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もう一つの2・26事件 「テロルの世紀」の前哨戦

2015-02-27 15:12:04 | 歴史を考える
         
          「サークル」という作品です。円形のなかに
           およそ20人の人がいるのが分かりますか?


  20世紀が「戦争と革命の時代」といわれたのに対し、21世紀は「テロルの時代」といわれています。
 なんの因果か、不本意にもこの世紀へ足を踏み入れてしまったばかりに、自分が生きてしまっているこの世紀について知ろうと、遅まきながらテロルについて勉強し始めました。

 今世紀がテロルの時代といわれるのは、まさに世紀の夜明け、2001年が世界貿易センターへの旅客機の突入という世界同時発信の華々しい映像を伴っていたことにもよりますが、それにショックを受けたアメリカ中心の「テロとの戦争」という「不正規な」戦争が、さらにテロルを拡大再生するという事態を引き起こし、15年を経過した現在もその趨勢が止まないことにあります。

 ちなみに「テロとの戦争」というスローガンをいったん掲げてしまうと、それは、「かっぱえびせん」のCMではないのですが、もはや「やめられない、とまらない」なのです。
 どうしてかというと、この「戦争」はかつての戦争のような主権国家間の武力抗争と違って、新しい領土の確定や、どちらかの降伏、あるいは停戦条約によって、勝利や収束が確定することがなく、「ハイ、ここまで」という区切りをつけることはできないからです。

 ですから、今日はアフガン、明日イラクと、神経質な「もぐらたたき」のように、攻撃を続けなければならないのです。テロリストは正規軍団ではありませんから、その所在も明らかではありません。ですから、この辺りとする空爆などが無関係な人びとを無差別に殺傷し、その被害者たちをテロリストのメンバーへと送り込むことになります。

 世界貿易センターを攻撃したのが、かつてアメリカが、アフガニスタンで、対ソ連(当時の)向けに組織したアルカイーダによるものであったことも皮肉ですが、今、渦中にあるISIS(イスラム国)もまた、大量破壊兵器の存在という自作自演のデマで、れっきとした独立国であるイラクに攻め入り、その国の大統領(フセイン)を吊るすというK・K・Kなみのテロルをやってのけた、かのイラク戦争の副産物だということですから、またまた皮肉といわざるをえません。

 しかし、この世紀がテロルの時代といわれるのはそれだけではないのです。
 それらは、いわゆるグローバリゼーションとの関連で生じていることからみるに、決して一過性のものではありません。というのは、この時代は同時に、グローバリゼーションの時代でもあるからです。
 したがって、それとの絡みで、暗殺などの前世紀のテロルと区別するために、「グローバリゼーション・テロル」といわれたりします。
 そして、このグローバルなテロルの特色は、対象がはっきりしないことにあります。

 世界貿易センターはたまたまニューヨークのマンハッタンにあってシンボル的だったわけですが、ある意味では、相手の政治的パニックを引き起こすようなところ、あるいはそうした事態ならば、いつどこで起こしても構わないわけです。
 あるいは、そのうちにあるぞというだけでも十分なのです。それだけで世界はヒステリックな叫びを上げ、地下鉄のあらゆる箇所からゴミ箱をかっさらってしまうのです。

 こうしたグローバルな世界進出と、それへの迎撃のようなグローバル・テロルの発端は前世紀後半に求めることができます。前世紀末のソ連圏崩壊に際し、いわゆる西側は、「よし、これで冷戦に勝利した。これからは新自由主義に基づく資本主義の地球的な制覇の時代だ」としていわゆるグローバリゼーションを加速させました。
 
 世界宗教のうち、ユダヤ教とキリスト教は近代のはじめにしてすでに資本主主義に屈服し、政教分離を受け入れていました。中国、朝鮮半島、日本などの東アジ アは、もともと一神教的な伝統はありませんから、そのままずぶずぶと資本主義化の道を(中国の場合は寄り道もありましたが)歩むことになりました。

 その点イスラム圏においては、その宗派や国家においての差異はあるものの、ヨーロッパ的な資本主義システムを押し付けられるということは、経済的、政治的、文化的、そして宗教的な伝統そのものの根底的な破壊を意味しますから、それへの抵抗は十分ありえます。
 
 その上、新自由主義をバックボーンとするグローバリゼーションは、全世界的な格差の拡大にみられるように配分的な不正義をもたらし、世界を勝者=受益者と敗者とにはっきり分割することになります。これらはまた、後進資本主義国であればあるほど不利益を被る仕掛けになっています。 
 
 そうした軋轢のひとつの臨界点が、まさに9・11でした。
 それに対するアメリカと同盟軍(日本を含む)の悪あがきが、一層テロルの条件を生み出してきたことはすでに見たとおりです。

 さて、ところで、世界貿易センターへの攻撃が、あの劇的な2001年の9・11以前にもすでにあったことを記憶していらっしゃるでしょうか。
 それは1993年2月26日の正午過ぎ、爆破物を満載したバンがタワー直下の地下駐車場で爆発、地下に居合わせた6人が死亡したというものです。22年前の昨日のできごとでした。

 テロリストは原理主義などとよばれ、前近代的なものへの単純な回帰のように思われがちです。しかしそれらは、グローバリズム近代を脅威として解した人たちのパニックとしての応答なのです。ようするにグローバリゼーションが伝統的な生活様式の暴力的な根絶を推し進めるのではないかという不安への防衛本能の加速ともいえます。
 
 その意味ではテロルの時代は科学技術を伴った資本の無際限な活動に世界を委ねてもいいものかどうかという「近代の超克」を課題としてはらむものであります。だとするならば、前世紀、まさに日本を舞台に展開された「近代の超克」との連続性を考えることもできますし、また、ハイデガーが、一時的にしろ、ナチズムに傾斜を見せたその接点もまた、「近代の超克」を問題にしたからだと考えることもできます。

 こう考えてくると、「戦争と革命の時代」といわれた前世紀と、「テロルの時代」といわれる今世紀との「断絶」ではなく、逆に近代発祥以来の「連続性」のようなものがみてとれるのではないでしょうか。その物質的基盤は、マルクスが当初、見出した商品と資本の無限の拡散というところにあるようです。
 
 だとすると、「テロとの戦争」は、次はどこかと目星をつけて見当違いな「先制攻撃」を仕掛けたり、地下鉄のゴミ箱をかっさらったりするような問題ではないことがみえてきます。
 ようするに、近代が掘り起こしたこの生産様式や生産関係の中で、諸国民が共生し、その配分における不平等が生じないために何が必要なのかの検討です。「近代の超克」などと気ばらなくともよいが、「近代の馴致」ぐらいのスパーンが要るのではないでしょうか。
 
 同時に、イスラム教においても教育などでの女性の人権が確保されるよう、その教義に関する宗教会議などの開催は無理なのでしょうか。とりあえずは、政教分離とまではゆかなくても、世俗的な分野においての寛容な教義の適用の可能性などについての検討です。






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