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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

多彩なカント先生と宦官オスミンの悲哀

2014-09-30 00:48:17 | よしなしごと
 前々回にも書いたが、カントの『人間学』をノートを取りながらボチボチ読んでいる。
 そのなかで、ときどきカント先生は面白いエピソードや引用などをしている。
 以下はほかのところですでにツイートなどしたしたものだが、未読の方のためにまとめて掲載する。
 
 カント先生、いかめしいところがあるかと思うと、予期しないところで突然面白いことをいいだす。ちょっと身近に感じてきた。

          

まずは人間の理性と年齢について
 理性が使えるようになるのは20歳ぐらいで、「利口」という点では40歳、そして「賢知」に達するのは60歳ぐらいで、その賢知の段階でその前の段階がすべて愚かであったと達観することができると述べたあと、「自分が正真正銘善く生きるべきだったと今はじめて自覚した途端にそろそろ死ななければならないとは残念なことだ」といっている。

 ちなみにカント先生、当時としては長命の方で、80歳まで生きている(1724~1804)。
 私の場合、古希を過ぎてすでに数年であるが、賢知とは程遠い。したがって、「自分は何ものにも至れないまま、そろそろ死ななければならないとは残念なことだ」ということになる。

          
 
道楽(趣味)について
 道楽は「多忙な無為」でしかないが、ある種の気晴らしにはなる。したがって、この種の「罪のない愚行」を真顔でとがめるべきではないとしたあと、イギリスの小説家、スターンの次のような言葉を引用している。
 
 「誰かがおもちゃの馬にまたがって町をあちこち乗り回しいるからといって、お前に後ろに乗れよといって強制しない限りはほっときなさい」

          

男女の役割分担について
 
 カント先生、ごたぶんにもれず、18世紀の性差における男女の役割についての当時の考えを踏襲している。男は外に、女は家にというわけだ。そしてこんな小話を紹介している。 
 
 召使「大変です。あちらの部屋が火事です」 
 
 亭主「そういうことは家内の仕事だということぐらいお前も知っているだろうに」

          

人間の誠意、裏切り、能力の関連
 これはカント先生の言葉ではなく、先生が引用しているヒュームの言葉。

 「トルコのスルタンが黒人の宦官に自分のハーレムの見張り役を任せるのは彼らの徳を信じているのではなく、彼らの不能に安心しているからである」
 
 
 これを読んで、当時のトルコのスルタンは黒人を奴隷とし、なおかつ宦官の手術を強いていたことを知った。
 そしてモーツァルトの歌劇、『後宮からの誘拐』のまさに後宮(ハーレム)の番人、オスミンを思い出した。そうか、彼は宦官だったのだとしばし考えてしまった。
 
 そして、あの歌劇の中では三枚目役として主人公たちから徹底して馬鹿にされる彼が少し哀れになった(ただし、モーツァルトはこのオスミンのために素晴らしいバスのアリアを用意している)。
 
 https://www.youtube.com/watch?v=hWIBh5vUD34

《追記》
上記の歌劇では宦官であるオスミンがブロンデに恋をしたり、捕われのペドリッリョが去勢されずにハーレムに入れたという矛盾も同居している。

上記を歌っているクルト・モルは1938年生まれ、私と同い年のドイツ出身の歌手だが、2006年惜しまれながら引退した。







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