注意深く読み進めないと、作者が(そして登場人物が)慎重に隠しおおせようとした真相がみえてこない。この小説についての他の人たちの感想を参照してみたが、そこを読み取った上でのものは意外と少ないようだ。
にもかかわらず、肯定的な評価が多いのは、そうした「真相」にたどり着けないまでも、そこに描かれた状況の美しさ、趣の深さ、表現の鋭さ、などなどがそれ自体で読ませる豊かさをもっているからだろう。
350ページの長編で、登場人物もまあまあの数だが、物語は二人の女性が交互に登場する基本構造でもって進む。
その一人は、アイダホ北部の山地で、夫との間に二人の娘をもっていたのだが、下の娘を斧の一撃で殺害した「として」逮捕され(その際、長女はその場から逃がれ、行方不明になっている)、裁判にかけられたのだが、いっさいの自己弁護をすることなく、ひたすら有罪を認めて服役を望み、実際に服役中の女性である。だから、彼女の登場するシーンはこの刑務所の中と、そこでの回想シーンが主となる。
もう一人は、その犯人とされた女性の夫(事件後離婚)が再婚した女性で、その事件が起こった山中で暮らし、その場所を肌で感じながら、夫の記憶の中からその事件の真相を紡ぎ出そうとする。
ようするに、一人はその事件の真相を過去に葬り、ひたすら自分の罪として引き受けようとするのに対し、もうひとりはその事実を突き止めようとしているわけだ。
となれば夫たる男性がその鍵を握っているのだが、彼は遺伝的な若年性認知症と事件の衝撃とで、すっかり記憶を失い、自分が過去、誰かと結婚をしていた事実も、二人の女の子の父であったことも記憶してはいない。
しかし、彼の後妻となった女性は、いろいろな事象を組み合わせるなかで、どうやら事件の真相にたどり着いたようなのだ。
この夫も亡くなり、事件から30年後、二人の女性は出会うことになる。というか、真相を推察した女性が、出所した女性を心からのいたわりを込め、そしてその後の生活をも保証するように万端の準備をして出迎えるのだ。
それはまさに感動的なのだが、その前に、この事件の真相にたどり着いていなければその感動はかなり薄いものに終わるであろう。
二人の、さほど饒舌ではないラストのシーンは、二人が「それを」語らないままに、しかも「それを」共有しているという思いが込められていて、そのこと自体が感動的である。
しかし、何度もいうようだが、その感動の内容は事件の真相を知った、ないしは推測したものにより深く許されたものである。
はじめに書いたように、事件の真相はよほど注意深く読み進めないとわからないだろう。筆者は決して明示的にそれを書いてはいないのだから。
ただ、ヒントとしては、思わぬ怪我で片足を失うエリオットという少年、思春期に差し掛かった姉と妹とのちょっと屈折した関係、その辺にあることは書いておこう。
この小説の魅力は、明示的に書かれないこと、登場人物も饒舌に語らないこと、そうでありながら読者に静かな推理や連想をうながし、そこへ到達したものを深い感動へと導くところにある。
作者はアイダホ北部で育ったエミリー・ラスコヴィッチで、この小説は彼女の最初の長編小説だという。そして2019年、英語で刊行された小説を対象とした最大級の国際文学賞、国際ダブリン文学賞を受賞している。
なお、書名の『アイダホ』が示すように、そこに登場する人物なども含めて、なんとなく土地の匂いが満ちているようで、それは作者自身が育った土地の反映でもあるようだ。
『アイダホ』 エミリー・ラスコヴィッチ 訳:小竹由美子 白水社