21日、22日はこの地域の文化祭だった。
校下の公民館を拠点に、いろいろサークル活動をしているグループたちによる発表会のようなものだ。
書画、写真、絵手紙、パッチワーク、俳句、生花、などの視覚作品から、ヨガや合唱、テコンドー、ダンスなどのパフォーマンスもある。カラオケ大会もある。
先般、名古屋で「アート・チャレンジ」なるモダン・アートの作品を観たばかりだが、こうしたその土地の匂いがするチマチマっとしたものも結構楽しい。
こうしたところへ来ると、70年前の敗戦後の婦人会や青年団の手になる演芸大会や各種発表会を思い出す。
戦時中、華美な催しなどは一切ご法度で、表現者は国策に沿った戦意高揚以外の活動は一切禁じられていた。禁を犯そうものなら、憲兵隊あたりへ連行され、「貴様ら、それで戦地で戦っている兵士に申し訳けが立つと思うのか」と、半殺しの目に逢わされた。
それらの鬱積したエネルギーが、敗戦後一挙に吐出されたのだった。
私が疎開していた片田舎でも、素人演芸会や、やれなにそれの発表会などといったものがかなりの頻度で催され、やがて、そのなかから各種のサークル運動などが巣立っていった。
地域の文化祭はそれと共通した匂いがするのだ。少なくとも、洗練された美術館にお芸術として展示されたものたちとはまた違った別の匂いが・・・・。
ということで、私も出品した。写真である。
「琵琶湖の漁婦」と題するそれは、昨年、琵琶湖の沖島へ行った際、近江八幡の港で撮ったものだ。働く女性のたくましさと、瞬時の休憩の中で見せる笑顔とに魅せられてシャッターを押した。
もちろん、技術的にはまったく駄目だが、なんとなそれらしい雰囲気は捉えられたと、密かに思っている。
なお、殆どの人がデジカメの作品だが、私のものは銀塩写真である。
だからほとんど事後的な調整が効かない一発勝負のものだ。
ここに載せたのも、L版の写真をスキャンしたもので、実際の感じとはずいぶん違う。(実際にはもっとシックな色合い。B4サイズ=257✕364 に伸ばすと、帽子の下の笑顔と白い歯がはっきりする。ちなみに、ノートリミング)
展示されたものをひと通り観終わってから、野外へ出ると、50円コーヒー、100円うどんなどのブースが賑やかだ。そのなかで、ネギ焼き200円に目が留まった。後述するが、これには懐かしい思い出がある。
テイクアウトでということで一枚求める。
電子レンジで温めて、夕餉の一品になった。
【おまけ・ネギ焼きの思い出】
数年間の疎開生活から、やっと岐阜の街へ戻ったのは1950(昭和25)年であった。
そこではじめて覚えたのは「買い食い」という行為であった。疎開先では、子どもが立寄って簡単に買える駄菓子屋などはなかったからだ。
キャラメルやアメ玉、夏はアイスキャンデーなどいろいろ買ったが、想い出深いのが「洋食」であった。これは公園などの屋台で買うことが多かった。
で「洋食」とは何かというと、鉄板の上にまあるく溶いたメリケン粉を広げ、それにネギをかなり乗せ、紅しょうがを乗せると、それらを綴るように溶いたメリケン粉を適当に垂らし、ペッタンとひっくり返してその面を焼き、再び返してその面に刷毛でソースを塗り、オカカを散らしてハイ出来上がりというものだった。
それを薄い経木でくるみ、さらには適当に切った新聞紙を巻いて、「ホイ」と渡してくれる。湯気の立つそれにウハウハとかぶり付くのだが、ネギと紅しょうが、それにオカカとソースの味が渾然一体となって口中に広がり、まさに至福の瞬間であった。
ようするに、いたってシンプルなお好み焼き、あるいはネギ焼きの元祖というべきものだった。ではなぜそれが「洋食」だったのかというと、その由来はウースターソースにあった。この頃、庶民の大半の家庭では、まだソースはレギュラーな調味料ではなかった。したがって「洋風な味付け」ということで「洋食」だったわけだ。これが岐阜地方だけの呼び名だったのかどうかはよくわからない。
ちなみに、この頃ではお好み焼きにマヨネーズというトッピングもあるようだが、その頃の私たちは、この世にマヨネーズというものが存在することすら知らなかった。まあ、一般家庭の調味料といったら、塩、砂糖(これは戦後しばらくまでは貴重品だった)、味噌、醤油、それに箱式の削り器がついた鰹節、昆布、といった時代で、家庭での洋風料理などほとんどなかったのだから、「ソース味」即「洋食」という短絡も可能であったわけだ。
で、文化祭で買ったネギ焼きだが、懐かしい味だったが、欲をいうと、もう少しネギを沢山入れてほしかった。
え?何ですか?お前いくら払ったのかですか?ハイ、200円です。
校下の公民館を拠点に、いろいろサークル活動をしているグループたちによる発表会のようなものだ。
書画、写真、絵手紙、パッチワーク、俳句、生花、などの視覚作品から、ヨガや合唱、テコンドー、ダンスなどのパフォーマンスもある。カラオケ大会もある。
先般、名古屋で「アート・チャレンジ」なるモダン・アートの作品を観たばかりだが、こうしたその土地の匂いがするチマチマっとしたものも結構楽しい。
こうしたところへ来ると、70年前の敗戦後の婦人会や青年団の手になる演芸大会や各種発表会を思い出す。
戦時中、華美な催しなどは一切ご法度で、表現者は国策に沿った戦意高揚以外の活動は一切禁じられていた。禁を犯そうものなら、憲兵隊あたりへ連行され、「貴様ら、それで戦地で戦っている兵士に申し訳けが立つと思うのか」と、半殺しの目に逢わされた。
それらの鬱積したエネルギーが、敗戦後一挙に吐出されたのだった。
私が疎開していた片田舎でも、素人演芸会や、やれなにそれの発表会などといったものがかなりの頻度で催され、やがて、そのなかから各種のサークル運動などが巣立っていった。
地域の文化祭はそれと共通した匂いがするのだ。少なくとも、洗練された美術館にお芸術として展示されたものたちとはまた違った別の匂いが・・・・。
ということで、私も出品した。写真である。
「琵琶湖の漁婦」と題するそれは、昨年、琵琶湖の沖島へ行った際、近江八幡の港で撮ったものだ。働く女性のたくましさと、瞬時の休憩の中で見せる笑顔とに魅せられてシャッターを押した。
もちろん、技術的にはまったく駄目だが、なんとなそれらしい雰囲気は捉えられたと、密かに思っている。
なお、殆どの人がデジカメの作品だが、私のものは銀塩写真である。
だからほとんど事後的な調整が効かない一発勝負のものだ。
ここに載せたのも、L版の写真をスキャンしたもので、実際の感じとはずいぶん違う。(実際にはもっとシックな色合い。B4サイズ=257✕364 に伸ばすと、帽子の下の笑顔と白い歯がはっきりする。ちなみに、ノートリミング)
展示されたものをひと通り観終わってから、野外へ出ると、50円コーヒー、100円うどんなどのブースが賑やかだ。そのなかで、ネギ焼き200円に目が留まった。後述するが、これには懐かしい思い出がある。
テイクアウトでということで一枚求める。
電子レンジで温めて、夕餉の一品になった。
【おまけ・ネギ焼きの思い出】
数年間の疎開生活から、やっと岐阜の街へ戻ったのは1950(昭和25)年であった。
そこではじめて覚えたのは「買い食い」という行為であった。疎開先では、子どもが立寄って簡単に買える駄菓子屋などはなかったからだ。
キャラメルやアメ玉、夏はアイスキャンデーなどいろいろ買ったが、想い出深いのが「洋食」であった。これは公園などの屋台で買うことが多かった。
で「洋食」とは何かというと、鉄板の上にまあるく溶いたメリケン粉を広げ、それにネギをかなり乗せ、紅しょうがを乗せると、それらを綴るように溶いたメリケン粉を適当に垂らし、ペッタンとひっくり返してその面を焼き、再び返してその面に刷毛でソースを塗り、オカカを散らしてハイ出来上がりというものだった。
それを薄い経木でくるみ、さらには適当に切った新聞紙を巻いて、「ホイ」と渡してくれる。湯気の立つそれにウハウハとかぶり付くのだが、ネギと紅しょうが、それにオカカとソースの味が渾然一体となって口中に広がり、まさに至福の瞬間であった。
ようするに、いたってシンプルなお好み焼き、あるいはネギ焼きの元祖というべきものだった。ではなぜそれが「洋食」だったのかというと、その由来はウースターソースにあった。この頃、庶民の大半の家庭では、まだソースはレギュラーな調味料ではなかった。したがって「洋風な味付け」ということで「洋食」だったわけだ。これが岐阜地方だけの呼び名だったのかどうかはよくわからない。
ちなみに、この頃ではお好み焼きにマヨネーズというトッピングもあるようだが、その頃の私たちは、この世にマヨネーズというものが存在することすら知らなかった。まあ、一般家庭の調味料といったら、塩、砂糖(これは戦後しばらくまでは貴重品だった)、味噌、醤油、それに箱式の削り器がついた鰹節、昆布、といった時代で、家庭での洋風料理などほとんどなかったのだから、「ソース味」即「洋食」という短絡も可能であったわけだ。
で、文化祭で買ったネギ焼きだが、懐かしい味だったが、欲をいうと、もう少しネギを沢山入れてほしかった。
え?何ですか?お前いくら払ったのかですか?ハイ、200円です。
時々載せておられる抽象的な絵はパソコン画ともいうべきものでしょうか。
まあ、表現活動の頂上と底辺のようなものですが、どちらも好きです。
出品した写真、「写実的に描かれた油絵のようだね」といわれました。
時折載せる絵のようなものは、パソコンの古いお絵かきセットを使った落書きです。
でも書いている最中は、けっこう楽しんでいます。