文明の代表としてのヨーロッパ。
 その支配する意志の前には、その他の異なる価値観をもった者どもは、もはやいかなる意味でも主体ではなく、処理や処分の対象としての客体にすぎない。
 この場合、ヨーロッパ中心主義のうちにこの日本という国も当然ながら含まれている。

 グローバリズムのなかではじき出されてゆく者たちの抵抗、それをヨーロッパ風の理性のなかで抑圧し、歯向かうものには圧倒的な軍事力でもって殲滅する、これは1990年代から一貫して行われてきたことで、その「ネズミ刈り」がハイテク化されて到達した「成果」が、この映画がみせるものであり、そうした状況に、ヒューマンな判断というスパイスをちょいとばかり振りかけて見せたのがこの映画ともいえる。

 これほどまでに「神の視座」から監視され、支配され続けている者たちが、自らの主張をどのように発信しうるのか、自爆テロやその他のテロルを放棄してどのように対峙しうるのか、それを深く考えさせられるところである。
 自爆テロがもっているメッセージ性は、ヨーロッパ中心主義が身にまとったハイテク支配システムへの最後の抵抗ではないだろうか。

            

 あえていうならば、私は殺戮を決定するボタンを握りしめて、枝葉末節的なヒューマンな問題で躊躇する側にではなく、彼らの「神の眼差し」のうちで殺される側にこそ立ちたい。この映画の結末が示すように、テロリストたちも、そしてその壁の外でパンを売る少女も、結局は同じ定めを背負わされているのだ。

 はじめにも書いたが、そうしたことを考えさせる意味で、この映画はよくできている。制作陣が上に書いた問題をどのレベルまで意識していたのかは別にして・・・・。 

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