ヨーロッパ一人旅の旅日記のようなものをダラダラと書いてきたが、それ以降一週間ほどなにも書いてこなかった。単調な生活に戻って書くべきことがあまりないこと、参加している同人誌の締切が迫っていてそれに没頭していることなどなどが重なったせいもあるが、いちばん大きな理由は、最近、あまり写真を撮っていないことにあるように思う。
どういうことかというと、私のブログ記事はほとんど絵日記のように写真が先行し、それに説明をつけるように書かれてきたものが多いからだ。
写真を撮っていないのは、冒頭に述べた理由と、続いた酷暑のせいでもある。ヨーロッパの涼しさに一〇日間ほど馴染んだ体には、この間の四〇度近い日々には恐怖すらおぼえた。
かつては(私の「かつて」はずいぶん前だが)、夏の甲子園が終わると急に秋めいたものだ。しかも、今のように暑さ対策もなかったせいで、大会の日程はトントン拍子で進み、敗戦記念日の前後にはもう決勝戦を迎えていた。
今年の場合は、決勝戦は23日で、それ以後、雨のせいもあってやや暑さが和らいだから、「甲子園が終わると夏の終わりの気配が」という私の固定観念は結果的には変わらなかった。しかし、その終了が一週間ほど遅くなっているのだから、その差異が温暖化の進行を現しているともいえる。
日本は「春夏秋冬」のけじめがはっきりついているから素晴らしいという人がいるが、それがいくぶん怪しくなっている。温暖化の拡張は、夏への入りを早くし、その終わりを遅くしているから、寒暖のグラデーションの期間、ようするに春と秋が短くなっているようにも思われる。
ただし、春夏秋冬がはっきりしていて素晴らしというのは、それに合わせた生活様式、風俗習慣が出来あがっていて、そのなかで生活してきた立場からの言い分であって、赤道直下や南北極に近い地では、それに合わせた生活様式があリ、その様式からすればその地に住む人びとには、その気候こそもっともフィットしたものだといえる。
その土地の生産性が云々とか、資源が云々とかいった経済的指標はともかく、生活者にとってみれば、いずこも「住めば都」なのであろう。
知らない土地をまわり、まさに人の多様性、複数性に触れてきたいま、自分の生活やそこから生じた考えなど、まさに地球の片隅の取るに足りないものではないかとも思っている。
そんな謙虚な?というか自信喪失的なものもあって、ここへの記事も滞っているのかもしれない。
やっぱり写真がないと、話が具体的なものに結びついてゆかない。おそらくこれが始めての写真なしの記事だろう。