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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

十二支を6回も巡ってやっと分かったこと 薬と私

2011-05-08 11:39:50 | 想い出を掘り起こす
 寄る年波で薬が欠かせないようになった。
 情け無いが毎日お世話になっている。

 覚えている限りでの薬の初体験は、戦中戦後の疎開先で母方の祖母が飲ませてくれた漢方薬であった。
 祖母はそれに精通していて、自分で採ってきた薬草を納屋の天井から束にして吊るし、乾燥させていた。それを求めて結構遠方からやってくる人がいて、祖母は「木薬(きぐすり)屋のカギさん」と呼ばれていた。
 今でいうなら立派な薬事法違反であるが、60年以上前の農村では誰もそれを問題にすることはなく、むしろ一目おかれてさえいた。

 幼年期から少年期の私は、風邪や腹痛などの折、よく飲まされた。センブリやゲンノショウコは子供の口には合わず、飲むのがつらかった。
 普段はやさしい祖母が、そんな折にはつきっきりでそばにいて、ちゃんと飲めと強要するのであった。風邪にはゲンノショウコで、それをアツアツに煎じたものを丼に一杯程飲まされた。そしてすぐに寝るのだが、びっしょりかいた汗をネルの寝間着が吸いとってくれ、翌朝にはケロッと治っていた。
 ゲンノショウコが「現の証拠」という漢方の万能薬であることを知ったのは後年のことである。

       

 街中へ帰ってからはもっぱら西洋医学に依る薬を用いたが、一部、家庭薬として用いたものには丸薬があり、それらは漢方の流れをくむものであったと思う。まだ、越中富山の薬売りが来た頃である。
 あとは粉薬が多かった。それらは独特の包み方で包装されていて、薬を飲んだあとそれを広げると正方形の紙になり、それを折り紙などに使った。まだ紙が貴重だった頃である。
 未だに使えそうな包装紙などを捨てられずにとっておいて、結局じゃまになるのはその頃の名残だろうか。

 錠剤は少なかった。ある種の錠剤は甘みのあるものでコーティングされたいわゆる糖衣錠で、その糖衣が溶けてしまわないうちに飲まねばならないのに、飴玉のようにしゃぶっていると急に苦くなったりした。子どもにとっては甘味もまだ貴重な頃だった。
 カプセル入りというのは、さらにその後出てきたように思う。

 さて昨今であるが、医師が処方をして調剤薬局で出してくれるものは、私の場合ほとんどは錠剤と粉あるいは果粒状のものである。錠剤には糖衣はしてないし、粉や果粒はかつてのあの独特の包み方ではなく、分包といって半透明の四角い袋に収められ、それが繋がっているものが多い。

       

 で、ここからが表題に関連するのだが、意を決して告白するが(というほど大げさなものではない)、私は粉薬や果粒の分包のものを飲むのが実に下手なのである。おもいっきり口を開けてサッと放り込むのだが、必ずといっていいほど袋に残ってしまう。ひどい時には半分ぐらいがまだ袋の中である。

 こうしていつも自分のぶきっちょさを呪っていたのだが、つい最近、あるヒラメキを得て、それ以降は百発百中、一挙に飲むことができるようになった。
 その極意を披露しよう。

 これまで、几帳面な(?)私は袋を破くとき、手紙の封筒を開封するように、袋の上方を開けて飲んでいたのである。ひらめきというのはこうだ。これでは薬が口に達するまでに袋の内側の抵抗が多く、それで残ってしまうのではないかという極めて合理的にして天才的な着眼である。
 それで、試しに袋の半分ぐらいのところを破くようにした。難なく一挙に飲める。さらにはもっと下で破いてみた。サラッと入るではないか。

 これは私にとっては、十二支を6回巡ったところで会得した革命的なテクニックである。かくして私は、日々新たな発見のうちに生き続けている。

 え? そんなことは誰でも知っている? あ、そうですか。
 でも、でもですよ、それを知らずに死ぬより知ってから死んだほうが・・・。
 お前がどんな死に方をしようが知ったことじゃないって、あ~た、そりゃあ冷たいってものでしょう。

ここでトレビア
 写真でご覧のように、大抵の錠剤は10錠でワンシートとなっています。そして、二錠ごとに切り離せるように横方向に折り目が入っています。
 しかし、この折り目、しばらく前までは縦にも入っていて、つまり、一錠ごとに切り離せるようになていたのです。
 それがかえって退化したかのように、二錠ごとにしか切り離せなくなった理由がわかりますか。

 それはです・・・・一錠ごとに切り離せると、悲しいことに私のような老人がその包装ごと飲んでしまう事故が続発したからだそうです。







 
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3 コメント

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Unknown (冠山)
2011-05-10 16:11:56
ゲンノショウコが「現の証拠」とは知りませんでした。錠剤が2錠続きになっている訳も、ありがとう。父が愛用していた黄檗の皮の粉末を煮詰めた「ダラスケ」の語源を教えてください。これは熊の膽だと偽わられても通用した山の高貴薬?でしたが。
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Unknown (六文錢)
2011-05-10 17:07:41
>冠山さん
 私も分からなかったのでいろいろ検索したところ、まず分かったのは、ダラスケとは陀羅尼助が訛ったもので、江戸時代からそれで通っていたようです。
 その由来はいろいろ言われているようですが、一番古そうなのは以下です。

 「飛鳥時代の斉明天皇3年(657)のこと、内大臣の藤原鎌足が急に腹痛をおこして苦しみ、天皇は大変に心配して、百済の禅尼法明に維摩経を唱えさせた。すると験があり薄紙をはぐように鎌足の腹痛が治りました。ところが一説によると、実は役行者が鎌足の病気をなおしたとも伝えられています。」

 ここではまだ薬が出てこないで、霊験のみですね。かなり下って江戸時代の話です。

 【江戸時代の狂歌作者大田蜀山人(おおたしょくさんじん)は「一話一言・1820」で、陀羅尼助(だらにすけ)をとりあげています。「ここに陀羅尼輔(だらにすけ)と言へる薬あり。それを調じぬる所にいたりて見るに、黄檗(おうばく)のなまなましき皮を煮つめたものなり、大峯にて焚ける香のけぶりのたまれる百草をまじへて加持したるものなりなどいへるはよしもなきことなり」と書いています。


 一番面白いものは以下です。

 「陀羅尼助の由来は、強い苦みがあるため、僧侶が陀羅尼(という長~いお経)を唱えるときにこれを口に含み眠気を防いだことからと伝えられる」

 以上、私も黄檗が黄肌の木から採れる以外何も知らなかったのですが、一見、方言など地区限定に見える言葉が歴史的な経緯を背後に持っているというのは面白いですね。
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Unknown (冠山)
2011-05-10 20:14:17
ダラスケの由縁、早速ありがとう。ぼくの子どものころ、村では禁木とされていた記憶があります。つまりそのころ信州から薬種商人が入り乱木されることがあったらしい。今も珍重する村の老人がいます。
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