ちょうどこの辺りかなと思う箇所に差しかかると、山の稜線の切れ目のようなところからドライアイスの煙を吹き付けるようにして白い塊が降りてきた。
「あっ、ガスだ」と、これまでプラス思考でつないできた望みが萎えそうになる。
しかしそう簡単に諦めるわけにはゆかない。
伊吹山ドライブウエイ入り口ゲートの人が親切に教えてくれるには、山頂付近はガスがかかっているがイヌワシの棲息地付近(それがどの付近かも教えてくれた)はひょっとしたら大丈夫かもしれない、しかし山の天気は変わりやすいから、とのことだった。そして先行しているバーダーがいるからその人から情報をもらったらと親切にアドヴァイスしてくれた。
急いだ。といっても上りの山岳道路、そんなに飛ばすことは出来ない。
その結果が冒頭のシーンだ。
先行するバーダーはたしかにいた。
もう何度もここに足を運んでいるという人で、やはり今日は難しそうだという。
車のナンバーを見ると「愛 ****」(「愛」は愛知)となっていてもう何十年か前の車を大事にして乗っているいい意味でのマニアックな人のようだ。
ここも目撃地点のひとつ 上がぼけているのは降下しつつあるガスのせい
本当ならあのあたりに巣があって飛び立つはずだがと指さして教えてくれた場所も、どんどんガスの中で薄れてゆく。ガスに追われるようにさらに下のポイントへ移動するその人のあとを私たちも追った。
そしてその人が教えてくれる過去の目撃情報などを頼りにじっと目を凝らしたがそれらしいものは見えない。
こうして三箇所ほどのポイントでしばらく様子を見たがいずれも成果はない。
そうするうちにもどんどんガスが降りてきてそれとともに気温が急降下する。
ほとんど冬仕立てのような厚手の服装をしていても、山の冷気が身にしみる。
やはり諦めざるをえないようだ。
私は案内役でしかもこうして場所がわかった以上今後ということもあるが、同行した彼女はわざわざ沖縄からの来訪(正確にはイギリス、福島経由)で、再訪の機会は少ないだろうからさぞかし残念だろうと思う。
この日程の設定が9月初めで、極めて漠然とした中で行ったとはいえ、彼女にはまことに申し訳ないことをした。もう一日前に設定しておけば快晴でイヌワシに出会える可能性はうんと高かったのにと悔やまれる。
風雨にさざめく琵琶湖の湖面と長浜の郷土料理・のっぺいうどん
麓へ降り、琵琶湖を見に長浜方面に向かう。
折からの悪天候で、琵琶湖の水面もいつもとは表情が違い、まるで海面のように騒がしくなっていた。
そんななか、トレッキングのグループ二組に遭う。いずれも中高年で女性が多い。みんな元気だ。
長浜の街に入る。いつも感心するのだが、小奇麗な商店街が今なお生きている。
昼食時をやや過ぎていたので、この地方の郷土料理「のっぺいうどん」を食べる。
基本としてはあんかけうどんにおろしショウガを添えたもので、具は北陸に近いせいか真ん中に穴が開いた車麩とかまぼこ、それに厚手の戻しシイタケ、さらにインゲンや湯葉などがあしらわれていた。
山で寒い目に遭い、そぼ降る雨の中を歩いてきた身には暖かさが何よりもごちそうで、あんかけと生姜という最強のコンビは身も心も温めてくれた。
街を散策する。街並み規制をしているのだろうが、昔ながらの佇まいが訪れる者を柔らかく迎えてくれる。街を流れる疎水もどこか琵琶湖の臭いがするようだ。
左は琵琶湖に通じる長浜の疎水 右は大垣市船町の川港
大垣へ移動する。
奥の細道むすびの地を訪れる。
いまとなっては珍しくなった川燈台・住吉燈台のあたりに「奥の細道終章の碑」があり、結びの文章に「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句が添えられている。
あいにくの雨水で川面に濁りはあったが、和船が一艘繋留されているのはなかなかの風情であった。
芭蕉がこの地を去ったのが旧暦の長月六日というから、新暦にすればちょうど今頃、タイミングのいい訪問ではあった。
川燈台の住吉燈台と「奥の細道」終章を記した石碑
岐阜へ戻り夕食を共にする。
話題としてはやはりオスプレイやこの間に起きた強姦事件を避けるわけにはゆかない。
政府や公筋は、そして国民のある部分も含んでだが、「まことに遺憾」を繰り返しながらも沖縄の基地の現状を改めようとは決してしない。そればかりか、心ない連中の「そんなこといったって、オメエら基地で食ってるんだろう」という悪口雑言もあるようだ。
彼女はいう。それをいうのだったらそれ以前に、自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭った時、安全保障のためにはやむをえないと言い切れるかどうかを考えて欲しいと。
一日の締めの夕餉にはふさわしくない話題かもしれないが、それもほんの一部、あとは酒肴を満喫しながら談笑し、名古屋に宿をとっている彼女と雨の岐阜駅で別れた。
翌日、台風の影響でフライトへの影響が懸念されたが、無事、帰沖出来たとのメールが入った。
イヌワシを見ることは出来なかったのはまことに申し訳なかったが、それなりに親交を温めることが出来たと思う。
【追記】ネットには左翼と思しき人の沖縄強姦事件への言及があり、世界情勢から説き起こして自説が延々と述べられていた。オイオイ、あんたもこの事件を「政治的に利用」しているだけではないのかいと思ってしまう。やはり、「自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭う」かも知れぬというところから出発しない限り、沖縄で起こりつつあることは政治的エピソードに解消されてしまうのではないだろうか。
「あっ、ガスだ」と、これまでプラス思考でつないできた望みが萎えそうになる。
しかしそう簡単に諦めるわけにはゆかない。
伊吹山ドライブウエイ入り口ゲートの人が親切に教えてくれるには、山頂付近はガスがかかっているがイヌワシの棲息地付近(それがどの付近かも教えてくれた)はひょっとしたら大丈夫かもしれない、しかし山の天気は変わりやすいから、とのことだった。そして先行しているバーダーがいるからその人から情報をもらったらと親切にアドヴァイスしてくれた。
急いだ。といっても上りの山岳道路、そんなに飛ばすことは出来ない。
その結果が冒頭のシーンだ。
先行するバーダーはたしかにいた。
もう何度もここに足を運んでいるという人で、やはり今日は難しそうだという。
車のナンバーを見ると「愛 ****」(「愛」は愛知)となっていてもう何十年か前の車を大事にして乗っているいい意味でのマニアックな人のようだ。
ここも目撃地点のひとつ 上がぼけているのは降下しつつあるガスのせい
本当ならあのあたりに巣があって飛び立つはずだがと指さして教えてくれた場所も、どんどんガスの中で薄れてゆく。ガスに追われるようにさらに下のポイントへ移動するその人のあとを私たちも追った。
そしてその人が教えてくれる過去の目撃情報などを頼りにじっと目を凝らしたがそれらしいものは見えない。
こうして三箇所ほどのポイントでしばらく様子を見たがいずれも成果はない。
そうするうちにもどんどんガスが降りてきてそれとともに気温が急降下する。
ほとんど冬仕立てのような厚手の服装をしていても、山の冷気が身にしみる。
やはり諦めざるをえないようだ。
私は案内役でしかもこうして場所がわかった以上今後ということもあるが、同行した彼女はわざわざ沖縄からの来訪(正確にはイギリス、福島経由)で、再訪の機会は少ないだろうからさぞかし残念だろうと思う。
この日程の設定が9月初めで、極めて漠然とした中で行ったとはいえ、彼女にはまことに申し訳ないことをした。もう一日前に設定しておけば快晴でイヌワシに出会える可能性はうんと高かったのにと悔やまれる。
風雨にさざめく琵琶湖の湖面と長浜の郷土料理・のっぺいうどん
麓へ降り、琵琶湖を見に長浜方面に向かう。
折からの悪天候で、琵琶湖の水面もいつもとは表情が違い、まるで海面のように騒がしくなっていた。
そんななか、トレッキングのグループ二組に遭う。いずれも中高年で女性が多い。みんな元気だ。
長浜の街に入る。いつも感心するのだが、小奇麗な商店街が今なお生きている。
昼食時をやや過ぎていたので、この地方の郷土料理「のっぺいうどん」を食べる。
基本としてはあんかけうどんにおろしショウガを添えたもので、具は北陸に近いせいか真ん中に穴が開いた車麩とかまぼこ、それに厚手の戻しシイタケ、さらにインゲンや湯葉などがあしらわれていた。
山で寒い目に遭い、そぼ降る雨の中を歩いてきた身には暖かさが何よりもごちそうで、あんかけと生姜という最強のコンビは身も心も温めてくれた。
街を散策する。街並み規制をしているのだろうが、昔ながらの佇まいが訪れる者を柔らかく迎えてくれる。街を流れる疎水もどこか琵琶湖の臭いがするようだ。
左は琵琶湖に通じる長浜の疎水 右は大垣市船町の川港
大垣へ移動する。
奥の細道むすびの地を訪れる。
いまとなっては珍しくなった川燈台・住吉燈台のあたりに「奥の細道終章の碑」があり、結びの文章に「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句が添えられている。
あいにくの雨水で川面に濁りはあったが、和船が一艘繋留されているのはなかなかの風情であった。
芭蕉がこの地を去ったのが旧暦の長月六日というから、新暦にすればちょうど今頃、タイミングのいい訪問ではあった。
川燈台の住吉燈台と「奥の細道」終章を記した石碑
岐阜へ戻り夕食を共にする。
話題としてはやはりオスプレイやこの間に起きた強姦事件を避けるわけにはゆかない。
政府や公筋は、そして国民のある部分も含んでだが、「まことに遺憾」を繰り返しながらも沖縄の基地の現状を改めようとは決してしない。そればかりか、心ない連中の「そんなこといったって、オメエら基地で食ってるんだろう」という悪口雑言もあるようだ。
彼女はいう。それをいうのだったらそれ以前に、自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭った時、安全保障のためにはやむをえないと言い切れるかどうかを考えて欲しいと。
一日の締めの夕餉にはふさわしくない話題かもしれないが、それもほんの一部、あとは酒肴を満喫しながら談笑し、名古屋に宿をとっている彼女と雨の岐阜駅で別れた。
翌日、台風の影響でフライトへの影響が懸念されたが、無事、帰沖出来たとのメールが入った。
イヌワシを見ることは出来なかったのはまことに申し訳なかったが、それなりに親交を温めることが出来たと思う。
【追記】ネットには左翼と思しき人の沖縄強姦事件への言及があり、世界情勢から説き起こして自説が延々と述べられていた。オイオイ、あんたもこの事件を「政治的に利用」しているだけではないのかいと思ってしまう。やはり、「自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭う」かも知れぬというところから出発しない限り、沖縄で起こりつつあることは政治的エピソードに解消されてしまうのではないだろうか。
ごもっともではありますが、
日米同盟は堅持していかなければなりません。
旧式のヘリより、オスプレイの方が、事故率は
低いですし、辺野古への移設が進めば普天間基地周辺での危険性は下がります。対中国防衛から、オスプレイの配備は認めるべきです。
沖縄県民の負担を減らしつつ、日米同盟を
安定したものにしてもらいたいものです。
「失敗した革命」からどんなバトンを受け取り、次につないでいくのか、今日Iさんから送っていただいた『遊民』6号を拝読しながら、そんなことを考えていました。
隣県なのに、私は岐阜県を殆ど知りません。
六文銭さんが散策するときに、一度ついて行ってあちこち見てみたいと思います。
ここを論争の場にしたくありませんので詳論は控えますが、やはり賛同はできません。
沖縄国民の負担は軽減どころかますます過重になっているように思います。
とりわけ対中問題は石原のジイさんが火をつけておきながら、すわ緊急事態だから沖縄の重要性がいっそう云々…という論理は当の沖縄の人たちには説得力がないでしょう。
竹田青嗣がどんな文脈でそれを語ったのか知りませんから一概にはいえませんが、その「大所高所」がクセモノだと思います。
これまでどれだけの人が、そうした「大所高所」のために忍従を迫られ泣いてきたことか。
あなたの上にお書きになっている「九条護。」さんもそうした見解ですね。ようするに「大所高所」のためには日米同盟下での沖縄の忍従はやむなしということでしょう。
むろん、そうではないやり方が安易に見つかるとは思いませんが、にも関わらず、そこに踏みとどまってその方法を模索するのが人の道だと思います。
お触れになっている「遊民」6号での拙論は、そうした観点から、「一般意志」=「大所高所」の論理に発する革命がいかに悲惨を増幅してきたかを述べたものです。
岐阜のご案内、けっこうですよ。
ただし、私の足腰が立つ間にして下さい。
身びいきもあるかも知れませんが、岐阜は山紫水明のいいところだと思っています。
濃尾平野の突き当りで、木曽三川が生み出した豊かな自然と、それに寄り添った人の営みが産みだしたものでしょうね。
それは「義の要求」に駆られて「大所高所」に立った者たちによる悲惨な「革命」の歴史が踏まえられているのだろうと思います。
「大所高所」に立つのでなく、「生身の大切な人にひどい目に遭ってほしくない」という「生活の要求」からくる「異議申立て」の表現は、どんな形をとりうるのだろうか?「紫陽花革命」にはその可能性はあるのでしょうか?
岐阜は、温泉もいっぱいあっていいですね。
暑さに弱い私は、できれば夏以外の時期に訪れたいです。しかし、そんなのんびりした時間がなかなかとれぬのが口惜しいです。
イヌワシは残念でしたね。
こうした悪天候の次の朝、待ってましたというように、鳥たちは飛ぶとか。
長浜を案内してくれた、もくの会、あみの会の句友、
碁がめっぽう強かったタモンチャン(先輩をこんな風に呼ぶなんてと思いますが、そう呼びたくなるような良いオトコでした)が、案内してくれた春を思い出します。長浜では、焼きさばのそうめんが美味しかったです。
いわゆる「紫陽花革命」にどれだけの可能性があるのかは未検証ですが、相異なる複数の人間が相互に、しかも自由に自分の意見を展開しこれらを行為として示すことが出来る場は大切だろうと思います。
とりわけ、いわゆる代議制が機能不全な現状において、それを「英雄待望論」のような独裁のベクトルを避けながらクリアーするためにもです。
お忙しそうですが、時にはのほほんとした時間をご自分に与えてやることも必要だと思います。
翌18日も悪天候でしたから、19日がおっしゃるような朝に相当したのでしょうね。
目撃できなかったのは残念ですが、沖縄にはない山の冷気とイヌワシと100m余の距離の空気を吸って、そこそこ我慢をしてもらいました。
そうですか、太門さんのご案内での長浜でしたか。
前におっしゃっていた益臣さんと同行された思い出といい、その土地を今は亡き人とのつながりで思い起こすのは淋しいものがありますが、反面、それらの地がそうした人々を思い起こすよすがとなっている面もありますね。
私は三回ほど訪れていますが、商店街が生きているのがいいですね。