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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

接写とガリレオの望遠鏡

2009-11-23 22:42:21 | フォトエッセイ
 最近、このブログに載せる写真のほとんどは最近手に入れたケイタイに付属したデジカメで撮っています。
 デジカメ特有の奥行きのなさなど不満はありますが、かなりの接写が利くという点では満足しています。

 

 人間の視線にとって、不可視の紫外線や赤外線はさておき、遠くのものを引き寄せて見ることや小さなものを拡大して見るというマクロやミクロの世界の開けは、何か自分の能力が拡大したかのように思われるものです。そしてそこに、自分にとっての新しい世界が開けたようにも思えます。

 

 とはいえそれが、ただ既存の自己を投影したに過ぎないような世界だとしたら、そこには本当に新しいものは何もなく、何らかの別の想像力が挿入されないと新しさには至らないのではとも思うのですが、ただし、ハンナ・アーレントにいわせると、そんな観照よりもガリレオの望遠鏡こそが世界を変えたということになるのです。
 ようするにそれは、コペルニクスによる天動説の発見よりもむしろ影響の大きいものがあったというのです。というのは、コペルニクスが観照の対象として理論的に考え出した宇宙における地球の位置関係を、ガリレオは感覚的に見えるものとして実証したのであり、その方がはるかに衝撃的だったというわけです。

     
 
 歴史的事実に照らしてもそうかも知れません。当時のバチカンは、コペルニクスの著書「天体の回転について」は単なる数学的理論書としてこれを禁書にはしなかったのですが、ガリレオに対しては裁判という厳しい措置で臨み、有罪の断定を下したのでした。そしてその著書は長らく発禁であったばかりか、彼自身の死後、その遺体をカソリック教徒として埋葬することも禁じたのでした。

 

 ようするにガリレオの望遠鏡は、地球を宇宙的な場の一部として見るという視点を開き、もって地球が唯一不二の聖なる星ではなく、宇宙の中心でもないことを「感覚的に」知らしめたのでした。感覚的というのは、ガリレオの望遠鏡によれば万人にその確認が可能なのであり、コペルニクスの観照の影響より遙かに現実性をもっていたということです。
 その意味で、バチカンがコペルニクスよりガリレオをより忌避したのは当然の措置であったといえます。

 
 
 それはさておき、そんなうんちくとは関係なく、私は無邪気にレンズを出来うる限り対象に近づけて遊んでいるのです。
 ガリレオさん、ゴメンチャイね!

   菊はいずれも大輪のものではありません。




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