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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私が行ったところ 最後の航空写真をご覧ください!

2011-11-19 15:44:15 | よしなしごと
 中国から持ち帰ったものを整理していたら山西省の地図が出てきました。
 私が行ったところは地球上でどんな位置にあるところなのか本当は行く前に調べてゆくべきでしたが、ずぼらな私はおおよその見当だけで出かけたのでした。

 まずは山西省が日本や中国全土との関係でどこにあるのかを示した部分が見つかりました。わかりやすいですね。

       
 
 次に山西省全体の地図です。
 これを見た途端、「ア、長野県にそっくりだ」と私がいったら、ほかの人達も同意してくれました。そればかりか、今回の旅では長野県の出身者や長野在住の人が多かったので、長野県と比較して「ホラ、ここがどこそこでこの辺りもそっくりだ」と感嘆しきりです。

            

 この省の上、北側はもう内モンゴルです。
 内モンゴルとの省境にはあの万里の長城があります。
 また、西側は黄河を挟んで陜西省です。
 そのおとなりの省は川越しに眺めただけでした。
 私たちが川沿いに走った範囲では橋はまったくありませんでした。
 だから、毛沢東が黄河を渡ったという地点が、その歴史的意味と共に伝えられていて、でっかい碑まで建つのでしょうね。

 先ほどこの山西省が長野県に似ているといいましたがその広さは一桁違います。長野県が13,560 k㎡なのに対し、山西省は134,200 k㎡と、約10倍になります。
 日本でも有数の広さを誇る長野県の10倍なのです。
 ちなみに北海道は77,984.15 km?ですからそれと比べても2倍近い広さです。

       

 その広い山西省のどのへんに行ったかというと、南北にすればほぼ中央、東西にすれば西よりのところです。
 拡大した地図の左のほうに「臨県」という字(赤い四角で囲みました)がぽつねんと見えるでしょう。そのあたりです。いかになんにもないところかほとんど書き込みがないところから見てもお分かりでしょう。
 その東の方に赤丸の白抜きがある辺りは太原に近い平地といえます。
 私たちが拠点とした「賀家湾村」はその「臨県」のほんの一部に過ぎません。

 中国式にその所在を書くと「山西省呂梁市臨県招賢鎮賀家湾村」となります。
 グーグルのマップで検索するとちゃんと表示されます。

 自分の行った場所を後追いで確認しているなんて馬鹿ですねぇ。
 そんなものは行く前に把握しておくべきですよね。
 
 最後にいささか長ったらしいのですが、以下をコピーし、アドレスバーにペーストをしてみてください。
 私が行った山西省呂梁市臨県招賢鎮賀家湾村の航空写真をご覧いただけます。
 等高線のようにうねっているのはすべて段々畑です。
 すこし写真を動かしていただいても辺り一帯が同様の風景です。
 「耕して天に至る」というのがよくお分かりいただけるかと思います。
 そして私がそこへ行きたかったわけも・・・。

http://maps.google.co.jp/maps?
f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E5%91%82%
E6%A2%81%E5%B8%82%E8%87%A8%E7%9C%8C%E6%8B%9B%E8%B3%A2%E9%8E%AE%
E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%B9%BE%E6%9D%91&aq=&sll=37.672841,110.931385&sspn=
0.002475,0.004576&vpsrc=6&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E4%B8%AD%E
8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E5%B1%B1%
E8%A5%BF%E7%9C%81+%E5%91%82%E6%A2%81%E5%B8%82+%E8%87%A8%E7%9C%8C
+%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%B9%BE%E6%9D%91&ll=37.675822,110.953009&spn=0.004
951,0.009152&t=h&z=17
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1 コメント

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Unknown (冠山)
2011-11-20 20:26:56
航空写真、観ました。父の軍隊手牒を見ると、昭和13年3月、太原附近警備、4月、6月、徐州會戦間ニ於ケル山西粛清戦ニ参加、という文字があり、もう一度見直しています。
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