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名古屋駅西物語 「駅裏」の名残りを体験する

2011-08-08 17:10:34 | 想い出を掘り起こす
 名古屋の駅西界隈はかつては「駅裏」といわれ、山谷や釜ヶ崎と並んで日本の三大スラムだといわれたことを知る人はもう少ないだろうと思います。
 私が名古屋へ初めて通い始めた学生時代(もう55年前です)、「まかり間違っても駅裏へは行くな」と先輩たちにいわれました。「怖いところだ」、「何があるかわからないところだ」というのが一般的な風説で、そこにはその土地とそこに住む人たちへのいささかの差別意識も混じっていたと思います。

        
                  名古屋駅一番線ホーム

 「駅裏の飲食店で出している肉は犬や猫のものだ」ともいわれました。スガキヤの豚骨ラーメンの出汁は蛇の肉を使っているなどともいわれた頃の話です。
 駅裏で飲み、酔って寝ていたら身ぐるみ剥がれてパンツ一丁になっていた、などという話も聞きました。
 
 しかし、行くなと言われるとつい行きたくなるのが若者の心理、恐る恐るですが行きました。駅からあまり離れないところ(なにかあったらすぐ逃げることができるところ)の飲食店で、なみなみと注がれたコップ酒と串カツなどを食べました。
 「フム、やや硬いこの肉が猫のものか」などと勝手に想像を巡らせながら食べました。
 一番の魅力はその安さでした。貧乏学生で、卒業しても安サラリーマンでしたから、味も何もまずは安いという魅力にはかないません。
 それでも酔いつぶれるということは慎重に避けました。
 パンツ一丁になりたくはなかったのです。

        
                   太閤通り南口から

 転居や転職などがあってずーっと駅西地区へは行く機会がありませんでした。
 状況が変わり、10年以上前から時折行くようになりました。
 ときおり観にゆく映画館が2、3館あるのと顔見知りのカフェも出来ました。

 しかし、その昔とは大変な変わりようです。
 おそらく、新幹線がこの駅西地区に面して走るようになり、再開発が進んだせいでしょう。私がかつてコップ酒をすすったのがどのあたりなのかもまったく検討がつきません。たぶん、駅西に広がる広場のあたりではなかったかと思うのです。
 現在目につくのは、駅近くとあってホテルの数々、大手の予備校、大型の家電店などなどです。

 しかし、ここまでに整備されるにはそれなりの悲喜劇や水面下での暗闘などがあったと予測されるのですが、なにせ、ほぼ40年というもの、この地区とはまったく疎遠になっていましたから、その過程は知るべくもありません。

        
                   太閤通り北口から

 それでも、へそ曲がりの私はこのすっかり変貌した街の中にかつての面影を残すものを求めてみました。
 そして以下のようなものを見つけ(?)ました。
 ひとつ目は誰でも気づきます。
 駅の西側(太閤通口といいます)へ出て交差点を渡り、私が時折行く映画館へ続く通りには、歩道も狭しと野菜や果物を並べた店舗があります。その隣は菓子類のお店です。その付近はその他乾物や肉や魚類を扱う店があり、ちょっとした市場をなしています。
 事実、この辺りへ仕入れに来る飲食店もかなりあります。
 いうまでもなくこれらは、戦後の闇市の名残りなのです。

 昔っからの飲食店もあります。
 さっき書いた知り合いのカフェがお休みだったため、偶然見つけた赤ちょうちんと色あせた紺の暖簾の店なのですが、店を切り回しているオバサンから常連のオジサンたちまで、古希過ぎの私が若輩者に見えるほどの年期の入った面々なのです。
 いろいろ話を聞いたのですが、異口同音に昔の方が良かったといっていました。自分たちの時代はもう終わったのだとも・・・。
 「でも、いいじゃないですか、こうして集まることができる店があるのですから」といったら、お前はいいことをいうとオジサンたちに褒められました。

        
                   黄昏迫る駅西広場付近

 もう一つは別の日です。やはり映画を見に行って時間が余ったので街をぶらついていたときです。中年のおばさんがスーッと近づいてきました。
 「オニイサン、暇そうね」
 「ええ、ちょっと時間が余ったもんですから」
 「じゃぁ、遊んでゆかない?」
 ようするにポン引きのオバサンです。
 近寄ってきた時からそうではと思ったのですが、まだまだ日が高い昼間のことで少々驚きました。
 このオバサン、守備範囲が広いようで、
 「私よりも若い子が良ければ紹介してもいいわよ」
 とのお申し出も・・・。
 「いいえ、あなたで結構です」
 といいたいくらい、そのおばさんは自然な主婦の感じでした。
 「いいえ、それほどの時間もありませんから」
 と辞退する私に、
 「そう、残念ね。今度またゆっくりおいでね」
 との優しいお言葉。
 こうして声を掛けられた経験は過去何度もありますが、まさか真昼間にという思いで、ああ、やはり「駅裏」の名残りなのかなと変なところで感心したのでした。

        
                     カタバミソウは強し

 今やトヨタの城下町といわれる大都会の名古屋、その駅近くにあるこうした風情には、コンクリートの間で懸命に根付いているカタバミソウのように郷愁をそそるものがありますね
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3 コメント

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Unknown (さんこ)
2011-08-10 11:02:43
確かに、60余年前の、駅裏は、恐ろしい所といわれた記憶があります。ガード下で、売春婦が殺されたりーーー。でも、活気もあって、そこへゆけば、なにやらほかでは売ってないものなどが売っていそうで、闇市へ行ってみたいな、と世間知らずなおばママは思ったらしいです。庶民の生きるためのバイタリテイが、あふれていたような。

もう、遠い記憶だそうです。おばママの母親が父親に、革靴を買って来たつもりが、翌日には破れて、ボール紙だったことが解り、父に叱られる母を覚えているそうです。でも、なすすべもなく、生活力のない父より、母は闇市でも、知らない人と仲良くなって、まずいけれども種芋の付加した野などを、手に入れて、4人の子どもを、飢えから救ってくれたと、思い出しているようです。どて煮などは、本当に赤犬の肉が、使われていたとか。

 栄養失調にもならず、戦災孤児にもならずに、生き延びたこの命、無駄だったのかなあ?なんて、ぼんやりとした視線を投げているおばママであります。
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Unknown (冠山)
2011-08-10 17:22:24
「駅裏」という言葉、なつかしいです。脂汗と垢にまみれた孤児、日雇いの組織化に懸命に働いて親しくなった友がいました。でも、ある日、彼はその手からもぞもぞと渡されたコッペパンを口にできなかった。それが、彼の戦後の活動、運動の総括でした。
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Unknown (六文錢)
2011-08-11 23:18:31
>さんこさん
>冠山さん
 都市周辺には殆どといっていいほどそうした地域があり、それは異世界への通路でもありましたね。
 それらはある種の憧憬であるとともに恐怖でもありました。
 とくに時代の極限状況においては、普通の市街地との落差は大きく、周辺状況をなしていました。
 冠山さんのおっしゃるエピソードもそうした背景で見ると極めてリアルな問題をつきつけていますね。
 私もそのパンを食べることができたかどうかよくわかりません。

 さんこさん
 人間は自分がまだ生きていなかった世界へ誕生として現れ、そして自分がもういない世界を残してそこから退場してゆきます。
 それだからこそ過去や未来などと関わり合えるともいえます。
 ですから「無駄」ということはないといってやって下さい。
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