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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

さよならさくら 最後の最後の最後の桜

2010-04-15 00:32:27 | よしなしごと
     もう今年は桜については書きません。
     狂乱にも似た桜の渦にすっかり酔ってしまったからです。
     敢えて説明も加えません。


    
       
       
    
    
    
    
       
       
  
    
  
    
       
       
  
    
  
    
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2 コメント

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Unknown (冠山)
2010-04-15 22:46:12
昔、山の村から町へ出て来ると桜がさいていた。そのときは村の桜はかたい蕾のまままで、町から村への桜前線は一か月くらいかかってやってきました。同じ村のなかでも桜前線はゆっくり動いていました。いろいろな桜をありがとう。あの桜、この桜、少年の日に兵として眺めた桜、大人になって眺めた桜、その折々の桜がなつかしいなどというのは面映ゆい。来年もまたあなたのブログで眺めたいですな。
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Unknown (六文錢)
2010-04-16 14:22:43
>冠山さん
 いろいろな桜をご覧になってこられたのでしょうね。
 私は、上の写真のような絢爛豪華な桜もワオーッという気分で嫌いではないのですが、山里にぽつんと咲くものも好きです。

 時々夢に出てくるような印象深い桜があります。
 渓流によく通った頃、アマゴやイワナのいそうな流ればかり見つめているのに疲れて、ふと目を上げたとたん、対岸の山肌の新緑の中に、艶然と咲いていた山桜。

   もろともにあわれと思え山桜
      花よりほかに知る人もなし  行尊

 という歌がありますが、そのとき、なぜかそれは違うと思いました。「知る人」がいようがいまいが花は咲き、「あわれ」なんぞは勝手で恣意的な人の情に過ぎないと思ったのでした。
 以降、花と無常観などを結びつけることには眉唾です。

 もっとも上の歌は、情景そのものではなく、ある種の寓意を歌っているのでしょうから、それ自身は否定しませんが。

 あ、それから、その谷のことなのですが、夢にまで出てくるのに、それがどこであったのかさっぱり思い出せないのです。
 徳山近辺の谷にもよく行きましたから、そこかも知れませんし、複数の経験が合成されたものかもしれません。
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