先ごろ、街を歩いていたら、実に何十年ぶりかで犬に出会った。
などというと驚かれるかも知れないが、それが実感であった。
もちろん、この間、犬という動物を見かけなかったわけではない。
しかし、私が見かける犬たちはたいてい家の塀の中にいて人が通りかかると吠えかかるか、あるいは、飼い主の持つ紐や鎖、リード線でつながれたままで散歩をする犬たちなのである。
先般出会った犬はそうではなかった。
首輪が付いていることからして飼い犬なのだが(野良猫はともかく、都市部で野良犬が棲息できる環境はもはやない)、鎖やリード線はなく、まったく自由に歩いていた。
狭い路地で私とすれ違ったのだが、思わず歩を止めた私を見上げていたその犬はかなり老齢で、多分、飼い主が扉をあけたままにしておいたのを幸い、散歩と洒落こんだのであろう。
私が歩を進めると、何事もなかったように私の横をすり抜けていった。
「おい、車なんかに気をつけるんだぞ」と口の中でつぶやいてその犬を見送った。
私が1980年代から飼っていた由緒正しい雑種。名は「寿限無」
冒頭に何十年ぶりかに犬に出会ったと書いたが、私の子供の頃や、おそらく1960年代頃までは、こんな風景がざらだったのだ。というか、それが普通だったのだ。
嘘だと思うならその頃のマンガ本や雑誌の挿絵を見ると良い。たいてい画面の隅に犬の一匹や二匹は出てくるはずだ。
血統書付きの犬の場合は、よその犬と懇ろになって雑種を生んだりすると困るのである程度管理されていたのだが、庶民が飼う雑種はほとんど放し飼いであった。
今日ではずーっと繋いでおいて、散歩に連れてゆくというのが普通であるが、当時はわざわざ散歩に連れてゆくことなどせず、犬を勝手に行動させておくのが運動だった。
室内犬というかお座敷犬などというのはお金持ちのペットでしかなかった時代で、地方都市の下町ではそれらを見ることもなかった。
飼い主と犬の絆は、縛り付けておくことではなく、その犬に名付けるということと、餌を与えるということ、ねぐらを提供することで、犬のほうもよくしたもので、どこで遊んでいも食事時には帰ってきた。姿が見えなくとも、大声で呼ぶとすっ飛んできた。
だから町中を自由な犬たちが往来していた。
ときとして喧嘩もあったし、路上でまぐわいをするカップルもいて、子供たちがはやし立てたりした。
人を噛んだりしなかったのは、昨今のつながれた犬と違ってストレスなどがなかったからだと思う。
おそらく犬たちは、人間に従属しているという意識などなく、世の中にしかるべく位置を占めていたと思われる。それなりに自由だったわけであり、人間もまた自由に犬と付き合っていた。
私の子供時代、近所に高橋さんといううちがあり、雑種だけどかなり均整がとれたハンサムな犬を飼っていたのだが、それがどういうわけか私になついてしまい、私が出かけると付いてくるようになった。それで私が友だちと遊んでいると自分はそのへんをほっつき歩いていて、私が帰る段になると別に呼びもしないのに一緒に帰るようになった。
そんなことがあって、すっかり私の家族とも打ち解け、飼い主の高橋さんのうちよりも私のうちにいるほうが多いぐらいになった。亡父などはおもしろがって、亡母が止めるのも聞かず、自分の酒の肴を与えたりした。
高橋さんの家族もそうした事情を知っていて、出会うたびに「うちの犬がお世話になりまして」との挨拶があった。なんとものどかな時代であった。
その犬に私は「チャメ(茶目)」と名付けた。性格がチャメっぽいのと、その瞳が茶色っぽかったからである。高橋さんの家では別の名前で呼ばれていたのだが、その名前は覚えていない。
おそらく彼は、どちらの名前にもちゃんと反応したのだと思う。
いわゆる二つ名のお兄さんであった。
一匹の迷い犬から半世紀前の犬の有り様にまで思い出が遡ったわけであるが、やたら懐古的になるのはともかく、昔の犬のほうがずっと自由だったし、そうした犬が自由であった時代は、ひょっとして人間もそうであったのではないかと思ったりする。ようするに、今のペットという感じとはいくぶん違った関係のうちに犬も人もいたように思うのである。
もちろん、今日の交通事情などからしてそこへの回帰は不可能だろうが、こうした飼い方の変化の中で、犬自身が大いに変わってしまったのも事実であろう。
中学生や高校生の頃、夜半まで勉強や読書で起きていると、突然どこかで犬の遠吠えが始まり、それに連鎖するようにあちこちでそれが聞こえたものであるが、ここ何十年、もはやそれを聞くことはない。
犬たちは、もはや自分の体内に流れる狼の血潮を忘れてしまったのだろうか。人間が幾多のものを忘却してしまったように。
完全に管理された犬、そして同様に管理された……。
などというと驚かれるかも知れないが、それが実感であった。
もちろん、この間、犬という動物を見かけなかったわけではない。
しかし、私が見かける犬たちはたいてい家の塀の中にいて人が通りかかると吠えかかるか、あるいは、飼い主の持つ紐や鎖、リード線でつながれたままで散歩をする犬たちなのである。
先般出会った犬はそうではなかった。
首輪が付いていることからして飼い犬なのだが(野良猫はともかく、都市部で野良犬が棲息できる環境はもはやない)、鎖やリード線はなく、まったく自由に歩いていた。
狭い路地で私とすれ違ったのだが、思わず歩を止めた私を見上げていたその犬はかなり老齢で、多分、飼い主が扉をあけたままにしておいたのを幸い、散歩と洒落こんだのであろう。
私が歩を進めると、何事もなかったように私の横をすり抜けていった。
「おい、車なんかに気をつけるんだぞ」と口の中でつぶやいてその犬を見送った。
私が1980年代から飼っていた由緒正しい雑種。名は「寿限無」
冒頭に何十年ぶりかに犬に出会ったと書いたが、私の子供の頃や、おそらく1960年代頃までは、こんな風景がざらだったのだ。というか、それが普通だったのだ。
嘘だと思うならその頃のマンガ本や雑誌の挿絵を見ると良い。たいてい画面の隅に犬の一匹や二匹は出てくるはずだ。
血統書付きの犬の場合は、よその犬と懇ろになって雑種を生んだりすると困るのである程度管理されていたのだが、庶民が飼う雑種はほとんど放し飼いであった。
今日ではずーっと繋いでおいて、散歩に連れてゆくというのが普通であるが、当時はわざわざ散歩に連れてゆくことなどせず、犬を勝手に行動させておくのが運動だった。
室内犬というかお座敷犬などというのはお金持ちのペットでしかなかった時代で、地方都市の下町ではそれらを見ることもなかった。
飼い主と犬の絆は、縛り付けておくことではなく、その犬に名付けるということと、餌を与えるということ、ねぐらを提供することで、犬のほうもよくしたもので、どこで遊んでいも食事時には帰ってきた。姿が見えなくとも、大声で呼ぶとすっ飛んできた。
だから町中を自由な犬たちが往来していた。
ときとして喧嘩もあったし、路上でまぐわいをするカップルもいて、子供たちがはやし立てたりした。
人を噛んだりしなかったのは、昨今のつながれた犬と違ってストレスなどがなかったからだと思う。
おそらく犬たちは、人間に従属しているという意識などなく、世の中にしかるべく位置を占めていたと思われる。それなりに自由だったわけであり、人間もまた自由に犬と付き合っていた。
私の子供時代、近所に高橋さんといううちがあり、雑種だけどかなり均整がとれたハンサムな犬を飼っていたのだが、それがどういうわけか私になついてしまい、私が出かけると付いてくるようになった。それで私が友だちと遊んでいると自分はそのへんをほっつき歩いていて、私が帰る段になると別に呼びもしないのに一緒に帰るようになった。
そんなことがあって、すっかり私の家族とも打ち解け、飼い主の高橋さんのうちよりも私のうちにいるほうが多いぐらいになった。亡父などはおもしろがって、亡母が止めるのも聞かず、自分の酒の肴を与えたりした。
高橋さんの家族もそうした事情を知っていて、出会うたびに「うちの犬がお世話になりまして」との挨拶があった。なんとものどかな時代であった。
その犬に私は「チャメ(茶目)」と名付けた。性格がチャメっぽいのと、その瞳が茶色っぽかったからである。高橋さんの家では別の名前で呼ばれていたのだが、その名前は覚えていない。
おそらく彼は、どちらの名前にもちゃんと反応したのだと思う。
いわゆる二つ名のお兄さんであった。
一匹の迷い犬から半世紀前の犬の有り様にまで思い出が遡ったわけであるが、やたら懐古的になるのはともかく、昔の犬のほうがずっと自由だったし、そうした犬が自由であった時代は、ひょっとして人間もそうであったのではないかと思ったりする。ようするに、今のペットという感じとはいくぶん違った関係のうちに犬も人もいたように思うのである。
もちろん、今日の交通事情などからしてそこへの回帰は不可能だろうが、こうした飼い方の変化の中で、犬自身が大いに変わってしまったのも事実であろう。
中学生や高校生の頃、夜半まで勉強や読書で起きていると、突然どこかで犬の遠吠えが始まり、それに連鎖するようにあちこちでそれが聞こえたものであるが、ここ何十年、もはやそれを聞くことはない。
犬たちは、もはや自分の体内に流れる狼の血潮を忘れてしまったのだろうか。人間が幾多のものを忘却してしまったように。
完全に管理された犬、そして同様に管理された……。
野良犬は捕獲せねばならぬという狂犬病予防法があるけれど、野良猫にはそれに類する法規がないから、という説明が大方ですが、しかし狂犬病予防法は昭和28年から施行されています。
思うにかっては、今のように見かけると直ぐに保健所に電話するといったことはなかった!
猫も、保健所に連絡すれば引き取りにきてくれるはずですが、犬のように吠えたり噛みつくことはしないので、SOSの発信が少ない、ということではないでしょうか。
たぬきはどうでしょうか。先日、滝の水公園に現れたとの報がありましたが、東京23区には約千頭いるそうです。これって、東京は名古屋より緑が多い証左にはならないでしょうか。
「犬が欲しい」とキャバクラでおねだりすると、やさしい男性は遅くまで営業しているペットショップで、生後間もない犬を買ってあげます。そして、美しき女性は翌日にその犬をそのペットショップに売り、現金を稼ぎます。
管理どころか、何も知らず利用されている。
どこかで聞いたような話です。
日本に帰って、特に東京の都心などを歩くと、犬がほんとうに小さくて小さくて、犬にも飼い主にも悪いけど、あれは犬ではなく“犬もどき”だと思っています。犬から遠吠えの自由と快楽を奪ったのは、間違いなく人間の科学テクノロジーで、それがやがて犬以外の生物にも適用させてゆく時代が来るのではないかと考えると恐ろしいです。
街中で野犬を見ることはありませんね。
猫はいますが首輪を付けていないのでどれが野良か分かりません。
狸は60年安保の直前まで、当時未整理だった名城公園にいて、学生会館にいた猛者どもが捕まえて狸汁にしたとか、しようとしたが捕まらなかったとかの話を聞いたことがります。
>Tさん
ペットまでそんなことに利用されているのですか。
ルイ・ヴィトンなどを複数の人におねだりし、ひとつだけを残してあとは「コメヒョー」に売っぱらい、残ったひとつをそれぞれのパトロンに見せて「これがあなたに買ってもらったの。ありがとね」という話は聞いたことがあります。
子犬もヴィトンも買ってあげられない身としては、そうした女性のたくましさにまずは喝采です。
>maotouyingさん
やはりそちらの犬はまだ本性を残しているようですね。
私がなつめに感じるのは自由な犬と人間の関係です。
人間は人間の世界を持ち、犬は犬の世界を持ち、かつてはそれがクロスオーバーする限りにおいてお互いを規制していました。
しかし、昨今では力関係で優位にたった人間が犬の世界をほぼカバーし支配し尽くすようになりました。
しかし、わずか半世紀、犬の世代にして五世代で遠吠えの能力を失うとは・・・。
たまたまお書きになっているテクノロジーの問題については最近小論を書きました。むつみの竹内氏の方に送ってありますので、機会がありましたらご笑覧を。