近くの空き地で、曼珠沙華が雨に濡れていました。
この花を見ると思い出す歌があります。
「長崎物語」という歌で、別名「ジャガタラお春の歌」といいます。
1939年(昭14)年に、作詩:梅木三郎 作曲:佐々木俊一 唱:由利あけみでリリースされた歌なのですが、さすがの私も、この時期のものを知っているわけではありません(もう、生まれてはいましたよ)。
私が耳にしたのは、敗戦(1945・昭20)になって以後です。その頃の歌謡曲は結構長持ちしたのです。
歌詞は以下のようです。
1 赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち
3 坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が あゝ流れ行く
ララ流れ行く
4 平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
この歌の主人公お春という少女は、長崎にいたイタリア人と日本人女性の間の子供でしたが、1639(寛永16)年、幕府の鎖国政策の一環として、当時、長崎市中に在住していた外国人とその家族287人と共々バタビアのジャガタラ(現インドネシアのジャカルタ)へ追放されてしまったのです。
当時14歳で、母方の祖父の元で日本人として育てられていたお春は、嘆き悲しむのですが幕府の権力の前にはどうしようもなく、泣く泣く平戸の港から送り出されてしまうのでした。
しかし、お春の望郷の念は止みがたく、その思いを切々と綴った手紙が届くようになります。
それがいわゆるジャガタラ文といわれるもので、「あら、日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや・・」などと書かれていました。
しかし、ついに彼女は、その最期まで、日本の土を踏むことは出来ませんでした。
「長崎の鶯は鳴くいまもなおじゃがたら文のお春あわれと」
は、歌人、吉井 勇のの歌です。
当初は、この異国情緒に溢れた歌詞が幼い私を魅了したのでしょうが、長じるにつけ、国というものが人の定めを有無をいわせず左右する理不尽さ、それにもかかわらず、当時の禁制を破って遠いジャガタラの地から文を届けるという熱い望郷の念などがいっそうの感興をよぶようになりました。
曼珠沙華を見る度に、この歌のメロディが頭の中で湧き上がります。
ましてや、雨に打たれた曼珠沙華など見た日には、その水滴を宿した真紅の花が370年前の少女の嘆きと血の叫びを象徴しているようで、切ない思いがこみ上げてくるのです。
この花を見ると思い出す歌があります。
「長崎物語」という歌で、別名「ジャガタラお春の歌」といいます。
1939年(昭14)年に、作詩:梅木三郎 作曲:佐々木俊一 唱:由利あけみでリリースされた歌なのですが、さすがの私も、この時期のものを知っているわけではありません(もう、生まれてはいましたよ)。
私が耳にしたのは、敗戦(1945・昭20)になって以後です。その頃の歌謡曲は結構長持ちしたのです。
歌詞は以下のようです。
1 赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち
3 坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が あゝ流れ行く
ララ流れ行く
4 平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
この歌の主人公お春という少女は、長崎にいたイタリア人と日本人女性の間の子供でしたが、1639(寛永16)年、幕府の鎖国政策の一環として、当時、長崎市中に在住していた外国人とその家族287人と共々バタビアのジャガタラ(現インドネシアのジャカルタ)へ追放されてしまったのです。
当時14歳で、母方の祖父の元で日本人として育てられていたお春は、嘆き悲しむのですが幕府の権力の前にはどうしようもなく、泣く泣く平戸の港から送り出されてしまうのでした。
しかし、お春の望郷の念は止みがたく、その思いを切々と綴った手紙が届くようになります。
それがいわゆるジャガタラ文といわれるもので、「あら、日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや・・」などと書かれていました。
しかし、ついに彼女は、その最期まで、日本の土を踏むことは出来ませんでした。
「長崎の鶯は鳴くいまもなおじゃがたら文のお春あわれと」
は、歌人、吉井 勇のの歌です。
当初は、この異国情緒に溢れた歌詞が幼い私を魅了したのでしょうが、長じるにつけ、国というものが人の定めを有無をいわせず左右する理不尽さ、それにもかかわらず、当時の禁制を破って遠いジャガタラの地から文を届けるという熱い望郷の念などがいっそうの感興をよぶようになりました。
曼珠沙華を見る度に、この歌のメロディが頭の中で湧き上がります。
ましてや、雨に打たれた曼珠沙華など見た日には、その水滴を宿した真紅の花が370年前の少女の嘆きと血の叫びを象徴しているようで、切ない思いがこみ上げてくるのです。
じゃがたら文ですぐに思い出すのが、名古屋の「裁断橋」の堀尾金助の母の文です。ここではとっくの昔に触れられていると思うのですが。あれも女性の書いた“日本三大名文”のひとつとかいうそうですが、あとひとりは誰なんでしょう?
私がいまいる黄土高原の村々に住む老人たちのほとんどは読み書きができず、女性に至っては、自分の名前すらかけない人がほとんどです。あの時代に堀尾金助の母はなぜ文字が書けたのでしょうか?
修学旅行の引率、やっと終わったようですね。
あなたのブログからも中国の破天荒な発展ぶりと一方でのアンバランスがよくわかりますね。
ところで堀江金助とその母について、金助という名から下級武士を思わせますが、その父吉晴は秀吉の部下で大名格、その母も身分の高いところから嫁いできたようです。
ですから、橋を架け替えるという財力もあったわけです。
女性ではありませんが、有名な手紙としては
「拝啓一筆 火の用心
おせん泣かすな 馬肥やせ」
というのがあり、これを書いたのは本多作左衛門重次という武将で、1575(天正3)年、長篠の合戦で陣中からその妻宛に出したものです。
なお、おせんは女の子だとばかり思っていたのですが、仙千代という男の子だそうです。今回、確認して始めて知りました。
読み書きが出来ない人は日本でも、私の祖父母の年代ではままありました。
先般、私が担当している川柳欄に、
「字を知らぬ母が教えた人の道」
という句が寄せられましたが、この作者は80歳代の方で、実体験のようです。
まったく「和諧号」が聞いてあきれるところは、ママありました。ここだけの話だけど、中国の悪口書き出したらキリがないです。
あ、ゴメンナサイ。
「堀江」は私のミスタイプで、「堀尾」で正しいのです。
ただし、それ以下に書いた内容については「堀尾」のものとして事実です。
ですから、あなたの記憶が曖昧なわけではありません。
中国についての批判は難しいものがあります。
というのは、同じ現象を取り上げながらも、嫌韓嫌中派といった民族差別的な視点のものとは明らかな差異のもとに語らねばならないからです。
そうしないと、現実的な中国の政策などへの批判が、彼らの劣等性故といった民族の問題に還元され、ひいては、日本民族バンザイへと傾斜する可能性があるからです。
彼らにとっては、様々な問題で苦しむ中国の人々のことなんかはどうでもいいのです。「だから中国は駄目なんだ」という結論を導くためにそれらは利用されるのみです。
野口英世の無学な母が、異国の息子に送ったという
右を向いても、祈っております、左を向いても祈っております、帰ってきてくだされ、云々。とか言う手紙が、有名だったと思います。
私は、マラソン選手、円谷幸吉さんの、何々様、
何とかおいしゅうございました。何々様、何々おいしゅうございました、と親兄弟、親類の人たちに、
もてなされたことを、思い出して礼を述べ、「幸吉は、もう走れません」と書き残した遺書が、一番
胸に応えます。
金メタルを、日章旗を、と言う周りの期待に押しつぶされた、マラソンランナーの優しい言葉には、思い返すたび、泣かされるのです。
これを思い出すと、私も今でも涙がにじみます。歳がバレますが。
ちょうど昨夜、日本言語学を学んでいる中国人の友人と話していて、「日本人はなぜすぐに自殺したがるのか、どうしてもわからない」という話になりました。これはこの間たびたび話題になることで、それに対して私は「中国人はなぜ簡単に人を裏切るのかわからない」という質問を返しています。これはもちろん、彼女との会話の中だけで成立している言い方ですが、呂布から戦争中の“金皮隊”まで、やっぱり私には理解できないのです。“自死の美学”みたいなものはわかるような気がするのですが。
先のオリンピックで棄権した、国民的英雄劉翔なんか、最近もテレビで「もうすっかりよくなりましたから、次は頑張ります」なんてケロッとしていってました。あれだけ、“国辱”とネットで批判されたのもすでに遠い昔のこと。今話題になっている乳製品メーカーのイメージキャラクターやって豪華マンション建てたそうですが。
皆さんに刺激されて私もある手紙を思い出しました。
それは、私の高校の先輩に当たる松井栄造氏の手紙(実質上の遺書)です。
昭和10年代の中頃、県岐阜商の野球部は黄金時代を迎え、全国制覇を繰り返すのですが、その折のレギュラー9人のうち、5人までが戦死しています。
そのうちの松井氏の最後の手紙(「では征って参ります」)が、墨跡も鮮やかにして繊細で、心打つものがあります。
長くなりますので、引用はしませんが、以下からその直筆の文面を見ることができます。
http://www.kengisho.ed.jp/dosokai/epi_2.htm