一昨日のことです。
夕方、いかにもアメリカ人の若者という二人連れがやって来ました。
名乗らなくともすぐわかりました。この近くにあるモルモン教会の宣教師です。
で、彼らは幾分ぎこちない日本語でいいます。
「ワタシハモルモンキョカイノモノデス。アシタ、ワタシタチノニワデボンオドリシマス。キテクダサイ」
昼間の会場 後がモルモン教会
モルモン教と盆踊り?と不思議に思われるのは無理もありません。
私の地区では町内ごとに小規模な盆踊りが行われるのですが、私の町内にはそうした広場らしい広場がありません。
で、その盆踊りというのはここ何年かモルモン教会の庭で行われるのです。
踊りが始まった
しかもそのモルモン教会というのが私の家から直線距離にして50m足らず、窓を開ければ毎日否が応でも見えるところなのです。
そこから若い宣教師たちがヘルメットを被り、自転車で宣教に出かけます。
それらもまた、毎日見慣れた風景なのです。
やぐら太鼓と裏方さん
しっかり踊ってらっしゃい 歓談も楽しみのうち
しかし、今年のようにわざわざ盆踊りのお知らせをもって回ったのは初めてのようです。もちろんそれには無料英会話教室だとか協会行事の宣伝もついていましたが。
休憩を挟んでおどりの再開
ともかく、地域と密接でありたいという意志の表れでしょうね。
キリスト教の中でも異端やカルト扱いされ(コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズの初期のもの『緋色の研究』にもそうした記述があります)てきた彼らですが、かえって日本の無宗教性のようなものが幸いしているのかも知れません。
美脚集団の登場
ところで、盆踊りの写真というものを初めて撮ったのですが、夜間で、しかも絶え間なく動いているものは難しいですね。
だいたい盆踊りは、日本舞踊と違って、決めという静止の部分がなく絶えず動いていますからね。
まあ、気分だけでも味わって下さい。
わたしのわたしによるわたしのためのおどり それでいいのだ
夕方、いかにもアメリカ人の若者という二人連れがやって来ました。
名乗らなくともすぐわかりました。この近くにあるモルモン教会の宣教師です。
で、彼らは幾分ぎこちない日本語でいいます。
「ワタシハモルモンキョカイノモノデス。アシタ、ワタシタチノニワデボンオドリシマス。キテクダサイ」
昼間の会場 後がモルモン教会
モルモン教と盆踊り?と不思議に思われるのは無理もありません。
私の地区では町内ごとに小規模な盆踊りが行われるのですが、私の町内にはそうした広場らしい広場がありません。
で、その盆踊りというのはここ何年かモルモン教会の庭で行われるのです。
踊りが始まった
しかもそのモルモン教会というのが私の家から直線距離にして50m足らず、窓を開ければ毎日否が応でも見えるところなのです。
そこから若い宣教師たちがヘルメットを被り、自転車で宣教に出かけます。
それらもまた、毎日見慣れた風景なのです。
やぐら太鼓と裏方さん
しっかり踊ってらっしゃい 歓談も楽しみのうち
しかし、今年のようにわざわざ盆踊りのお知らせをもって回ったのは初めてのようです。もちろんそれには無料英会話教室だとか協会行事の宣伝もついていましたが。
休憩を挟んでおどりの再開
ともかく、地域と密接でありたいという意志の表れでしょうね。
キリスト教の中でも異端やカルト扱いされ(コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズの初期のもの『緋色の研究』にもそうした記述があります)てきた彼らですが、かえって日本の無宗教性のようなものが幸いしているのかも知れません。
美脚集団の登場
ところで、盆踊りの写真というものを初めて撮ったのですが、夜間で、しかも絶え間なく動いているものは難しいですね。
だいたい盆踊りは、日本舞踊と違って、決めという静止の部分がなく絶えず動いていますからね。
まあ、気分だけでも味わって下さい。
わたしのわたしによるわたしのためのおどり それでいいのだ
ここ名古屋では、かって新聞の大きなコーナーを占めていた「盆踊り案内」も、今日は僅かに三会場のみ。
盆踊りの最盛期は昭和30年代と聞き、頷くところがありました。
地域の盆踊りに加わった最初にして最後の年は1960年。会場は家の前の城山病院でした。
この病院は、総合病院になるまで精神病院だったので、そうした患者も踊りの輪にいました。
西東三鬼に、“狂院をめぐりて暗き盆踊”というクライ句がありますが、私にとっては念願の抽選に当たった住宅地での心たのしい踊りの輪でした。
翌年この病院で長男を出生しました。たしかK子さんの長女の出生もこの病院ではなかったかと。
最初、「郷土歌い」かと思いました。我に返って本論の盆踊り。盆踊りといえば「炭坑節」と直結します。少し考えていますと「常磐炭坑節」を思いだしました。そして佐野真一の指摘。同じエネルギー産業でありながら、炭鉱には「歌」と「物語」があった。それに対して原発は誕生から四十年以上も経っているのに「歌」も「物語」も生まれなかった。
「炭坑節」から:
月が出た出た 月が出た うちのお山の 上に出た
あまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ
「常磐炭坑節」から:
おらが炭鉱でヨ 見せたいものは 男純情とよい女
おらが炭鉱にヨー一度はござれ 義理と人情の花が咲く
炭鉱労働者には ♪月が出た出た♭ が生まれたのに
原発労働者には何故、〈原発節〉が生まれなかったか、と問うた佐野真一に、新進気鋭の開沼博が答えました。
=彼らは危険ということを知りながら、自分を騙しているその負い目が何も生み出さないという差別性につながったのだと思う=
私の住んでいる町内の中核は古くからの集落で、こうした結束は固いようです。
ここへ移住してきた頃、〇〇さんの家に米一合をもって集まれというので何かと思って行ったら、その〇〇さんの家が新しい仏壇をこしらえたのでそのお披露でした。
公私や信教などの区別なく、何かがあれば集まる風習のようです。
はじめは煩わしくも思いましたが、齢を重ねると地区の情報や相互の安否など、それ自身がある種のセーフティネットの役割を果たしているのではと思うようになりました。
>bbさん
久しぶりに「常盤」の方を思い出しました。
でもこの2つの炭坑節、常盤のほうが古いようですね。
炭坑節も戦前からお座敷では歌われていたものの、全国に流布するのは1948年にレコード各社がリリースしてヒットしたことによるようです。
原発、やはり歌も物語もなじまないでしょうね。
あの管理された無機質な世界に人の情が入り込む余地はありませんものねえ。
外部からそれを歌ったものに、故・忌野清志郎の「サマータイム・ブルース」などがありますが、発売元の東芝がお蔵にしたことはご存知だと思います。
>にんじんさん
なるほど、です。
(私も「ただしかつては・・」に当てはまる、すぐ疲れる高齢者モルモンです。)