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水田洋さん逝く・・・・103歳までご苦労さま

2023-02-07 00:04:50 | ひとを弔う
 この三日、アダム・スミスやホッブズさらには社会思想史などの研究家にして市民運動家でもあった水田洋さんが103歳で 亡くなられた。いろいろな筋から、この日が遠くないことを告げられていたので、覚悟はしていた。
 水田さんとは、特に師弟関係ということもなく、個人的に深い交わりがあったわけでもないが、私の20歳前後からいわば付かず離れずのお付き合いがあり、お元気な折の最晩年までお付き合いがあった。

       

 水田さんと私とは、ちょうど20歳位の年齢差がある。
 最初の出会いは、私が学生自治会の役員などをしていた1950年代の晩年、教職員勤務評定かあるいは警察官職務執行法改定かのどちらかへの反対闘争(それらはあの60年安保闘争の前哨戦とも位置づけられるものであった) を展開している折であった。私たち学生は教育、ないしは警察権の重要な変更の節目に当たって、 これらは先の敗戦の結果としてもたらされた戦後民主主義を後退させる脅威であるとして、反対の意思を固めていた。そしてその意思表示の形として、ストライキで もって闘うことも辞せずとしていた。

 そうした私たちの動きに対して、それを説得すべく学校側が派遣したのが水田洋さんであった。当時水田さんは、新進気鋭の左翼経済学者として、私たち学生の間にも広くその名を知られていた。思うに学校側は、 学生にウケが良いその水田さんを派遣することにより、私たちの闘争をより穏便に収めることを図ったのであろう。
 水田さんは語った。
「私もこの法案に反対である。 しかし、闘い方にはいろいろな方法がある。今諸君が選択しようとしているストライキは、いわば伝家の宝刀である。それを安易に抜くことは 許されない」と。

           

 「ナンセンス!」の声が飛んだ。 私たちストライキ派は、その声に励まされるように水田さんに反論をした。「伝家の宝刀、宝刀といっても、いつまでもそれを抜かなければそれは錆つき、単なるなまくらに堕してしまう。 必要な時に抜いてこそ伝家の宝刀であり、そしてそれは今なのだ」と。

 その折の、学生大会の結果がどうなったのかは覚えていない。当時の学生自治会運営は、後の学生たちからポッダム自治会 と揶揄されるほど民主的になされており、行動方針等は、一党一派の思惑を超えて多数決によって決定されていた。これが60年安保を経過して、多数の新左翼各派が それぞれの全学連=自治会を名乗ることにより、それが党派による複数の学生組織になってしまったのも周知の通りである。

           

 学生組織の話はともかく、これが水田さんとの最初の出会いであった。その後は学部の違いなどもあって交流する事はなかったが、極めて私的な話では、 私の義理の弟が水田ゼミに入り、その彼のさまざまな事情につき、その適性をめぐって水田さんと話し合ったことがあった。

 さらに 水田さんとの関係が深まったのは、いろいろあって私が名古屋は今池の地で居酒屋を開店した折であった。水田さんに最初会ったのは彼がまだ助教授(今の準教)の時代であったが、 それから何十年も経過したその頃には、名誉教授の称号を持ち、同時に各種市民運動の顔として広く名を知られていた。
 まさにその時代、今度は居酒屋の亭主である私と、そのいわば常連客のような形での 水田洋さんとの付き合いが始まったのであった。 個人的にもよく話を交わしたのはその時代であった。

 30年間にわたる居酒屋生活を終えて、岐阜の地に引っ込んだ私は、水田さんと会う機会もほとんどなくなったが、水田さんからは彼が主宰する同人誌「象」 が送られてきたし、私もまた自分が参加ししている同人誌を送ると言う関係が継続した。
 そんなこともあって、かつての 水田ゼミのメンバーが中心になって行われる勉強会=読書会に招かれることとなり、そこで再び三度、水田さんとお目にかかることになった。 水田さんが100歳になった頃であった。

           

 その会での水田さんはとても元気で、全体の討議に注意深く耳を傾け、しかるべき見解を述べるなど、今なお 現役を思わせるものがあった。その後の二次会にも、ご自分の足で数百メートルの距離を歩き、元気に飲み、そして歓談するのだった。
 私が参加するようになって以降、そんな機会が2度ほど訪れたが、残念なのはコロナ禍によってその会が中断されてしまったことである。 そしてその間に、水田さんは体調を崩されたようで、それがこの訃報になってしまったわけである。

 私は水田さんの業績をつまびらかに知るものではないし、また、その運動や思想の全てにわたって意見を共にしたわけでもないので、その業績を讃えたり、 顕彰したりする文章を書くことはできない。ただしほぼ60年間にわたり、付かず離れずのお付き合いの中で、これほど元気にその折々の課題に 取り組んできた人を知らないし、その意味では稀有な人であったと思う。

 もう少し、その晩年から見た水田さん自身の回想のようなものを聞きたかった。それは私が招かれたあの勉強会の二次会で可能だったかもしれないと思っているのだが、それが、コロナ禍で中断されたのは、かえすがえすも残念だった。

 なにはともあれ、水田さんの一世紀以上の生命を思い、その霊の安からんことを祈る次第だ。
コメント (9)
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