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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

隻腕奮闘記

2016-01-28 15:05:58 | 想い出を掘り起こす
 隻腕とは片腕を失った人で、生まれつきであったり、病や事故でなくした人のことであるから、私のように骨折で一時的に左腕の機能を失ったいるだけの人間をそこに加えてはいけないのだろう。
 ただし、私と隻腕とは縁があって、私の父方の祖父が隻腕であった。
 戦前、つまり70年前、岐阜で一緒に住んでいた頃は両腕が揃っていた。父が戦争にとられ、母と私が母の実家の大垣郊外へ疎開した折、父方の祖父と祖母は、故郷の福井県の山村ヘ帰っていった。
 事故はここで起こった。若者たちが戦場にとられるなか、林業の手伝いをしていた祖父は、ある日、伐採作業に立ち会っていて、伐採した木が、当初の方角から逸れて倒れてきたのに巻き込まれ、左腕を失った。

            

 父がやっとシベリアから引き揚げてきた1948(昭和23)年夏、父母と私は、岐阜・福井間の県境、油坂トンネルを越えて、山深いその地へと向かった。いまはトンネルであっという間に越えるこの県境も、つづら折れの山道を喘ぐようにして登るバスに揺らてゆくのだった。かくして当時は隣県と言いながら、早朝に大垣郊外を出て、美濃赤坂線で大垣、東海道線で岐阜、高山線で美濃太田、そして、越美南線で白鳥と乗り継ぎ、そこからバスで県境越え、しかも、朝日という町で降ろされてからは、数キロを歩くという旅程であった(今なら車で2時間強)。
 かくして、到着時には、さしもの夏の日もトップリと暮れ、一族の人たちが揃って遠来の私たちを迎えてくれたのだが、ランプしかまだなかったこの山村で、小学生の私には誰が誰であるかの見極めも困難であった。

            
 
 したがって、祖父の隻腕をそれとわが目で確認したのは翌朝だった。
 数年前の両腕揃った祖父を知っていただけに、やはり痛々しく感じた。
 しかし、快活な祖父はそんな私の同情の眼差しを裏切るようになんでも陽気に話してくれた。
 その冬には若い衆と雪の山に熊を撃ちにでかけたこと、ついこの前もそこの川の淵へ潜って大きなアマゴを獲ったことなどなどと。
 「片手で鉄砲が撃てるの?」と私。
 「こうやって台尻を肩に当ててドンとな」と祖父。
 私の薄っぺらな同情心などはとっくにすっ飛んで、目を輝かせたその話に聞き入るのだった。尊敬の念さえ抱きながら。

            

 いま、こうして一時的に隻腕を味わってみて、とはいえ、祖父も隻腕に慣れるまではいろいろ大変だったろうとつくづく思う。
 私自身の「隻腕」生活、5日目にあたり、私自身の奮闘の模様、体験記を書こうと思ったが、その書き出しで結構長くなってしまった。
 この続きは次回・・・。

 写真は隻腕隻眼の剣士、丹下左膳の挿絵から






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