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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「死ぬということ」 友人への返事(Ⅱ)

2012-10-07 14:40:57 | よしなしごと
 昨日書いた友人へのメールに、「死を考えることは悲観的で、生を考えることは楽観的では」ということをほのめかす返事が来ましたので、それへの返信を書きました。

               

 Sさん 私の書いたものに付き、楽観・悲観の対比で誤解があるといけませんので補足させて頂きます。
 ハイデガーとアーレントを引き合いに出しましたが、一般に「死の哲学者」と言われている前者が悲観的で、「始まりの哲学者」と言われている後者が楽観的なわけではありません。

 むしろ、「死に先駆けて本来性を生きる」とする人達のほうがおのれの信ずる「本来性」、例えばある政治的な立場などを選択し、そこに安住し楽観的でいられることが多々あるのです。特攻隊員がそうした書で自己に課せられた理不尽な死を受容するという話も読みました(これらがハイデガーの本意に即するかどうかはひとまず置いておきます)。

 逆に、おのれの生が日々「始まり」だとするならば、そこに本来性などというものはありません。まさに手すりなき道を他者と出会いながら一歩一歩進むのみです。
 この場合には、悲観とか楽観を越えた境地を生きるということだろうと思います。

 私の好きな言葉に、「セ・ラ・ヴィ」というのがあります。直訳すれば「これが人生だ」で諦観としても使われたりしますが、私の場合には、どこかにおのれの本来の生き方のようなものがあって、そこから自分は逸脱しているのではと考える(いわゆる「疎外論」ですね)のではなく、まさにこれこそが、おのれが選びとってきた生そのものに違いないのだし、これ以外にないのだといった意味に受け止めています。

 これは死にもいえることで、「本来的な死」などありようもなく、また誰も私の死を死んでくれるわけでもないのですから、死の瞬間にも「これぞわが死」といって死ぬことが出来ればいいと思っています。
 ただし、これは「これぞわが生」の続編ですから、おのれの生を悲観的にせよ楽観的にせよ、ある囲いの中で飼育されたかのように考える立場とは無縁です。

 手すりなき生と手すりなき死、それあるのみではないかと考えています。
 おや、振り出しに戻ってしまったかも知れませんね。


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1 コメント

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Unknown (只今)
2012-10-07 16:57:36
 ハイデガーの「覚悟」とも、サルトルの「不条理な不意打ち」とも違う(死)を鶴見俊輔さんは提示してくれています。
 3千年前のインドで、戦争に赴く兵隊が、“死ぬことは死を終わらせるだろう”と言って出掛けたというんです。
 死ぬということは生きているからあるわけで、死んでしまえば死から解放される。
 鶴見さんは「これに私は打たれた」。
 鶴見さんの僚友、多田道太郎はこう詠みました。
  「あぁそうか、そういうことか秋の風」
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