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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

春の屁理屈・木曽川早春賦・トイレの桜

2008-03-17 15:07:44 | よしなしごと
 春は静謐なものから何か躍動するものへの飛躍としてやってくる。
 よく、生命の始まりに例えられるがそうではあるまい。なぜなら例え冬の間とはいえども、また、例えそれが秘やかであるとはいえ、生命は継続しているからだ。

 
        早春の木曽川 私の家から車で10分

 生命の華やぎというのはある程度あたっているかもしれない。
 確かに「陽」への転化であるには間違いないし、それは夏の色濃い生の謳歌へと続くからである。

 私たちのところにあるようなかなり目鼻立ちがクッキリした四季の織りなす様は、躁鬱症のリフレインにも似ているようだ。
 春から夏への躁状態、そして秋から冬への鬱状態・・。
 ただし、これは単なるアナロジーに過ぎない。私自身が鬱症状に悩まされたのは、まさに夏の真っ盛りであったのだから。若き日、私はヒッキーとして一夏を自分の部屋でやり過ごしたのだった。

 
           同じ箇所で 対岸は愛知県

 季節の変わり目には、人間の肉体も精神も連動して多かれ少なかれ変化を生じるという。別に不思議ではない。人間がそうした外的な変化から切り離されて存立しうると考える方が傲慢なのではなかろうか。

 
      トイレの窓から桜が見えたっていいじゃぁないか
        私の家のトイレから見える早咲きの桜


 だから、季節のさざめきは、コンクリートジャングルの中で、数字とにらめっこばかりして過ごさねばならない人のうちにも、きっと原始のメッセージを運ぶものだと信じたい。

 写真は、そうした季節の移ろいを短時間の間に経験したので、それを載せてみた。

 
                同 上

 最後の写真は、トイレの盗撮ではなく、トイレの中からの盗撮である。
 必至に自転車を漕いでいた女学生さん、ゴメンネ。

 





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