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「棗(なつめ)がみのる村」から来たひとと逢う

2011-01-28 04:18:33 | よしなしごと
 「棗(なつめ)がみのる村」から来た友人に逢いました。
 その村は日本ではありません
 中国は山西省、臨県という地方の南部に位置する村、黄河の近くのいわゆる黄土高原の村からやってきたのです。

     
 
 やってきたといっても彼女はもともと日本人で、私とは30年来の知り合いなのですが、ここ数年以上、その棗がみのる村に居住し、日中戦争の経験を持つ老人たちから聴き取りを行い、それを記録にまとめるいわば国際的なオーラル・ヒストリーの取りまとめをしているのです。

 なぜそんなことになったかというと、この地方こそ、日中戦争時の「三光作戦」(奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせ)の対象になった土地だったからです。

 しかし、彼女がそこへ足を踏み入れたのは全くの偶然でした。当時北京に住んでいた彼女は、観光旅行のつもりで延安に出かけたおり、バスの故障か何かでその地に降り立ったのでした。
 その地は、三光作戦の残響もあって、何と戦後60年近くを経ていながら、日本人は全く近寄らず、彼女はその地に足を踏み入れた最初の日本人となったのです。

 村人たちにとって、日本人は「鬼」でしたから、彼女への抵抗はむろんありました。しかし、彼女はそれを逆手にとって、なんとその村に住みついてしまったのです。そしてはじめた活動が上に述べた老人たちへの聞き取り調査です。

 今回彼女が日本に一時帰国したのは、これまでの聞き取り調査の結果をまとめ出版するためでした。それらは戦争を経験した老人たちの話をそのままテープで起こし、中国語で出版されます。それによりこの資料は彼女の主観を交えたものではなく、まさに史料として国際的に認可されるでしょう。

 実は彼女、一昨年に日本語でも中間報告のような書を出しています。
 「記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から」(大野のり子・未来社・1,575円)がそれです。

     

 そんな彼女と翌日中国へ帰るという夜に逢い、旧交を温めました。
 おでんと日本酒で語らいました。
 私は彼女の過去の事象の聴き取りを大いに評価しながら、さらに今日的に彼女は面白いところにいると思っています。
 それは中国が異常なほどの後期産業社会としての発展を遂げながら、一方、彼女の住む「棗がみのる村」は典型的な農業文明に留まっていて、その格差が著しいという事実です。しかし、村人たちは出稼ぎなどで以前より暮らしは良くなったということです。

 ところがです、彼らの住居はヤオトンといって今なお横穴式住居で、それらに落盤などの危険性があり、やがて北京郊外などに移住が予定されているようなのです。
 こうして村人たちは半ば自給自足の生活様式から貨幣経済のまっただ中に投げ出されるのです。

     

 そうした場合、彼らがその生活様式の変化に対応しきれるかが大いに心配なのですが、同時に、彼らが守ってきた伝統的な儀式や生活文化がどうなるかが大いに心配です。
 幸い彼女は、老人の戦争体験を聴き取るかたわら、村の伝統儀式(結婚式や葬儀、農作業のありよう)の映像などの記録をたくさんもっています。
 それ自身、やがて中国から失われてゆく貴重な記録になるのではという思いがあるのです。

 彼女による過去の記録の整理が一段落したら 、今度は大きく変動する中国の山村で失われてゆくであろうそうした記録の公表を期待するものです。
 そんなことなど語り合う内に、時間がどんどん過ぎてしまいました。

     

 今朝ほど、彼女が住んでいる山西省の省都、太原まで着いたが、雪のためまだ村へは行き着けていない旨、コメントがありました。

 写真は彼女に貰った二年物の乾燥したなつめの実です。
 日本でも棗はかつて童謡に歌われるほど*でしたが、最近は余り聴きません。
 確か子どもの頃ナマの実を食べた覚えがあるのですが余り思い出せません。

     

 彼女から貰ったそれを、毎日一つづつ、焼酎などと一緒にかじっています。
 ほのかな甘みが口腔に広がり、黄土高原を味わっている感じになります。


棗が出てくる童謡


あの子はたあれ (昭和13 ) 作詞:細川雄太朗 作曲:海沼実?

1、あの子はたあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下?  
  お人形さんと 遊んでる かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか?
2、あの子はたあれ だれでしょね こんこん小やぶの 細道を?  
  竹馬ごっこで 遊んでる 隣の健ちゃんじゃ ないでしょか?
3、あの子はたあれ だれでしょね とんとん峠の 坂道を?  
  ひとりでてくてく 歩いてる お寺の小僧さんじゃ ないでしょか?
4、あの子はたあれ だれでしょね  お窓にうつった 影法師?  
  お外はいつか 日がくれて お空にお月さんの 笑い顔


 註1 よく「あの子はだあれ」と歌われますが原詩は「たあれ」です。
 註2 棗の花は写真で示すように比較的地味な花です(これはネットから)。?
       (ついでながらこの昭和13年は私が生まれた年です)
 

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7 コメント

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Unknown (清水橋)
2011-01-28 19:40:10
愛器が、退院してまた素敵な写真と、鋭い文章にあえて、
喜んでいます。
 私が小学生の時、飛騨の高山で過ごした事があります。
冬の雪深いとき、保存食に棗のみの、甘く煮たのが、よく食卓に出ました。
 懐かしいです。海が遠いから、魚もなかったし、塩辛いいかが、おかずでした。今では考えられませんが。
大野さんが、意義深いお仕事を、形にされますことを、心から応援し、祈ります。
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Unknown (六文錢)
2011-01-28 23:32:10
>清水橋さん
 ただいま生還致しました。
 本文中で言い忘れましたが、彼女の仕事は東大の支援を受けて東洋文庫に収録されるとのことです。
 彼女の仕事のもうひとつの意義は、その聴き取り相手の老人たちが「無文字社会」の人たちだったことです。それらの老人たちは、まだ学校教育が普及する前で、自分の記憶以外に紙や文字、いわんや電子媒体などの外部の記録装置を一切持っていません。従って、その生命とともに失われてゆくものなのです。
 事実彼女が話を聞いた300余のひとの内、その後多くの人が亡くなったそうです。

 無文字社会を生きてきた彼らの記憶力は実に詳細だとのことです。ようするに、私たちが紙や文字、それに電子工学による記録媒体を私たちの身体の外部に持つようになった時から失われてしまった記憶という能力を、彼らは依然として保持しているのです。

 記憶がどれほど優れた能力であるかはホメーロスが紙媒体に記録する前のギリシャの歴史が、吟遊詩人などの記憶の伝承として語られてきたことを見ても、あるいは、アイヌのユーカリが口伝で語られた彼らの唯一の歴史であったことを見ても分かると思います。

 なお、彼女からの清水橋さんへの伝言もあるのですが、またゆっくりお話し致します。
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Unknown (くろあしまる)
2011-01-29 13:32:13
紹介のあった本「記憶にであう―中国黄土高原 紅棗がみのる村から」早速探して読んでみたいと思います。
貴重な記録をされている方がいることに驚きました。
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Unknown (清水橋)
2011-01-29 14:00:30
非合法時代の活動家も、紙に書くことは、タブーであったため、記憶の中に貴重なものを残していったのですね。
シベリア抑留された人の、俳句を記憶し、なくなった兵士の遺族に、かたりつたえた 実際にあった話、も思い出しました。思想の科学研究会主催の4月のシンポジュウムのテーマは、「記憶の政治学」だそうです。パネラーに、重信さんの娘さんも、予定されています。PR,ごめんなさい。
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Unknown (六文錢)
2011-01-29 23:42:23
>くろあしまるさん
 ようこそ。
 彼女の作業は歴史的にも価値あるものだと思いますが、そこへ乗り込み、村のひとびとと交流を重ねてきたそのありようそのものも、また一つのドラマだと思います。
 また随時、機会があればご報告致します。
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Unknown (六文錢)
2011-01-29 23:45:32
 記憶をすることを始め、人間の身体能力はそれが外部化されることによって減退しますね。
 私などその最たるもので、パソに入っているからいいさなどと次から次へと忘れてゆきます。
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Unknown (maotouying)
2011-02-01 22:35:41
28日に村に帰り、今日ようやくネットが繋がったところです。なんだか身に余る評価をいただき、おまけに立派なコメントまでいただき、恐縮の至りです。
本は知人の勧めがあって、東大東洋文化研究所の叢書として3月末に刊行されます。これは一般に売られるものではなく、東文研から、国内外の大学や図書館に寄贈されるものです。
普通に出版しても売れないし、この方法なら、少なくとも世界数十カ国のしかるべきところに保存され、研究者の目に留まることがあるかも知れないと思ってこの道を選びました。ですから、全文中国語です。もちろん私が書いたわけではなく、すべてテープ起こししたものです。
今回はそういうことで、まずは資料として残すことを優先しましたが、もちろん今後、日本語に翻訳して発表する予定です。印刷物になるか、あるいはネットという媒体を使うかはまだ決めていません。
と同時に、現在、近隣の村々が集団移転するという話が現実化してきていて(地下で石炭を掘っていて危険になってきたため)、人の記憶もさることながら、村の記憶も残しておかないと、何もかもなくなってしまいそうな勢いで、なんだか、一仕事終わったはずなのに、ちっともヒマにはなりそうにないです。
こちらは明日が大晦日、あさってが春節で、ふだん静かな村もにぎわっています。それではまた。
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